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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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煙台(芝罘)にいた宗方小太郎

清朝末期の日清戦争の前夜、スパイであった宗方小太郎は日本海軍からの電報により、湖北省漢口から芝罘付近へ二ヵ月秘密裏に潜伏していた。

彼は芝罘の日本領事館のスパイ網に協力して、清国北洋艦隊を主な目標とする軍事診察を実行した。期間中、彼は二度威海衛軍港を訪れ、清国北洋艦隊の動向を日本国内に何度か密告した。日清宣戦布告後、在芝罘日本領事館の外交官や在外日本人はほぼ撤退し、宗方一人が煙台に残った。彼は所在(スパイ活動)が明るみになった後、彼は船で煙台から離れ、幸運にも清国の逮捕を避けて、脱出に成功した。

清の同治10年7月(1871年9月)、清国と日本は国交を締結し、駐芝罘日本領事館は光緒2年4月(1876年5月)に設立された。煙台は当時山東省で唯一の対外貿易港であり、中国北部の海防の要所でもあり、各国、特に日本のスパイの重要な標的となった。

日本側史料によると、常駐または過去の日本のスパイは揚子江に生息するフナのように、煙台とその周辺地域の地理、交通、物産、兵備、政情などを系統的綿密に「調査」した。

例えば、芝罘領事館の武官松本大尉は、宗方を協力者の一人として、主に中国海軍の状況を診察していた。また、参謀本部は芝罘に武官の小沢徳平、渡辺鉄太郎を派遣して、中国大使館の青木宣純らの協力を得て「天津沿岸兵要地誌」の執筆(しっぴつ)を完成させた。日清戦争の一年前、川上操六参謀総長が軍官として中国に訪れていたが、実は小沢徳平を伴うものであった。戦争が勃発すると、帰国した小沢徳平は選ばれて参謀総長となった。参謀本部はまた、木村丑徳を清国に派遣した。光緒16年(1890年)に山東省に入り、地図を測量したが、これはその後、日本軍が威海衛作戦を実施する上で重要な役割を果たした。この人は日清戦争中は遼東半島作戦に参加し、兵站司令官を務めた。日本海軍は後を取ることなく、また多くのスパイを派遣して、膠東沿岸の第一線を専門に活動した。この内、中国駐在海軍武官関文炳大尉は嘗て実業家を装い(よそおい)、北洋艦隊、砲台、威海衛、膠州湾の兵備、交通・港湾状況を偵察し、日本海軍に「威海衛及栄成湾意見書」を作成して報告した。

以上いくつかの例は、日本があれこれ作を練り(ねり)、一連の情報準備を進め、「彼我の情勢をよく知る」という軍事的方面から見て、日本は間違いなく日清戦争に先手を打っているのである。

宗方(小太郎)は1884年秋に来華。まず上海で中国語を学び、同時に中国問題を研究した。彼は1886年に湖北省漢口楽善堂に招かれ、スパイ生活を開始し、スパイの顔役荒尾精の下で重要なメンバーになった。漢口楽善堂は、日本国家を背景としたよく組織されたスパイ機関で、厳格な「堂規」があり、そのメンバーには、内部・外部のメンバーの区別から構成されていた。彼らは上海、長沙、重慶、北京に支部を構え、同時に清国の裏切り者を情報人として買収一線に当たらせたので、スパイ網は、清国全土をほぼ覆っていた。宗方は北京支部のスパイ活動を指揮し、清国政府と直隷、山東省,遼寧省の軍事・政治情報の調査を担当した。この期間、彼はしばしばビジネスや旅行を装い、平易な満州式の服を着て、中国人になりますし、内地や沿岸の兵備の要地を深く偵察し、重要な情報を大量に入手し、失敗することがなかった。

1890年、宗方は上海に戻って、その年に設立された日清貿易研究所の学生監督を担当した。この学校は名こそ日中貿易を研究する学校であったが、実際は日本のスパイ人材を育成していた。

1893年6月、最初の89人の学生が終了したが、参謀長の川上操六の訪中と重なったが、彼は清国との開戦を提唱してきた強硬派の人物で、自ら失業式に赴き訓話した。その後、大多数の学生が日清戦争に参加し、清国を侵略する日本軍の危険な要素となった。またこの年から、宗方は海軍大臣西郷従道から託され、直接海軍軍令部に情報を送った。宗方は情報収集に非凡な才能を現し、清国の多くの問題を深く観察し、分析・判断し,彼は清国にたくさん来たスパイの中の「逸材」であった。

