山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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威海の建制

明朝の始め、中国沿岸は日本の浪人武士や不当な奸商による掠奪にたびたび苦しんだ。そこで、明政府は彼らに対して大規模な海岸防備の建造を開始した。例えば、多くの軍事施設(歴史的に衛と呼ばれる)が海岸沿いのいろいろな戦略上重要な場所に建造された。これらの場所の内、威海衛は1398年に建設された一つで、どうして威海がまた威海衛と呼ばれるのかを説明している。威海衛は山東省の司令官の下で三品銜の指揮官が統治した。そこはほぼ自給自足の軍人居留地で、世襲制の軍人家庭、5600人の部隊であった。1403年、軍隊は倭寇に対して設立され、城壁市街、濠と砦が徐々に建設された。

軍事地区の設立により威海は小さな漁村から三品銜の指揮官の駐在する重要な沿岸駐屯地となった。その為威海は封建時代に地方の中心都市に列した。

威海衛城東門、1923年撮影。それは今日の百貨店に位置していた。門上の文昌閣は清朝順治帝の御世に建立された。

清代に作成された威海衛の城壁市街図。城砦は明代の永楽元年(1403)年に建立され、0.55平方キロメートルの四角い区域を占めていた。

衛城の東門の外、1920年代初頭撮影。嘗て、新任の役人は東門から入城して就任するのが一般的でしたが、これは東から幸運がやってくると言う良い伝えによるものです。

東城壁外の農地。

西門は迎宣門と名付けれた。西門外の奈古山の麓は名も知れぬ死体や埋葬する余裕のない貧乏な人々の為の特別な古い公共の漏澤園共同墓地であった。

城壁の北門、1920年代撮影。北門は玄武門と名付けられ、その上には真武廟が建てられた。そこは今日の陽光飯店に位置している。

城壁南門、20世紀初頭撮影。南門は特勝門と名付けられて、その上には観音廟が建てられた。そこは今日の統一路と世昌路の交差点である。

関帝廟戱楼。1821年に建設され、1931年に道路拡張で取り壊された。今日の華聯ショッピングセンターの近くに建っていた。

衛城東通り、1920年代撮影。今日の和平通りの東部にあった。建城以来、官衙や、文廟、学校などは東通りの北部に集中していた。

衛城東通り沿いの工作場や商店、1921年撮影。

衛城西通り沿いの城隍廟の民俗の様子。西通りは今日の和平路西部である。城隍廟は明代建てられ、今日の市立医院に建てられた。

環翆楼、1930年代撮影。環翆楼は威海のランドマークとして、明の弘治2年(1489年)に建てられ、周囲の美しい翠緑をとって名付けられた。

衛城南外の小川、1927年夏撮影。その小川は、伝統的な石落河と呼ばれ、子供が遊び、女性が洗濯をするお気に入りの場所であった。方言と笑い声と小鳥の歌声が入り混じった(いりまじる)「南の小川の洗濯」と言う一枚の民俗写真となった。

父と子、1902年撮影。衛城ができた時には僅かな人々しか住んでいなかった。その後、移民はいろいろな場所から威海に流入し始めた。現在の、地元民の祖先はその時代に流入した人々で、純粋の土着である少数派は、見つけるのが難しい。

戚谷疃村、1930年代後半。荒れ地を開拓するために軍隊を駐屯させる方針で、自然的村落が衛城の周辺で急速に増加した。今日、威海のほとんどの村落(の歴史)が明代に遡ることができる。