山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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李鴻章煙台で「鴻門の宴」催し

近代史上、中英「煙台条約」は「南京条約」「天津条約」の後に両国で締結されたもう一項の重要な条約である。

この条約はイギリス大使館の通訳オーガスタスレイモノド マーガリが雲南で殺害されたことに起因している。マーガリの殺害によって中英双方で引き起こった長引く外交紛争となった。マーガリ事件を終息させるため、大清国直隷総督兼北洋通商大臣李鴻章とイギリス公使サー・トーマス・フランシス・ウェード(Sir Thomas Wade) は、煙台で外交交渉を進めた。交渉中に、李鴻章は煙台潮州会館に七名の公使を招き、中国近代史上有名な「鴻門の宴」を催した。

光緒元年(1875年)、英国公使の特派書記翻訳官マーガリは、雲南省の現地人との紛争で殺害され、外交事件に発展した。史上「マーガリ事件」とも呼び、「滇裁判」「マーガリ裁判」とも呼ばれてる。1875年3月から1876年8月まで、清政府はウェード駐中国英国公使と1年半の交渉を行った。ウェードはその原因を清政府のせいにして、同時に、雲南省巡撫岑毓英らを北京で尋問し、地方税の減免(げんめん)や、通商港の増設や雲南国境交易の開放などなど、事件を越えた要求を提出した。清政府は多くの譲歩をしたが、イギリス側の提出した過分な要求の全部には答えるつもりはなかった。ウェードは絶えず使節撤退や、断交、武力による威嚇(いかく)など、多方面で恫喝(どうかつ)を繰り返し、中英交渉を膠着状態に陥れた。

この為、マーガリ事件の斡旋(あっせん)に関わった大清税関総税局のイギリス人ハートは、直隷総督兼北洋大臣李鴻章を交渉代表に推薦したが、その提案はウェードの承認を得て、北方の避暑地煙台で交渉を進めることに同意した。1876年7月28日、清政府は李鴻章を事の便宜の為、すぐさま煙台に赴かせ(おもむく)、ウェードとの会談と一切の事務を行う全権大臣として承認した。

1876年8月17日、李鴻章を特命勅使として、彼の率いる堂々とした団体は、「豊順」号と「鎮海」号汽船に分乗し、翌日煙台に到着した。この時、芝罘湾内には英、独、仏、米四ヶ国の軍艦が勢揃いして、色とりどりの旗をはためかせ、汽笛(きてき)を鳴り響かせ、威勢(いせい)が盛んで、黒煙が街を覆わんばかりの勢いであった。

その時中国税関の米国籍職員で、後に歴史学者となったホセア・バーロウ・モース(Hosea Ballou Morse) は次のように記した。「舞台は最後の一幕となった。中国側は大総督と出席代表の大学士李鴻章が出たが、彼にはこの40年来中外関係の顧問ロバート・ハートがいて、そして総督に20年間付き添った腹心顧問グスタフ・デッドリングをコンサルタントとした。イギリス側はウェードで、彼は北京に非常に悪い印象であったが、煙台では好印象を持った。海軍上将レイデルは、中国にあるイギリス海軍を指揮し、また海軍上将ランポートは派遣艦隊の指揮を取った。その他の人も彼らが夏の日を過ごすのに適した、この平らで柔らかい黄色い砂の海浜浴場に感動していた、これには、ロシア、ドイツ、アメリカ、スペイン、フランス、オーストリア・ハンガリーの外交代表たちが含まれている。

8月21日、李鴻章とウェードは煙台山の下の東海関税官庁で交渉を行った。

交渉が開始されると、ウェードの態度は厳しく、雲南省巡撫岑毓英らを北京に送り取り調べることを強く要求し、岑毓英が滇事件の首謀者であると説明する確実な証拠があると言った。ウェードは、この事が「許可されないならば、談判できない」と表明した。李鴻章は事前に厳命を受けており、岑毓英などの北京での尋問の許可が得られなかった。李鴻章は当然敢えて(あえて)返答しなかった。交渉は再び行き詰まった。

清政府から厚い期待を受けながら初めての外交に参与する李鴻章にとって、いかに突破(とっぱ)口を見つけるかが、この種の外交の難局を打破(だは)する当面の急務であった。

ウェードに圧力を掛けるため、李鴻章は「仲間意識を図って(はかる)公論を測る為に各国公使と連絡を取らざるを得なかった。」

李鴻章は、アメリカ、ドイツ、ロシア、フランス、オーストリアの諸使者と一一面会して、彼らと「談判を繰り返した」。そして、自らドイツの軍艦に搭乗し、そこから英国の鉄甲船を参観した。参観の時、李鴻章は「故意に暇を装っ(よそう)た」のである。アメリカ、ドイツ、ロシア、フランス、オーストリアの諸使者との面会の他は李鴻章は「慈安太后の長寿の祝いのため」という名目で、イギリス公使ウェードを含む七カ国の公使を祝宴に招き、その場で直接ウェードと正面接触し、彼に圧力を掛けた。