1894年6月26日、漢口で活動した朝鮮情勢を見守っていた宗方は、日本海軍軍令部島崎好忠から緊急の電報を受け、芝罘領事館井上敏夫少佐の派遣を受け入れを命ぜられた。宗方は翌日の夜、招商局汽船「江寬」号に乗り、6月30日午後に上海に到着した。上海に宿を決め、彼はスパイと頻繁に密会し、島崎良忠に経過うを報告した。7月2日の夜、彼はまた招商局汽船「豊順」号に乗り越え煙台に向かい、7月5日午前9時に無事に到着した。

宗方が煙台に潜入した日、すなわち、在煙台日本領事館の伊集院彥吉、武官井上敏夫少佐らと面会し、威海衛軍港の捜査を協議する任務を引き受けた。宗方日記によると、彼は日清関係が決裂し、両国が戦争を開始し、北洋艦隊の動きを真剣に把握することが最優先事項であると確信し,威海衛に危険を冒す行く決心をした。煙台から威海衛軍港まで、多くの交通の要所に清軍が駐留し、特に威海衛軍港は厳重に警備され,日本のスパイによって恐れ道と見なされている。宗方行前の日記は「余は明日、敵を探偵する為に威海衛の軍事港に密かに旅行し、中国人情報人を連れて行きたいと思っている、誰もリスクに対応しません。余は一人で行くことに決め、きちんとした服を脱ぎ、粗い布の服を着て、蕭然も野人のように行くことを決めた。夜は冷たい頭痛がし、立ち上がらない。7月8日未明、大雨が降り,晴れて,宗方が病気で出発した。

宗方日記は、その2つの威海衛の旅が村や街を通り、キャンプに足を踏み入れたことなどを詳細に記録し、日本のスパイ活動の特徴と規則性を明らかにしている。

宗方は初めて威海衛に赴き、寧海州を通り過ぎても駐留せず、東に5里、10戸余りの小村の宿をとった。翌日は千戸以上の大村上荘を経て、更に酒館村を通過。途中で再び雷雨に遭い、威海衛から42里離れた鹿道口村に宿泊した。3日目は晴れ、宗方は威海衛に到着し、西城門内の小旅館に宿泊した。夜になると、彼は密かに楼上に登り、港を通過する灯りで船の数を判断した。翌朝、彼はまず東城門に登り、再び港湾の様子を窺うと、10隻の軍艦と3隻の魚雷艇を確認した。偵察活動は正午には終了し、彼はそそくさとその場を離れて、ヘトヘトに疲れて宿に戻った。翌日、彼は日記に「宿から出発し、上荘で一休みし、午後は寧海州を過ぎたあたりで,大雨となる。雨の上がりのを待って出発し、10里進むと、大雷雨となった。先に進んだ河(辛安河)を首まで浸かりながら渡るが、水流は激しかった。夜は寧海州から15里離れた西譚家村に宿を取る。本日は一貧人と同道であったが、銭百文を与え、夜はそれぞれ寝食を取った。」と記している。

宗方この偵察は、途中で大雨に遭い、病を抱えての仕事で、道中非常に辛酸を嘗めた(なめた)。

日記が数日間欠けているが、後続の日記によると、彼は芝罘領事館に戻った後、すぐさまその筋の中国人を威海衛に送り軍事情報を探らせた(さぐり)。7月18日、派遣された中国人の情報筋は、威海衛港に停泊する北洋海軍が戦闘態勢に入り、近日朝鮮を支援する船を派遣するという重要な情報を持ち帰った。緊急の事態を踏まえて、宗方は再び威海衛に偵察を決心した。22日、彼は一日85里を急行し、孟良口に宿を取った。この小さな宿場には2戸の家しかなかった。翌日彼は威海衛から15里のたった一軒の民家に泊まった。24日早朝、彼は威海衛に到着し、まず軍港の軍艦の数を調べ、その後、百尺崖などで陸上砲台を踏查した。その後帰路につき,26日に煙台へ戻ったその日、宗方は日清で豊島海戦が勃発し、日本海軍が幸先よく勝利したというニュースを知った。

宗方の二度の威海衛での行動は極秘で、限度があった。その行動の特徴の、一つは、極力繁華街を避け、辺鄙な小村の宿を選択することである。上荘は千余戸の大村で、煙台と威海衛を往来するのに必ず通過する地で、宗方は短時間ここに留まった。

