山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

中国山東省旅行、野球友好交流旅行、ゴルフ旅行、中華文化、歴史故事、中国野球、健康。

ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
当社の日本語WECHAT ID:18660355510。当社の日本語対応WECHAT IDを追加し、チャットでお問い合わせも可能です。

百年前の煙台

百年前の煙台は如何(どう)であったろうか。当時の煙台人はどんな生活であったろうか。イギリスの有名な女流作家アルチバード・リトル(1854ー1926)は、私達に幾つかの手がかりを与えました。

1887年、リトルとその夫が中国に着いて、その後の20年間、リトルは中国の多くの地方を歴遊し、積極的に理解して中国社会の実態を研究し紹介した。1901年に出版された「The Landof Blue Gown)(青いチャイナドレスの国柄)の一章に、8月の煙台が紹介されている。

この記事は煙台の四つの方面の状況に関係している:

自然環境。煙台の自然風景はリトルを大変陶酔(とうすい)させた。リトル夫人が煙台を旅行した時、まだ19世紀の末頃であったが、夏秋の変わり目の8月だったので、彼女は本の中で煙台の気候について:「煙台の景色は人を虜(とりこ)にする。八月の煙台は蒸し暑いが、空気は新鮮で、青すぎる大海がある。」「個々の天気には何も文句がない、天気はとても涼しく爽やかで、一日外に居ても冷えを感じず、夜分に屋外で過ごしても、風を心配することはない」と書いている。当時の煙台にはまだ電灯がなく、ただ満天の星空と一輪の明月(めいげつ)に照らされた、煙台の夜は特別に明るかった。

煙台の美しい風景はリトル夫人に素晴らしい印象を残していて、彼女は書中に書いている:「回廊から目をやれば良い景色である。回廊の欄干と遮光の葦簀から、見える紺碧(こんぺき)の海、視界の尽きるところの島影(しまかげ)や灯台、左の方には平屋に覆われた小山や水面から飛び出す岩礁(がんしょう)、引き潮には、海面に緑色の影がちらついている。私はそれが変化していくことに惹かれるのである。カトリックの修道女達、その色白な顔色生き生きとして、薄にび色の修道服をつけ、薄にび色のウインプル(頭巾)をひらひらとさせて、白無垢(しろむく)の天使のように、海辺の岩場や浜辺を通り抜けていく。朝陽が海面に登る頃、灯台は光りを落とす。夕靄(ゆうもや)に沈む頃、灯台はまた光る。(刻々と変化する)この全てを、私はベッドに横になりながら眺めることができるのである」

煙台の岩石。白い大理石、ピンク色の石灰岩、きらめく赤い斑点の雲母(うんも)岩もまた魅力的であった。

市街。煙台の石造建築はリトルにとても印象深く映った。これらの建築は不揃いな大量の石塊(いしくれ)を用いて、その隙間にはモルタルを埋め込んだ高大堅固(けんご)なものであった。リトルは「ヨーロッパ喉のような立派な城より、煙台のひどい石像建築の方がよっぽど丈夫である」と感嘆した。

煙台の当時の遊楽は、主に寺院巡り、島巡り、煙台山登山、乗馬、水泳、ボートなどであった。リトルは塔山山頂に登り、煙台の美しい夕景を楽しんでいる。

このほかリトル夫人はまた当時煙台が西洋人の娯楽の社交場として提供した芝罘倶楽部について「ヨーロッパ人は、煙台が爽やかで風通しの良い、満足の行く倶楽部を作りあげようと、能力の限り力を尽くした。この倶楽部は考えを一新し、早朝には婦人方に開放された。そこには、一つのテニス倶楽部と異なる信仰を持つ大方(おおかた)の人を満足させる大小の教会があった。煙台のヨーロッパ人にはたびたびゲストがあったし、よくもてなしていたが、ホテルの前で泳ぐ中国人にまで気をハラハラと使わねばならなかった。芝罘倶楽部は、また煙台外国総会とも称し、イギリス人によって1865年に創建され、煙台の外国居留民に公共娯楽を提供する場所で、現在残る歴史の画像から見れば、19世紀末期の芝罘倶楽部は既に(相当の)規模があった。

だが現在我々が目にする倶楽部の姿は,1931年に全面改築されたものである。

民衆。1858年、煙台は貿易港に画定した。しかし40年たって、リトルが煙台に着いた頃でも、煙台の民衆は自給自足の生活で、競い合うこともなく、ゆったりのんびりとした西洋であった。(民衆が)外国人と商売をしてお金が儲かる場合でも、煙台人はあまり積極的でなく、かえって興味が無いというほどであり、外国人が出かける際に必要な輿(こし)や馬やロバ、砂浜でも椅子や休憩所が必要なのに、とリトルは書いている。彼ら(外国人)は、このようにお金を使いたくても、このような仕事をする意思のある煙台人は見つからないのである。

リトルは煙台の当時の衛生について、住民は汚水を散らかし、街中を臭気が漂って、煙台の美しい自然環境を台無しにしていると批判している。

リトルが描写した煙台の言葉は多くなかったが、かえって生き生きとして面白く、百年前の煙台の姿を鮮明に我々の目前に見せてくれる。そう言った意味では、リトルは煙台の歴史の一証人であると言えよう。

