山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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威海の返還と民国

日本が1905年に旅順と大連の支配権を握ったという事実は威海の悲運に直接の影響を与えた。軍当局と同盟国日本双方が反対したので、イギリスは威海を香港に付属(ふぞく)させる計画を立てた。そこで清政府は1906年に条約に準じてイギリスから威海の返還を求めたが、イギリス政府は断絶した。そういう事情で威海を香港に付属するというものと計画は断念せざるを得なかった。1922年からイギリスと中国双方は威海問題の解決について交渉を始めた。その当時、香港のイギリス政府は、新界の獲得が威海返還の必須(ひっす)条件であると出張していた。ただ当時の中国は清末とは違っていて、威海衛は最終的に1930年10月1日にイギリス初の民国政府への平和的領土割譲となった。


民国の威海行政区:威海はアヘン戦争から平和的に中国へ返還された最初の割譲地である。その将来の管理は中国の国際的印象だけでなくほかの割譲地の回復にとって重要であった。1930年国民党中央政治会議は中央政府の直下に威海行政区を設立する決議を可決し、32の一級行政区域の一つとして、返還地区の統治を目的とする特別な行政地区設置の先例を創造した。

それはちょうど厳しい中国の「黄金の十年(1927〜37)」期間であった。真新しい国家イメージのために、中央政府は威海の近代化工程を始めるために威海をモデル行政地区に構築することを決めた。しかし日本軍が八年後に再侵略して全てを骨折り損(ほねおりぞん)に変えた。1942年末に、威海行政区は廃止され通常の県都威海市へと降格した。

政治家の事:条例によると、中央政府は威海衛を統治する高等弁務官を直接任命し、それは全ての公務上の人事と執行評議会を招集できた。威海衛の管理期間中、中央政府は色々な分野の専門職員、特に中国と西洋両方の政治的洞察力を養成した4人の高等弁務官を威海衛に供給するために最善を尽くした。辛苦の時代に生まれた世代にとって、彼らは中国がそれ自身をよく規定できることを見せるために完璧な威海衛を構築することに熱心だったので、誰もに地域の発展に関してすぐに注目を得た。

徐祖善は、威海衛でイギリス領事を訪問した最初の主任管理委員である。江蘇省出身、マサチューセッツ工科大学造船工学の学位を取得し、海軍提督薩鎮氷の補佐官、ロンドンに派遣された中国使節の海軍委任幹部、海軍省副長、航空局長官代理、青島港湾局長、天津関税監督、北伐軍総司令蒋介石の顧問と隴海鉄道局長を継続的に努めた。

徐は初代長官として、地域の経済・社会の発展に先駆的な役割を果たし、1933年末に辞任した。日中戦争ではずっと華南地区の軍幹部を務め、1957年に亡くなった。

第二長官(管理員)の徐東藩。浙江省(せっこうしょう)出身、バーミンガム大学で英国学士を取得し、またロンドン、ローザンヌとチューリッヒ大学で国際法、政治科学、財政学を学び博士号を追求した。帰国後、北京大学教授、ワシントン会議中国代表団秘書、山東居留地問題の為の日清合同委員会と青島返還参与を継続的に努めた。

徐東藩が組織した威海衛回復の記念式典。徐は1934年に長官(管理委員に就任して青島路線(基本方針)に沿って威海の発展を継続した。しかし山東省長韓復榘は中央政府と共に威海でより大きな役割を果たす為に1936年に離職した。その後浙江省臨時参議会秘書長、国立英士大学法学部長を務め、最後は迫害(文革の吊し上げ)の為自殺した。

第三任管理専員(長官)孫璽鳳と禁アヘン運動委員会委員。孫は山東出身、パリ大学で法学博士、韓復榘の下で済南の地方政府の軍事裁判所所長として尽力した。彼は1936年に威海に来たが間もなく威海で軍事化的な方法に対して強い傾向で実践した。

孫璽鳳一家。1938年に日本が威海に進攻する前夜、孫は共産党軍に公署武器と装備を与えた後に政府の資金と印信を伴って香港へ向かった。後に抗日軍を組織するために帰郷した。1946年、彼は陳毅の紹介で共産党に加わった。1949年以来、彼は司法部と国務院法制部に勤務した。

第三任高等弁務官(長官)鄭維平の個人記録:鄭維平、河北省出身、元袁世凱が自ら創立した陸軍模範団に早期に入隊し、保定軍校六期を卒業し、廬山軍官訓練団に訓練し、中央訓練団党政班に参加された。1936年に威海公安局長(警察局長)就任。

鄭維平の威海税関への公的書簡。鄭は1938年の危急(ききゅう)の時に威海管理専門委員(長官)となった。彼は4人の管理専員の中で最も長く務めたが、都市建設よりも戦争で時間を費やさねばならなかった。

威海最後の英国領事、スコット・バーデットと夫人、1938年撮影。威海の英国領事に当てた管理公署の公的書簡、1931年撮影。管理専門委員は地域開発の責任があるだけでなく、国際外交のことや、中央政府、威海に駐屯東北海軍と山東将軍韓復榘との駆け引き(かけひき)もよくした。

初日の山東省福山法院威海分院のスタッフ、1930年10月6日撮影。威海返還後、多くの新施設は、周辺県庁から独立して地方政府と無関係に、省や中央政府の直轄となった。

威海税関警察、1930年代はんば。返還後、無関税政策は取り消され、様々な税関局が確定された。威海の税収の60〜70%が中央政府に先渡されたので、新体制は大きな経営赤字となった。

出発前の威海衛救急隊、1933年2月1日撮影。 1933年初頭、長城抗日戦が勃発すると威海は救急隊を前線に派遣した。それは日本のたびたびの侵害による3,000人以上の負傷者(ふしょうしゃ)を取り扱う前線で唯一の救急隊であったが、中央政府は威海財政への定期的な補助金の作成ができなかった。

警察学校訓練を受ける警察官、1932年9月30日撮影。

国民会議代表選挙事務所のメンバー、1931年3月8日撮影。1931年各省市、モンゴル、チベット、海外の華僑で国民会議代表を選出した。地元商工会会長の孫心田は、威海衛国民会議代表に選出された。

区長訓練所の開所式典、1931年5月1日撮影。返還後、イギリス式の地方長官は廃止された。中国政府は威海を8九画に分割して、それぞれ自治体となった。区長は管理専門委員の推薦で中央政府により任命または解任された。

城皇廟での国産品展示会開催式典、1933年8月5日撮影。国内産品と地域経済を発展させるために、威海政府は単純に外国製品を排斥するといった以前の否定的方法の代わりに、国産品の展示会のように競争を高める積極的な努力をした。

威海衛税関への交通銀行の公的書簡、1930年12月1日撮影。返還後、中国政府は小商店が発行する独自の貨幣を禁止して威海で混乱状態にある様々はお金を一様な国の通貨に取り替えて通貨制度を改善した。例えば交通銀行、実業銀行、中国銀行、山東民生銀行は国で統一した通貨を発行する威海に代理店を組織した。

環翆楼を訪れた徐祖善と上海商工代表団、1932年撮影。威海経済は、1929年の世界経済恐慌を大変蒙った(こうむる)が、中国政府の地方税縮小(しゅくしょう)の努力で、1936年までに中小企業は1089社に増え、1930年のほぼ二倍となり、またいくつかの有名銘柄が伸びた。