二つは二度の行程で選んだ宿に重複は少なく、鹿道口村にだけ2回宿泊、1回目に行った時と二回目に帰った時に、人に疑いをかけられないようにした。三つは、中国人には高度に警戒して、第一回目の帰路には地方人と同宿したが、銭100文を与え、寝食を分けてもらい、会話もそこそこにして、漏れ出しやぼろを避けた。宗方はまた、軍事目標の偵察にも人にすぎるものがあり、何度か 日本海軍の情報を密送したが、彼の洞察や判断、総合的な分析能力は、対策や提案にまで及んで、超人的なスパイの本領を発揮した。

第二回の威海衛軍港偵察を終え、煙台に戻った後、休養しなかった。宗方は翌日の早朝に天津に向けて「武昌」船で搭乗し、そこに駐留する重要なスパイと連絡を取った。

彼の目的は、任務、情報交換、資金の受け取りに加えて、主に日清宣戦布告後の偵察活動の調整ステップに対応し、スパイ活動に協力する為に清国の情報筋を使用することを合意した。天津で僅か一日で、石川ウーイ、瀧川、山田らと密会し、石川ウーイとスパイの頭領である神尾少佐に会いに行った。

7月31日午前、宗方は煙台に戻る。彼は朴十という中国筋の人間を連れて帰ったが、その日に威海衛偵察に派遣させた。宗方は北洋海軍に目を光らせているだけでなく、北洋陸軍の配備や部署にも大きな関心注いだ。彼は、清軍の遼東での軍事動向等の重要な情報を得ようと、清国人の胡五を速やかに上海に送り、上海に駐留する日本のスパイと替え日本国内を回らせた。

8月1日、日本駐芝罘領事館は、外務省より「中日両国の正式な宣戦布告及び中国に駐在している外交官とその他駐座員の国外退避」の電報を受信した。

8月4日午後、芝罘領事館閉鎖、アメリカ領事館が代行業務を行う中、煙台の日本人駐座員及び天津駐座員(前期赴任の一団)の国外退避を行った。宗方は、清国人の身分を偽り(いつわり)、領事館の監視の名目で煙台に残留した。彼は「宗玉山」「宗鵬举」「鄭如霖」など、数多くの偽名を状況に応じて使い分けた。日本駐在員国外退避の当日、芝罘領事館領事の井上敏夫は宗方に対し偵察任務の継続を要請、活動資金を渡し、日本国諜報機関が派遣した清国スパイ達の統制指揮を行わせた。8月5日、宗方は北洋海軍の補給船が威海衛から煙台港へ寄港すると察知、威海衛の軍備状況を把握する為に人を派遣し、北洋海軍の人員配置や威海衛から成山衛の通信回線を開通したもの情報を入手した。8月6日、天津から退避した日本船「通州」号が煙台港に寄港、宗方は使いを出し、使いの者を乗船させ函件などを送り、中島雄から第十一号報告書を手渡した。

この日、瀧川海軍大尉と中島雄からそれぞれの連絡で、天津の石川伍一らが清軍に追跡されていることを知った。

瀧川は石川伍一の身元が暴露(ばくろ)した顛末を詳細に告げたので、宗方は状況の危険を予感し、すぐに身辺の機密文書を整理して隠し(かくし)た。彼はまた新しい服を用意し、官邸で不測に捕獲されても、英傑に整えた衣服で死ぬ覚悟であった。ある夜、招商局煙台事務所と登莱青道役所の職員が取り調べに来たのを、宗方は聞いて機敏に避難した。日清戦争中、アメリカは在清日本人の保護を前面に出していて、清国と地方官庁は日本に関係する問題を慎重に扱っていて、これはまた宗方が煙台に潜伏した大きな後ろ盾とする要因であった。