宣教師。煙台の宣教師は多くないが、リトルは特にジョン・リヴィグストーン・ネヴィス(1829-1893)宣教師の名を挙げている。彼はアメリカ梨の一種を煙台に持ち込んだ。この梨は九月に熟して、みずみずしくて味がよく、口当たりもよく、市場でも高い知名度と価格で取引された。ネヴィすはまたアメリカの葡萄も煙台に導入して、大成功している。リトルは、彼女が食べた葡萄で、煙台の葡萄が最も美味しく、ヨーロッパで最高の葡萄産地で最盛期に取れた葡萄でさえ、匹敵する方法がないと書いている。宣教師はジャガイモも煙台に入れている。

当時、煙台は中国北部の重要な対外港の一つとして、欧米の多くの教会団体が煙台で頻繁に活動していたが、リトル夫人は「煙台の宣教師が多くなかった」と記している。

宣教達の活動について、彼女は「煙台での宣教師の活動は四つの成果を上げたが、彼らの本意は中国人の信仰を変え、キリスト教を進行させることであった。彼らの活動がどれほど影響があったのか、私には分からないが、宣教師達が伝道のほかにどれだけ優れた仕事をしたのかに注意を払わないわけにはいかなかった。アメリカ長老派教会のネヴェス牧師は煙台に梨を植えたので、毎年九月になると煙台の旅行者は皆ネヴェスに感謝するのである。この梨は果汁(かじゅう)が多く味も好く、口によく馴染ん(馴染む)だ。当地の中国人はこの梨を植えて、市場で販売した。この梨の普及と、価格の高騰に従って、中国人が次第にカトリック(キリスト教にあたる)に帰依(きえ)するようになった。この善良(ぜんりょう)な牧師はまた葡萄も導入して植えたが、私が食べた葡萄の中で、最も甘美(かんび)で最盛期のマデラ種やメルロ種も比肩(ひけん)に及ぶものでなかった。カトリックの宣教師はジャガイモをも中国に導入した。」と書中に記している。リトル夫人のこの記事は、非常に簡略ではあるが、彼女の認識していた「宣教師の活動は四つの成果を上げた」というのが具体的な何かを知ることができないが、少なくとも二つの情報がある。一つは当時西洋の宣教師が中国に訪れて非宗教の社会活動の従事したが、本質は宗教の普及の目的とは不可分で、だからそうすることで「その高い価値と言えばますます多くの中国人をカトリックに改宗すること」がやっと成功するということ。二つに西洋の宣教師が布教中には、確かに当地の経済社会の発展期も一定の促進作用を引き起こして、中外に称賛される煙台のピーナッツ、りんご、ブドウなどの農産品も、確かに宣教師達が19世紀後半に宣教師達が煙台に導入したものであること。文中に言及の「アメリカ長老派教会宣教師ネヴェス」は、煙台近代史上の大変重要な人物である。

ネヴェスは1829年にニューヨーク州で生まれました。

1853年,プリンストン神学院を卒業したネヴェスは、アメリカ長老派教会本部に、自身を中国への派遣する要求を申請書として提出したが、長老派教会はこれを承認した。そこで、新婚2ヶ月の妻を伴い、中国へ向けて出発し、4ヶ月以上の航海の後、1854年2月に中国・上海に到着し、すぐに寧波に向けて出発し、中国での布教活動を始まった。1861年,ネヴェスは山東省登州に至り、布教活動を始めた。登州の布教中、ネヴェスと夫人は共に協力して、山東省初の女子学校である登州女子学校を設立し、教育の先駆となった意義がある。1871年、山東省煙台の布教に来て、布教のほかに、彼は山東省の気候、土壌などはアメリカに相似(そうじ)していることや、産出する果物がアメリカと違わないことに気がついて、果樹を改良する考えが芽生えたのである。彼は煙台毓璜頂の南東の丘陵地帯の10畝以上の土地を購入し、光興果園を設立、彼が若い頃に学んだ果樹栽培技術を利用して、果樹栽培実験を行なった。特に、アメリカから持ち込んだりんごを煙台に植えて、接ぎ木(つぎき)や育苗(いくびょう)などの方法で育て、特別な香味(こうみ)のある新品種を作り上げた。その結果、彼が栽培したりんごは大変成功して、近隣の州や県の人々がこぞって普及して、とても早く農家の重要な副業となった。。これは後に国内外で有名な「煙台リング」として有名となる。また欧米の梨、アメリカの葡萄、アメリカのチェリー(大きなサクランボ)、ヨーロッパのプラムなどの果実の苗木(なえぎ)をアメリカやヨーロッパから探し求め、煙台に移植して、このほか外国のフルーツが伝わった当初から、煙台は有名なフルーツにの都となった。1893年、煙台でネヴェスが亡くなりました。

リトル夫人は煙台に居留した時間は永くなかったが、彼女は様々な観察と体験を通して、当時の煙台社会と文化について、もちろん中国人の視点と違っていたが、同程度の理解を持っていた。偏見や錯覚も少無らず(すくなからず)、甚だしきは口から出まかせの産物であったりもするが、全体的には彼女の煙台に対する愛情から来ているものである。彼女のこれらの文字記録を通して、当時の西洋人が煙台を知る上で大きな役割を果たしただけでなく、同時に我々にも当時の社会に対する認識を新たにする、重要な文献資料を提供してくれる。

煙台晚報 作品