1876年8月30日(太陰暦7月12回)は、慈安太后40歳の賀である。

李鴻章は、太后の祝賀と称して、30日の昼に煙台潮州会館で、「西洋の例にならって」イギリス公使ウェードを始め七名の公使を招待した。

潮州会館は広くはなく、宴会に出席する賓客も多くはなかった。中国から宴会に出席したのは李鴻章の他、直隷候補道許鈐身、汽船招商総務唐廷枢、通訳曾蘭生である。外国方出席したのは、ウェード駐中国英国公使、バランダー駐中国ドイツ公使、西華駐中国米国公使、ベリーニーフランス公使、オーストリア・ハンガリー帝国全権公使のスフレイ、ロシア全権公使のブッツァー、駐中国スペイン公使のイバリ、イギリス大使館漢文正史シュメイリが出席した。また、ほかに英国の「中国艦隊」の司令・海軍上将レイデル、イギリス派遣艦隊「飛行艦隊」の海軍上将ランポートがいた。

宴会が始まると、主催の李鴻章がシャンパンで祝杯(しゅくはい)の音頭を取った。事の前に李鴻章は漢語で祝杯の言葉をしたため、唐廷枢が英語に翻訳した。

これは近現代の中国高級官僚にとって前例のないことであった。

李鴻章は語った。私は来賓の皆様がこの「小宴」にご来臨いただけたことを、非常に光栄で、また大変感謝しています。これまでに皆様とは楽しく面会させていただきました。しかしながらそれはそれぞれの単独面会でした。今回皆様とご一緒に面会できるのを楽しみにしております。本日は公務の煩多(はんた)を忘れて、わずかばかりの美しい時間を喜んで享受(きょうじゅ)致したく存じます。夏の煙台は、涼やか(すずやか)な風がそよそよと、美しい風景が、人の心をゆったりと伸びやかにします。この美しい場所は、人類の最も神聖な感情-友情と誠実さ−を育む(はぐくむ)のに最適です。この原則を広く推進し、皆様が代表する国家がずっと平和と友情を維持して、まるで兄弟のように相互いに親愛し続けることを心から願うものです。正に中国の古い言葉「四海の内は皆な兄弟なり」のように。そこで、私は、この陳謝の為に、この小宴にご来臨の皆様とご一緒に祝杯することを提案致します。

李鴻章が祝杯の音頭を取った後、その後は本日の宴会に出席した貴賓の健康を祝しての乾杯となった。

イギリス公使のウェードがまず立ち上がり盃(さかずき)を進めた。想像通り、目前の状況の特殊性は彼の立場を微妙なものにしていた。彼はまず煙台に来た外国公使達に謝意を表した。そして、太后の誕生日に、清国政府の傑出(けっしゅつ)した官吏殿の招きで、各国公使が一堂となり、将来の良好な発展趨勢(すうせい)について、よくよく考えさせられることとなった。この機会に、皆様と彼此れ意見を交流、交換したい。国と国、人と人の間で異なる利益や好みに関わらず、率直に語り、事実を証明するのに、この種の集会の優れた点は我々にあちこちの社会と対外交流の平等を我々に認識させるものである。

ウェードは続けて語った。恐らく私の提案は慈安太后のための祝杯には不適合かもしれません。ただ本日は、慈安太后四十の賀のため祝杯と、そして我らが同僚(その他の公使)による、内閣の大学士先生の祝杯を提案します。席上次々と入り乱れて祝杯が挙げられた。

その後、ロシア公使のブッツァーは、中堂卿(李鴻章)の健康の為に祝杯を提案した。ブッツァーは語った。中堂卿は活気があって進歩的だと世間で通っています。この頃、我々は北京から出発し(煙台へ来たが)、途中で清国の軍事的進歩を見てきました。軍事方面の新しい考え方の導入は、必然(ひつぜん)的にその他の方面の改革を促進します。もし相応(そうおう)の財政制度がなければ、この種の近現的な軍事制度は維持が困難で、当然文明的政治制度に関わりのあることであります。帝国内では中堂卿ほどこの道理を認識しているものは無く、中堂卿ほど熱くこの目標の実現を望む人はいないと、みな当然のように認識しています。

ブッツァーの発言は一座の客人から暖かい反響を得て、頻りに(しきりに)乾杯が起こった。

その後、李鴻章はそれぞれの客の祝杯に返杯(へんぱい)した。李鴻章の通訳の曾蘭生の助太刀(すけだち)で、イギリス海軍上将レイデルとランポートに返杯した。李鴻章はイギリス海軍の成功と隆盛を祝賀した。