その後の数日で、宗方は頻繁に威海衛、旅順の軍事状況を偵察する為に幾人もの情報人を派遣した。10日、「武昌」号は煙台港停泊し、宗方はその船に乗船していた白岩に託して第十ニ号報告書を上海に送付した。その後の高某が威海衛の偵察から帰り、宗方は北洋艦隊の最新動向を報告書第十三号に書き、翌日午前入港した船便で上海へ密送した。煙台・威海衛両方の情勢は日増しに厳しく、威海衛軍港は既に日本連合艦隊によって砲撃され、煙台市場は混乱し、人々は恐怖に陥り、多くの富豪は家財を疎開させた。宗方は危機にも乱れず、毎日のように北洋艦隊と清軍陸軍の動向を探った。14日、彼は鎮遠、定遠、経遠など8隻の艦船が出航し、すぐさま北洋艦隊が大沽、旅順等を巡航するという情報を獲得した。17日、彼は通常の郵便で報告書第十五号を送った。19日、上海からの手紙には、宗方が第十ニ報告書を未だ受け取っていないとあり、それは彼に不吉な予感を与えた。21日、石川伍一が処刑されたという知らせを受け日記に「天津に潜む石川伍一は、遂に政府に捕らえ、豚野郎の毒刃(どくじん)にやられた、二度と失ってはいけない一世の快男児であり、、死肉を食む苟安の惰夫を愧じるに充分である。我はその死を受け入れ、彼が日本男児の真の姿を示すことを望むのみである。」と書いた。我が身を案じた宗方は、石川伍一が処刑された様子を聞く為に高某を天津に派遣した。ただし彼に返答がある前に、包囲網が降りかかろうとしていた。

宗方のスパイ能力は群を抜き、偵察活動の綿密だけでなく、知的な洞察力に本領を発揮した。彼が提出した報告書は、その見解には常に独自の対策と提案があった。

宗方の第十一号報告書では、北洋海軍は牙山で敗北した後、海上での積極的な攻撃作戦を断念し、代わりに軍事港を頼る海上防衛を主とする戦法と判断している。それで「今日の急務は、我が艦隊が渤海海口に突入して、北洋艦隊の力量を為して、彼らが勇壮であれば威海衛、旅順作戦に打って出、出ないのであればそれは臆病とみるべき。我らがもしも進んで威海衛、旅順を攻撃するのは甚だ不利で、寧ろ海面に引き出して雌雄(しゆう)を決するべきである。」と提案している。宗方は清軍の戦闘力に納得していなかった。彼は「われわれ日本人は清国を重視しすぎて,武器、軍艦、財源、兵数の統計比較で勝敗を断定しているが、精神面では完全勝利している」と分析した。

石川伍一は天津で捜査網にかかったので,宗方はこの事が収拾する前に、却ってがつスパイ活動を激化し、2日連続で市街外に出て偵察活動を行った。

8月26日午後、上海のスパイ機関は突然使者を送って来て、自身の行動が漏れたことを知らされた。海軍司令部からの使者は、情報書12号と15号が上海で傍受(ぼうじゅ)されたと伝え、彼にすぐ煙台から避難するよう命じた緊急の電報を伝えた。旅順、膠州、天津に派遣された偵察は、まだ煙台に戻っておらず、宗方は2日間留まらざる得なくなり、予後を画策(かくさく)せねばならなかった。彼は上海からの使者と怡和洋行の旅客船「連昇」号に乗船し、煙台を離れた。

宗方は煙台から避難する命令を受ける前に、登莱青道道員劉含芳は南洋大臣劉坤一から書簡を受け取っていた。

劉坤一は、上海捜査官沈敦和は宗方が上海の田鍋安之助に送った第十ニ号情報を掠奪していて、そして、日本のスパイの迅速な逮捕するよう告げた。8月23日、劉含芳はこの状況を旅順ドッグ事業総務龔照璵に知らせて、軍事情報漏洩(ろうえい)の厳重保護と、秘密捜査で宗方とその筋の人間を捕まえることを求めた。まもなく宗方が煙台を逃れるまで、清国は遂に何も起こさなく、法外で自由にさせたのは、全く清日反スパイの不手際であった。

宗方日記の記載によると、彼が駐芝罘領事館を離れた時、既に中国に探知されていた。進退窮まった(きわまる)が、彼は断然進んで退かず(どかず)考えを抱いて、危険を犯して船に乗り亡命した。

