日占時代の東海関(ニ次世界大戦の東海関)
1938年2月3日、日本軍は煙台を占領した。煙台に対する7年半に及ぶ統治が始まった。
この間、近代税関元老の王文挙(王亜居)は東海関税関で6年間に及ぶ勤務し、最後は東海税関副税関司長官となった。彼は回顧録の形式で煙台でのこの間の経歴を記録していて、又後人のためとなる東海税関の重要な歴史資料を残した。
日本軍は煙台に軍事占領を実行してすぐに、魯東道尹庁、煙台市役所、警察署など地方政権機構を相次いで設立した。
だが煙台の所有する権利は総て芝罘にある(日本)陸軍の特務機関の手中(しゅちゅう)にあった。その「諸政の進行の監督指導」によってかつまた「これを組織する特別の部隊による治安維持」をした。しかし、東海税関は陥落した地区で国民政府が作った唯一の国家機構で、依然として旧来通り公務を行なっていた。これはずっと近代中国の税関支配してきたイギリスが中国利益を掌中(しょうちゅう)にするために交易していて、(イギリス)は勝手に日本と非常的な中国税関の協議を締結していたからである。協議規定では、陥落地区の税関の管理権限は日本横浜正金銀行の制御(せいぎょ)にあり、行政管理権はまだ中国税関総務局に属していた。これによって、東海税関は日本の制圧されず、一定の独立性を保っていた。
時局に応じて、1938年2月、上海税関総税務局は引退した日本人籾倉作助氏を日本東海税関税務課で使い始め、またアメリカ国籍のモンローを枠外(わくがい)の副税務司として派遣して、英語文献の事務に当たらせた。しかし、東海税関と芝罘陸軍特務機関の関係は穏やかではなかった。王文挙が東海税関で仕事をする前の、1938年9月29日、東海税関は漁船の貨物積載(セキサイ)事件を規定通り処罰したが、煙台日本政府は東海税関副税務司劉秉彝を数日勾留(こうりゅう)した。税関監督役所の鮑沧賢科長を経て保釈(ほしゃく)されて、以後上海へ逃れた。その他の税関員もまた巻き添えを畏れて、また皆前後して暇乞い(こい)して上海へ去った。
1938年11月、遼寧人の王文挙は安東から東海税関に異動し、枠外の二級以上の補佐を担当した。「地方関係を融合する」為に,王文挙の元同僚で、東海税関税務司籾倉作助(籾倉作助は嘗て安東駅の仕事で二年かかりあった)は彼を煙台地方政権の高級官吏との面会に伴った。例えば日本特務機関長武田確忠、特別隊長徐瑞卿、日本領事及び居留民会長、魯東道尹兼煙台市長張華南、警察局長耿乃熙商工会長鄒子敏などである。
これらの日本の役人の中で、特務機関長の武田確忠は嘗て満州で長年仕事をしており、特別隊長徐瑞卿は遼寧省海城県人で、共に王文挙とは「同郷のよしみで、かれこれ、折り合い良くすることができた」。その後は、地方に関係する一切応対の事柄は、重要なことは籾倉と出席する他は、皆王文挙が参加した。従って、税関と日本方面の官民との関係は、これ以後日に日に改善し、煙台の日本領事も王文挙を「親日人物」と見做していた。
王文挙が着任後まもなく、難題に遭遇した。ある日特別機関の通知で、東海税関の二名を派遣して「蒋介石の倒すことと共産党を打倒するデモに参加し、路上で講演する云々」という命令を受けた。人員の派遣問題に対して、東海税関各課の責任者の責任者は皆押し付け合ってニの足を踏み何とか逃げようとした。これも道理で、それはこの種の活動は良心に反するもので、また陥落後の煙台の雑踏(ざっとう)には私服のゲリラがあふれ、デモ隊は時に生命の危険も伴うものであるが、もし人員をデモの参加に派遣しなければ、「罪をお仕着せ(しきせ)るのに言葉を選ばない」ことも可能で、災難を招いて、税関の前途は考えるだに恐ろしいことである。最後は、「幸いにある方の了解を得て、僅か二名の用務員を出すだけで、お茶を濁して事なきを得た」。
日本が占領後の煙台は、東海税関と日本特務機関とは折り合いが悪くなり、よく衝突が行なった。
第一回は、「同年初夏の強風の夜、抗日ゲリラが悪天気と水夫の内応を隠れ蓑(かくれみの)として、港内に停泊していた税関巡視艇‘海澄‘号に忍び込んだ。初めに当直班の人員を征服し、縄で縛り、その後艇上の武器を、銃や弾丸を含んで、悉く持ち去り、その後特別隊が追撃して、弾丸二箱を奪い返した」。東海関の資料によると「1939年5月8日、東海関の税関艇'海澄‘号の水夫張玉琨らが救命ボートを使って銃13挺と弾丸7,813発を運び出し、抗日ゲリラに支援し、強力に抗日武装の力量を充実させた」と記載している。この記録もこの一事件を実証している。この事件の発生後は、日本は、口をそろえて、税関船員とゲリラが結託したと騒ぎ立てた。追って船員は、日本国籍の艦長を除いて、逮捕尋問され、厳刑(げんけい)罰則(ばっそく)が行われた。王文挙と東海関税関所の籾倉はこの不幸な事件のために、多方面に奔走して、無罪の船員の釈放を呼びかけた。
第二回は同年の旧暦端午の夜(1939年6月21日に当たる--筆者注)、「少数の税関巡視隊員が、倉庫にライフル銃と弾薬を封入して(日本軍が上陸以前で、武装税関員と日本軍とが衝突の恐れがある為に、所有の武器に封鎖を掛けていた)、ゲリラと共謀して、倉庫を突破し、武器弾薬を奪い取った。前回の事件がようやく収まったところで、再び同様の事件が発生した。地方の軍・警察はまた税関職員を多数逮捕して、厳刑拷問に付し(ふす)た。王文挙は籾倉と再び各方面に奔走して、手段を講じた。
