山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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イギリス租借時代の劉公島摆渡のサンパン(舢舨)

サンパン(舢板)は過去の地域の海岸で良く見られた一種の簡単な小型木船で、製造が簡単で、使いやすく、動きが機敏であるなどの優点を備えていたので、海上の人員の渡岸や貨物輸送に用いられた。

北洋艦隊の結成地で日清戦争の戦場となった劉公島は、威海湾内に横たわり、距離は市街から21.1海里である。1898年から1940年にかけて、イギリスは劉公島を42年間租借し、劉公島はイギリス海軍の夏期休暇と療養地となり、毎年4月から10月末にかけて、数千ないし1万に上げる人続々と劉公島に至った。当時、劉公島では、イギリス海軍の上級将校とその家族が「威平」と「海進」号の定期船で島外に出入りする他は、大多数がサンパンに頼って劉公島に出入りしていた。この小さいサンパンで、艦船に物資と生活用品を輸送したり、また艦船から島内に将兵に必要な飲用水を運送したリ、また島外へ将兵を送迎したりした。

実際、威海衛と劉公島埠頭には幾百隻のサンパンが昼夜「奉仕」していて、いつでも渡してくれた。

海面を客と貨物を積んだサンパンはひっきりなしに往来して、まるで現在の「タクシー」のようなサンパンは少なからず威海衛の陸地と劉公島の間の最も主要な水上交通の道具で、威海湾の「ある種の風景」となっている。

郭嵐生の1935年の『煙台威海遊記』には、当時「島外から島内へ」渡るサンパンは420隻余りが専業としていたと記している。また『威海市区村荘大全』には、現在の経済区の溝北村だけで、威海湾でサンパンで渡し船するもの100余人と記す。関連する問題について明確に規定した。

1904年、威海衛イギリス政府は渡船サンパンの管理を強化する法令を特に制定し、関連する問題について明確に規定した。第一に、渡船に従事するサンパンは運営資格を申請し、許可証を発給し、船頭船尾に照合番号を刻む必要がありある。第二に一隻ごとのサンパンには船夫は二名超えることができないし、悪天候には三名を以て許可とし、乗客は五名を超えることができないと規定した。第三に、中国の乗客を乗せたサンパンは指定された埠頭で客を上げ下ろしし、出発あるいは帰港には必ず埠頭警備局に出向き、サンパン番号、船夫の姓名、乗客数、目的地と出発帰着時間などの情報を報告する必要があった。第四に乗客と貨物の料金の標準を規定し、既定の船賃より高く収集できないとした。『英国駛進劉公島』によると、威海市は劉公島との渡船一人片道2銭と記載している。第五に各項の安全対策の詳細な規定で、例えば、夜間の運行には、必ずランプを掲げ、またランプの型と大小や掛ける高さを細かく規定している。サンパンを軍艦等の大型船につけるには必ず踏み板を下ろし極力乗客の乗り降りの便をはかるなどである。これらの法令の制度と実施は,サンパンの安全や、秩序ある運行を保障するに極めて重要な働きとなった。だがサンパンはイギリスの管轄下の服務する輸送する道具で、もとゆり濃厚なイギリス風の色彩色を帯びている。

サンパンの渡船に従事して生計を営むのは皆島内外の貧しい人々で、彼らは威海衛イギリス政府とイギリス海軍将校によって支配下と支配を受けていた。

これらの仕事にまじめな船頭は時には「小賢」しく、外国人に「好都合」に占有されていた。『英艦駛進劉公島』によると、夏場、イギリス水兵はビールを束ね(たばねる)て艦船の喫水線以下に繋いで、海で冷やしていた。常々艦船の人員を乗せるサンパンらは(それを知っていて)ざぶんと飛び込んで、釣縄を断ち切り、束ねたビールをサンパン上に運び、飲み干すと馬の小便のように感じて、(小狡く瓶を)残りは全部投げ捨てていた。

1938年、日本軍が威海衛を占領すると、海上封鎖を実行し、威海湾のサンパンの渡船は急激に減少した。1940年イギリス人が劉公島から撤退すると、嘗ての劉公島幾十年に渡り隆盛していたサンパンの渡船業は最終的に凋落(ちょうらく)し、イギリスの劉公島の租借の歴史とともに沈没した。