不運にも、船形は「連昇」号客船の上層船室で、湖南の4人がこの船に乗っているのを見つけ、下層に下りて不測の事態を防いだ。不都合なことに、隣接する前の船室にはこれもまたよく知っている長江水師提標親軍中営把総の蔡廷標が見えた。彼は解決策を何度も考えた。避難できない状況で、彼は先制することを決め、船が出る前に蔡廷標に会い、その口を封じることにした。果たして、面会すると蔡延標は驚きの余り一言も発せなかった。宗方は「両国は開戦した」と言うと、蔡延標は冷ややかに「本当なのか、私はまだ聞いていない」と答え、宗方との会話を止めたがっていた。宗方は続けて「僕は一書生にすぎず、幸いに本国に官職もなく、旅行を楽しんでいるだけである。今日ようやく上海に戻るのは、混乱を避けるためだけなのです。」と言った。蔡延標はため息をつきながら、「危ないよ、君の生死はこの船上にあるんだよ、君はまだ政府が君達に数百金の懸賞を懸けていると聞いていないのか」と言った。宗方は声色も変えず平静を保って蔡廷標に「乗船の人に僕が日本人であることを言わないでくれませんか」というと、蔡廷標は「最もだ。もし君が日本人だと告知(こくち)したら、恐らく二度と君に会えなくなるだろう」と答えた。宗方は明らかになった蔡廷標の態度に念を押して、「僕は今日のことを誰にも言わないので、あなたも秘密にして欲しい」というと、蔡廷標はしぶしぶ喋らないことを引き受けた。

その後、上海の官府から、乗客を逐一尋問する為に船に役員が派遣された。宗方に尋問が及ぶと、にわかに和記洋行の職員で,湖北蔡甸の人間で、姓鄭、故郷へ帰る為の乗船であると答えた。

午後3時、船は煙台港を出港した。宗方はどこでも注意し、顔見知りとの出会いを極力避けて、幸い30日は終日無事であった。31日10時頃、船が吳淞口に入ると突然停船し、船中の乗客が軍人が日本人を捕まえに来ると騒いでいた。宗方が甲板(かんぱん)に出て窺うと、三人の中国役人が三人の西洋人を雇ってボートから乗り込んで来るのが見えた。彼は退却するのはかえって他人に疑念を抱かせるので、かえって捜査員に嘘をつく方が増しだと考えた。役人が船長に「日本人の宗方は船に居ないか」と問いただしたが、船長は船上に日本人がいることを知らなかった。役人はまた「宗方はもう返送して名を変えているかもしれないしれ、そいつは色白で大目である」という。西洋人も問いただしたが、船長はまた船上には日本人はいないと声明した。宗方は先に甲板に出ていたが、船室内の乗客は一一尋問を受けた。宗方は今回の危険な脱出について「芝罘からの脱出時には危険から免れ(まぬかれ)、船中ではまた免れ得ない境遇に陥り、吳淞でもまた最後に危険が迫った」と書いている。四回の危険にも逮捕されず、顔知りが五人も乗船していても見破れることなく、実に天の恵みがあったとしか言えない。

宗方はずっと肝を冷やしながら、31日正午に怡和桟橋に上陸、すぐさま日本のスパイ田鍋安之助の住所に向かった。

その後、上海の何人かの重要な日本のスパイと密かに取引し、得た軍事情報を分析し、中国の情報人高某を上海に呼ぶことを決定した。人の耳目(じもく)を避けるため、上海の日本人スパイ間の連絡は書信を持ってし、身の隠匿(いんとく)をはかった。宗方は9月7日の晩まで上海に身を隠し、英国汽船「アンセス」号に乗り、船は翌日未明に出航した。帰国の日本人は150余人であった。11日前長崎に到達した。

9月16日、日本に帰った宗方は天皇陛下の謁見を賜ると知らされた。10月14日、彼は大本営に赴き、まず有栖川親王に謁見し、そして海軍大佐角田の随行でって大本営御座前で天皇陛下に謁見した。彼は命により中国服を身に着け、角田は其姓名、略歴を隈なく(くまなく)報告したが、天皇は大変お喜びであった。宗方は日記に「僅かばかりの功績が天皇陛下のお耳に届き、ただ一介(いっかい)の民間人が、この緊迫した軍事に、栄光中の栄光を拝謁したことは、実に感涙の極みである。」記している。宗方は日本に帰っている間、中国で進めたスパイ活動の敬礼を根拠にして『中国大勢の傾向』を訂正し、「対華迩言」を著して日本の清国進出と日清交渉の為に、大本営に献上して、後に日清で締結した「馬関条約」にも影響している。1895年3月、宗方は新しく任命を受け、連合艦隊と共に台湾へ南征し、スパイ活動の新しい冒険の旅を開始した。

煙台 芝罘歴史研究会  作品

煙台 楊潜       編集