王文挙の回億録中には二度のゲリラと東海税関役人との共謀の武器奪取(だっしゅ)事件ので、結果日本の特務機関と東海税関の重大な衝突を招いたことが記載されている。日本軍の厳密な監視下で、連続して二回発生してしまったこの重大な事件は、日本の特務機関は大変驚愕(きょうがく)させ、税関は非難の的となった。「その後税関の状況は、大変困難に感じた」。特務機関長も「籾倉は老いぼれ(おいぼれ)馬で、もう車も引けず、道もわからない。税関の新秩序の悪種(あくしゅ)であるから、一掃すべきである」と認めた。言う間もなく、これを行動に移した。
ある朝、王文挙が仕事中に、突然一隊の日本海軍が税関を丸ごと厳重に包囲した。
別に日本警官が、若干の警察を率いて、税関埠頭から、部屋ごとに検査して、所有の職員の自由な移動を禁じた。正午まで、「外国籍の税関員を除いて、分散を許さず、そこから出ることも許されなかった」。午後四時になって、やっと王文挙の事務室を検査した。到着前に金庫と、書類棚を開放させた。検査の警官の到来を待ち、「よく知っている日本人某を見つけ、話しかけると、検査を免じて手を引いて行った。この時王文挙の金庫には滙豐銀行(HSBC)の通帳一冊があったが、発見されなかったのは、幸運計るべしである。
日本軍の横暴理不尽に対して、東海税関はまるで一般職員に皆義憤が胸に満ち、「忍耐(にんたう)すべきであるも、誰も忍耐できない」この上ない恥辱(ちじょく)と考えていた。ただし税務長の籾倉氏は「老練慎重で、仕事が熟練」していた。日本軍の無理な措置に対して、平然と意に介さず、顔色一つ変えなかった。「理不尽でも従順に、籾倉はそんな人であった」。
これ以来、東海税関は日本政府の各方面の人間を無害で、「ごく少数の良くない人間を除いて、ほかは皆仕事にまじめで、悪事に染まず保身し、国のために努力して、税収を豊かに増やす」ものと見做した。
そして親しく接触して公共関係を調整するために、各関係ちとその首長を歓待するために宴を設け、かれこれ交歓して、宿怨を解いた。この後1945年に日本が停戦するまで、類似(るいじ)の不快な事件は再び発生することはなかった。
王文挙の回顧録には、また太平洋戦争勃発後に日本が最終的に東海税関を制圧した状況も記載している。
1941年12月8日、日本は真珠湾を奇襲し、太平洋戦争が勃発した。上海の税関総務局は日本軍に占領され、元税関総税務長の梅楽和(Sir Frederick William Maze)ら英米国籍の税関要員が逮捕監禁されずに総税務長は日本人岸本広吉が任に当たり、中国税関の行政管理権は日本に制御された。
総税務長日本人岸本広吉と関わる元の税関員の他、その他の税関の主要な官員は日本から派遣されたが、しかもほとんどが日本税関の低級な税関員であった。これより、中国には二つの税関、陥落区の税関と国民統一区の税関が出現した。この二つの税関は既存税関員が任に当たって、皆事故を合法的な税関であると主張している。
煙台では、12月9日の早朝、「日本軍が税関に来て、英米国籍の税関員を悉く(ことごとく)逮捕した。」当時の東海税関代理副税務司フランケンも当時の様子を記録している。
太平洋戦争勃発の翌日、「私は通常の勤務時間に事務所に着いて税務司籾倉作助先生に報告し、戦争が始まったら、我ら両国の戦の立ちまわりだと彼が訴えた(うったえる)」。彼は明らかにせっかち不機嫌な顔で私に私の家と私の事務室にある「関係」文書を焼却(しょうきゃく)する必要があるといった。フランケンはまた籾倉先生にアメリカとイギリスの職員に対する善意と彼が尽くした最大でしかし最終的に失敗に終わった努力ー彼は我々を拘禁中から釈放し我らの獄中(ごくちゅう)での状況を改善しようとしたことを訴えた。これは疑いも彼が中米英という立場で決定ことを表明し、しかもこれもまた仲間に疑われるという結果を引き起こしていた。
太平洋戦争が勃発して間もなく、「東海税関の重要な地位は、皆日本人の独占する所となった」が、東海税関にも少なからざる日本籍の税関員が現れた。彼らは上海税関総税務局から派遣されてきた。
これら日本籍の税関員に対して、王文挙は彼らを「佐島忠雄を除いて他は見るべきものはなく、まあまあ使えると言える人材を除けば、皆凡々庸々で、肺結核病みでなければ好色貪欲の小人で、大根駄物でなければ劣悪(れつあく)なヒモ」だと認識していた。
1942年初頭、芝罘陸軍特務機関は日本の税務籾倉作助を天津税関に派遣して、佐島忠夫が煙台税務司を引き継いだ。佐島忠夫は日本の外務省出身で、長年外交に携わってきた。佐島忠夫は「引き継ぎの日に、飲んで酩酊泥酔した。頗る(すこぶる)変わった人で、人を引き寄せるものがあった」。1943年より以後日本軍が次々敗退すると、佐島は日本海軍が崩壊すると聞いて、辞職して帰国した。東海税関税務司は飯田謙が任を継いだが、飯田は元は日本神戸税関の一般官吏であったが、のち次第に高等官に登った人である。
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