「中国艦隊」司令官レイデルはこれに対して感謝と、また中堂卿が、先日英国旗艦「無畏」号を訪問したことに対し、大変光栄であったことを示した。

続いて、ドイツ公使のバランダーは、世界最年少のドイツ海軍の繁栄の祝杯を提案した。返盃するとバランダーは、世界最古の国家中国に祝杯を挙げた。

オーストリアとスペインの公使によるワインに同行して、李鴻章は駐中国のフランスの全権公使、ベリーニに乾杯しました。彼は、中国海軍の発展に貢献してくれた福建船政局(海運局)の計画を担当したフランス人のリーゲに感謝した。

最後に、李鴻章は中駐中国のロシアと米国の公使に乾杯し、駐中国の米国公使西華はそれに応えた。彼は、米国で勉強している清国の子供たちは、彼らの努力を通して専門知識を習得(しゅうとく)し、確固(かっこ)たる信念を育むだろうと述べた。彼らが帰国した後、彼らは清国と米国の間の友情を強化するための貴重な使節になります。

宴会では、各国の公使と李鴻章が「緣起の良い言葉でお互いを褒め合い⋯⋯地域社会は幸せ」と宴会の雰囲気は最高潮に達した。

昨日激しい対立の席に立っていた清国とイギリスの交渉者が今日の宴会で入り乱れて祝杯を酌み交わしているとは誰も想像していなかったでしょう。世には恒久的な宴会はありません、宴会の終わりに、新しいヨーロッパの武器で装備したの李鴻章の警備員は、潮州会館の両側にある2列に直立し、様々な国の使節が去るのを見ていた。

諺に言うと、酔っ払いの意図はワインではない。李鴻章は、慈安太后の誕生日の名義を借りた。

潮州会館の宴会は、表面的には、清国と西洋列強の友好交流について大きな話をし、その本当の目的は、ウェードに圧力を掛ける為に「欲激射英事」ことです。この宴会は、李鴻章が英国の公使ウェードの為に行った「鴻門の宴」でした。李鴻章のこのトリックはうまくいった。宴会中、ウェードは、英国政府を代表して彼が起こった要求は、他の国の公使によって一般的に受け入れられていないと感じた。宴会後、ウェードは李鴻章に個人的に試して、「雲南省巡撫岑毓英らを北京で尋問」は、民衆の議論であり、英国の朝廷もそういう意味がある、「私はここに行う必要がありません」と言いました。しかし、中堂卿は、妥当な協議を欲しければ、実用な方法を考え出す必要があります。明日、私は母国に報告する必要がありますが、これ以上遅くはありません、彼らは翌日の午後に話し合う約束をした。李鴻章はその後、北京に「ウェード公使の独り言、少し余地があるようだ」と伝えた。

その後の交渉で、李鴻章は「情勢転換」して、その他の方法として岑毓英などを北京へ引き出さない交換条件を出したが、それはウェードの思うつぼにはまってしまった。

ウェードは岑毓英を北京へ引きだす要求を捨てたので、ここに至って交渉はようやく順調に進んだ。李鴻章はその他の約款で清国の利益の為に最大の努力をしたが,それでも最終的には妥協を余儀なくされた。1876年9月13日、李鴻章とウェードは「煙台条約」に署名して、長引いた外交紛争に幕を引いた。

清英の「煙台条約」の締結は、清英双方に得るところがあったので、皆大変喜んだ。清国政府にとって、岑毓英を北京に引き出さないことは、朝廷のメンツを保ったのであった。これが最大の成功であった。

当時海外の報道も、清国がイギリスの交渉でイギリスの要求に抵抗しながら合意を達成できたのは、相当よかったと評価している。イギリス政府にとって、「煙台条約」の締結は、英国の商業の利益の拡大と治外法権(特に領事裁判権の拡大)の拡大であった。イギリスの商業利益方面では、イギリスの役人が大理まだは雲南その他の地方で五年間通商状況を検査し、宜昌、蕪湖、温州、北海を通商港として新しく開港し、揚子江沿岸の6都市を指定して外国汽船の停泊を許可した。「煙台条約」の実現はイギリスが長年拡大してきた清国での通商特権の夢を実現した。始めて外交交渉に参与した李鴻章にとって、「(政略的)鴻門の宴」は窮極を打破し、朝廷の面子を保って、充分に彼の外交手腕を見せることであった。これより、李鴻章は清国政府の首席交渉代表、事実上の外務大臣となった。

訳者注:1876年中英「煙台条約」が煙台で締結されると、外国列強が押し寄せ、その後中国は次第に半植民半封建社会に陥った。1895年清日「馬関条約」(下関条約)が煙台で改定され、清朝政府は主権を失い辱め(はずかしめ)を受け、領土を割譲し賠償金を支払い、清国をかつてない民族的危機に陥らせた。

煙台は、この屈辱(くつじょく)な歴史を自ら経験し証言(しょうげん)に立っている。

著者 煙台魏春洋