山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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威海衛水師学堂

1888年12月7日、7年以上計画の進められて来た北洋艦隊は劉公島で正式に発足されました。

島上には海軍役所、鐡埠頭、機械局、石炭所などの比較的な軍事施設を建設して、主力戦艦25隻、補助高速艇30隻、輸送艦艇50隻、官兵4000人を擁し、実力ではアジア第一、世界第九位の強さである。

しかしながら、看板は盛大で立派な北洋艦隊も李鴻章と丁汝昌はこれだけでは満足せずに、海軍軍人の才能を育成する水師学堂を準備することは彼らがやるべき切迫(せっぱく)した事情であった。

成立直後の北洋艦隊は、艦船は多かったが、海軍専門の軍人が不足していて、北洋艦隊軍人の人材養成クラスの基地である天津水師学堂を作っただけでは、遠くの井戸ではすぐに喉の渇きを癒せない(いやす)ように、ただ学校を同所に設立して、やっと現実的な需要(じゅよう)を解決できるのであった。また、威海衛は北洋の海軍基地であり、練習船を含む北洋艦船が通年ここに駐留しているので、同地に学校を設立することで即ち現地での入学訓練の需要を解決した。

1889年、北洋艦隊設立2年目に、李鴻章と丁汝昌は朝廷に上奏して、威海衛水師学堂設立を請求した。

奏請は清朝の批准を獲得して、学堂は1889年に着工して、建物は70室近く、2万平方米敷地面積で、地価と工賃に一万両を費やした。

学校の教育程度はどうであったかというと、科挙が正道と見なされた清朝では、多くの若者が水師学堂に興味を示さなかった。受験生の不足は清朝が設立した幾つかの学校の直面する大問題であった。

1899年冬、丁汝昌は北洋艦隊を率いて南方を巡回すると同時に、威海衛水師学堂の学生を募集した。艦隊は各地の何処でも短い停留であったので、船外で公開して学生を招集する時間がなく、募集したのは上海、香港、福州などで停留中に艦上の軍官が推薦した故郷の青少年であった。北洋艦隊の軍官は福建人が多く、よって招かれた学生も閩籍が多く、平均年齢は15〜18歳であった。

学校第一期生は正規学生36名、補欠10名、皆現在に私費学生である。1890年6月3日、学堂は正式に開講した。

北洋艦隊提督丁汝昌は学堂を更に重視して、自ら学堂総務を兼務したが、実際の責任者は学堂委員李維剛であり、総務は丁幼亭(後に鄭汝成)、教頭に鄭汝成、王学廉で、この二人は天津水師学堂の操舵(そうだ)科一期卒業生であった。外国語教習は馮琦、漢文教習に余芝春、譚家复。洋務教育はアメリカ人フィロ・マクギフンである。経営、教育、雑用の要員は59名で、月額公費593両で、敏捷、康濟、威遠、海鏡4艇の練習船を配した。

学堂の入学、教学、管理、賞罰などの規則は、皆天津水師学堂の規定に基づいたが、規模が小さいので操舵一科を開設したのみであった。ある意味、威海衛水師学堂は天津水師学堂の一分校とも言えよう。

規定によると、元は五年で卒業であったが、時間が大変短く、訓練不足であったので、後に半年延長となった。

学堂の教育課程の設置は、30余りの多くの科目であった。主要は教室と室外に二つに分けられ、教室では知識的学科をなし、漢文、英文、中外地理、中国歴史大綱、幾何、代数、物理大要、化学大要、天文学、航海学、海上測量、魚類学、動力学など、室外では技術的学科をなして、その科目の修養は個人訓練、歩兵技術、艦砲操作、機械操作、剣槍技術、信号学、帆船技術、隊列訓練、駐屯訓練、野外演習、弾道学、射撃実習、火器学、遠泳(えんえい)訓練、ボート訓練、登檣訓練(マスト登り)などである。

威海衛水師学堂は北洋艦隊基地威海湾内に位置し、北洋艦隊施設は共に訓練生の実習に利用され、一部は北洋艦隊の将校が指導を兼任していた。「近水楼台は先ず月を得(近所のよしみ)」るというように、訓練生は学習とともに、実際の操作練習の為に乗船した。また、訓練生は島外の威海武備学堂に行き」、半年間の砲術技術の訓練を受けた。威海衛水師学堂は天時、地利、人和の優勢を占め尽くした。これはほかの水師学堂とは比較するべくもなかった。

