山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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煙台の昔語:醇親王奕譞煙台へ巡幸

1886年の北洋海軍の軍事パレードは、中国近代史における最も規格が高い海軍軍事パレードの一つでした。

清朝海軍事務衙門醇親王奕譞は、会办大臣直隷総督李鴻章と共に、帮办大臣都統善慶などと共に北洋水師を閲兵し、旅順、威海衛、煙台、大沽口などを視察した。この軍事パレードでは、煙台は醇親王奕譞のパレードの重要な停留所でした。 (醇親王巡幸海防の時李鴻章と善慶との撮影)

海軍事務衙門総理大臣醇親王奕譞は、愛新覚羅氏、道光帝の七子、光緒帝の実父(じっぷ)。

清朝末期の最も重要な政治家の一人です。咸豊帝の崩御後(ほうぎょご)、奕譞は恭親王奕訢共に西太后、東太后らを味方につけてクーデターを起こし顧命八大臣を追放した、これが辛酉政変である。幼い皇帝を西太后らと共に補佐するいわゆる垂簾聽政を開始した。こうして西太后は清王朝最末期の1908年に死去するまで清朝の実権を握ることになる。

1884年、甲申(こうしん)易枢、醇親王奕譞は恭親王奕訢を置き換えて朝政を握った。この時、醇親王奕譞は朝廷に一人の下で、万人の上、位高権重の方。

同年の中仏戦争後、朝野の海軍の拡張を求める声が高まった。

光緒11年(1885年),慈禧太后は、総理海軍事務衙門(略称:海軍衙門)を創設し、醇親王は海軍衙門総理大臣に任命され、直隷総督李鴻章氏会办大臣として、都统善慶は帮办大臣に任命された。海軍衙門の実権は、主に会办大臣の直隷総督李鴻章の手に握っていた。李鴻章は醇親王の支持を得て、醇親王奕譞の北洋海軍の閲兵を積極的に推進した。

1886年5月、総理海軍衙門事務の醇親王は、北洋海防を視察する命令を受けた。5月18日、醇親王一行は天津大沽口の船団を海に入れ、旅順に向かいました。醇親王は「海宴船」に乗船し、「保大船」はその後、直隷天津鎮総兵の丁汝昌は北洋水師戦艦の5隻を率いて、記名総兵吳安康は南洋水師戦艦の3隻、約左右4行を分かれて護衛し、そして「鎮東」など6鎮の砲艦が同行した。 (醇親王巡幸路線図)

ここの風景を出会った時に、初めて北京から巡幸に出た醇親王にとって詩興が沸き立って、「危座して東海に入る、飄々たる心迹、真心の宰たり(姿勢をただして東海へきたが、揺れ動く胸の内、本心は切迫している⋯⋯!」という詩句を記している。今回の観閲は、北洋水師の設立以来最大規模の初めての海上実戦演習であった。親王である奕譞は北洋を尊貴(そんちょう)に観閲したことで、大注目を引き起こした。中外の新聞は相競って報道をした。イギリスは10隻の軍艦を、フランスは6隻の軍艦を歓礼した。

5月22日、醇親王は威海衛の巡閲を終え、煙台に向かった。艦隊は広大な海原を、波を切り分け切り分け、猛進した。 (醇親王巡幸大沽砲台後乗船出発)

この艦旗が閃き(ひらめき)、すこぶる壮観な眺めを見て、醇親王は「海宴船煙台に開赴して句を得る」一詩を書き起こした。詩中で、醇親王は北洋水師の演習を高く評価して、また今回煙台行へも十分に期待している。

この時、イギリス中国艦隊副司令ヴェシー・ハミルトンは10隻の英国軍艦を率い、フランス極東艦隊の提督ヘンリ・リーニエはフランス軍艦6隻を率いして既に芝罘湾口に待機していた。醇親王一行艦船が到着すると、英仏艦隊は「祝砲21発を鳴らし、水兵をマストに立てて迎え」、最高の礼節を以て醇親王に敬意を示した。

この時、芝罘湾内、北面には16隻の英仏戦艦が一列に並んでいた。煙台山の北には、北洋水師など17隻の艦船が海中に平静を保っていた。

海岸では煙台文武官員が岸辺に整列して、老若男女の人々が、壁のようになって見物していた。海岸や海上には色とりどりの旗がはためき、汽笛は鳴り響いて、大変賑やかであった。

既に海岸には山東巡撫陳士傑、広西巡撫張曜(1886年6月2日山東巡撫へ転任)、署の登州鎮総兵李楹と登莱青道台方汝翼が乗船前に拝見に来て待っていた。会見後、陳士傑は醇親王一行に上陸を進め夕食と、岸辺で一夜の休息に招いた。醇親王奕譞は舵楼に登り、空の暮れるのを眺めていたが、上陸後のやりとりを面倒にも考え、当夜の随行員に命じて船上に休み、夜半に艦隊を出発させた。この時、山東巡撫陳士傑は酒肴(しゅこう)や進物(しんもつ)を進めたかったが、李鴻章に託して地方官の気持ちを醇親王に伝えたかったが、醇親王は婉曲(えんきょく)に拒否した。

醇親王は地方官吏との接見を済ませ、またイギリス駐華艦隊(中国艦隊)司令官ハミルトンとフランス極東艦隊提督ヘンリ・リニエ率いる軍人40人余りもお目通りした。

醇親王は舵楼(ともやぐら)で見届けると、津海関道周馥、直隷総兵丁汝昌、分省級補用道羅豊禄と海関税務司(役所)のドイツ人徳璀琳待ち受けた。

彼らは次々「海宴号」に乗船した。会見では、「王が中、爵相(李鴻章)と、善慶都統が左右に立ち、王府護衛兵が殿上に立ち、神機営隊、海軍役所随行員が階段上、地方官は階段下に立った」ハミルトンとリニエと一行は「階上で脱帽(だつぼう)して、中に入ると深々とお辞儀をしあとずさりして醇親王に向かって立った。その後「親王は一一ねぎらいを掛けた」。

そしてリニエが祝詞を奉り、双方は「富国、通商、海軍鍊成(れんせい)、鉄道建設などのこと」について話しを進めた。醇親王は頻り(しきり)にうなづき、納得していた。主客共に歓談(かんだん)し、記念撮影をした。

その夜、李鴻章も善慶らを伴ってイギリス旗艦「イントレピッド」とフランス旗艦「トゥルエンヌ」に参拝し、醇親王の代理としてハミルトンとリニエに返礼した。

英仏艦隊の官兵と接見の後、醇親王は感懐沸々とし、感慨無量で、次のように詩を書いた。詩中、醇親王は山東巡撫陳士傑の熱い招待に感謝し、直隷総督李鴻章の入念な手配を高く評価した。

5月23日未明、醇親王一行は大沽に向けて出港したが、芝罘湾内に停泊していた英仏艦隊は21発の祝砲を打ち鳴らした。ここで、醇親王の煙台巡幸は無事収束した。 海軍布陣図 醇親王巡幸威海衛 醇親王巡幸煙台

四川提督 宋慶
北洋水師天津鎮総兵 丁汝昌
海軍衙門総办恩佑
直隷四位総兵,左から:葉志超 鄭国魁 潘万才
三位提督,左から: 左宝貴 劉盛休 徐邦道
海軍衙門委員,左から:景亨、博端
直隷八位道台と天津知府汪守正(左一)
馬隊親兵藍翎長祥安

著者 煙台魏春洋