李鴻章は北洋艦隊の創設者であり威海水師学堂の提唱者でもあり、学生の状態に対して常に気に掛けていた。

1891年6月、彼が北洋艦隊を巡閲した時、公務繁忙で威海水師学堂を視察できずにいたが、通常通りに専門派遣員が劉公島学堂で、ただ学生の日々の学習の浮き沈みの様子や、筋力強化、幾何数学にとても暗黙的に精通するのを観察していた。

この学生たちの多くは福建省から来ていて、海軍に入る前には皆英語教育を受けたことが無かったが、特に短い期間に航海技術と武器操作、特に難解煩雑(なんかいはんざつ)な専門知識を学習すると同時に、また英語の学習を掛け持ちすることの、その学習の大変さと辛さは推して知るべし(おしてしるべし)である。アメリカから発見したマクギフンが1892年に威海水師学堂へ勤めた時の試験の一部から、学生の学習事情を垣間見(かきまみ)て全容を知れたことは得難く(えがたく)珍しいものである。

答案用紙は西洋講義のマクギフンは主に航海技術と基本理論を教授して、その課程は全て英語で授業が行われ、試験も当然英語の回答であったことを示している。遺された考査用紙には三つの問答(もんどう)があり、第一問は学生自らが、自己の状況となぜ海軍に参加したのかを記述し、第二問は三者一択(さんしゃいったく)で、孔子と、新世界や中国伝統の祝祭日から選択、第三問は時事問題で、中日朝鮮の未来関係を分析するもので、この英文答案は、丁寧な書写や、筋の通った語句に、この学生の辛抱強い学習や、マクギフンの当を得た授業を見出すことができる。学堂の教室内での、マクギフンが学生に教授する情景が復元されて、観光客は当時の教育現場の濃厚な雰囲気を身を投じて直に感じることができるのである。

威海水師学堂は日清戦争で破壊され、1895年の日清戦争から1944年に劉公島の偽海軍(汪精衛の偽国民政府の海軍)が蜂起するまでの間、威海水師学堂はイギリス軍と日本軍によって占領されて、残ったものは、東西轅門(官式建築)、照嬖壁(目隠しの塀)、小劇楼、旗杆座とイギリス海軍陸戦隊兵舎、将校宿舎などである。1988年中国重要文化財に指定。 学校はどれほどの人材を育てたのか。

1894年に日清戦争が勃発し、学校の通常の教育が一度に中断され、学校は僅か5年しか開校なかった。

戦後、一部の学生は天津水師学堂に転入して学習を継続した。46名の学生が学校で唯一の一回生卒業生となった。学校は長続きしなかったが、それでも国家の為に棟梁となる才能を多少とも育て、吳紉礼と羅開榜はその中でも卓越している。吳紉礼は嘗て中華民国海軍次長代総長に任じられ、階級は中将に、羅開榜も嘗て中華民国陸軍次長代総長に任じられ、階級は中将に昇った。 ( 1883年,李鴻章は威海衛金銭頂に人を派遣して魚雷庫を建設、後にまた威海湾南岸に水雷学校を設け人材を養成した。)

イギリス王室海軍の士官住宅、イギリス海軍陸戦隊兵舎は、水師学堂の東側にあり、一棟は北から南向きにあり、中央が高く両側を低く対称的(シンメトリー)な配置の、ロンドン的な風格のある建築で、本館は二階建て石積み構造である。本館はもちろん、付属の建物は皆赤色の寄棟で、前面に大きく開けた芝居広場とで、荘重な雰囲気を醸し出し(かもしだす)て、建造の緻密(ちみつ)さは、建築主の格別で高雅(こうが「あることを突出して現している。これが駐華艦隊劉公島司令部ビルである。水師学堂南庭の西側の小楼は、イギリス王室海軍の将校の宿泊所である。。関係資料によると、この建物はイギリス駐華艦隊劉公島基地の最初のエンジニアの住宅で、のちに艦隊司令専用の別荘に改められた。
注:フィロ・マクギフン艦長の墓碑銘:
フィロ・マクギフン大尉
1860年12月13日、この場所に生まれる。
アメリカ合衆国海軍士官学校卒業
1885年中国に赴任し、清国海軍を創設、訓練を行う
1894年9月17日、清国海軍は鴨緑江における海戦で日本と引き分けた
1897年、負傷のため死亡
これは当時の日本軍との引き分けが一人の米国軍人の一生を代表する業績と見なされたということです、なんだが感慨深いの人生。

著者 煙台 張宜中