山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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蓬莱古船の前世今生

600年以上前のある日、高麗と中国の間を往来する一隻の商船が、登州の小海で突然沈没した。この船は何処から来て、どこへいくのか、沈没の原因はなにか、どうしてこの港で沈没したのか、船上の貨物は海底に置き去りにされたままなのか。

これらの問題は商船と海底で泥砂(でいさ)に埋もれ、打ち寄せ(うちよせ)波と共に、600年余り眠っていた。

沈没船のある登州港は、「八仙渡海」の地蓬莱に位置して、古代中国の海上シルクロードの出発点で終点の港であり、また南北海上交通が必ず経由する場所で、「舟船が飛び交い、商使が混雑」し、「日中は千本の帆柱と旗、日没(夜)は万灯輝く」繁栄の光景を現していた。中国の渡航船はここより出発して、東へ向かい、朝鮮半島を経て日本などの国へ、歴史的な中国の絹や、磁器など上等な品物を朝鮮半島へともなった。同時に、海外の香料や、木材などもよどみなく中国内陸へ輸入した。

600年の眠りからの蘇生

2005年7月、考古作業員が蓬莱海中の沈泥(ちんでい)を一層一層取り除いた時、目前にゆっくりと長さ23㍍の古代船一隻が現れた。沈んで600年の、古代船が蘇った(よみがえる)のである。海底でこんなに長く眠っていたにもかかわらず、残骸には依然として、風雨にさらされ、寒暑に交わった(まじわる)経歴である。無数の補修の痕跡をそこに留めているのを見ることができた。人々は南方から運んだ上質の船材で修繕し、昔日の海上での雄姿の再現を期待した。しかしながら、天には不測の風雲があり、この経験豊富な船も不運は避けられず、最後には完全に海底に沈んだ。
船の建造技術や船体構造から見ると、少なからざる特異な点がある。
その船には中国の伝統的な単体の竜骨(キール)を使用せず、代わりに船体中央線の場所には厚ぼったい木板三枚を組み合わせて竜骨板として、17本の「木栓(もくせん)打ち(大型の木釘(きくぎ)」で中心の竜骨板と左右の竜骨翼板を繋げて(つなげる)一体としている。この種の構造はこれまで発掘した沈没船では未発見で、しかも高麗古船の伝統的な造船方法に属している。次に、船体外板は魚鱗(ぎょりん)のような殺接(そぎつぎ)方式の接ぎ合わせ(はぎあわせる)で、この種の接ぎ合わせは中国古船も採用しているが、また高麗船の伝統的な接ぎ合わせの形式にも属す。また、船体外板の接着面(せっちゃくめん)は「木釘」での連結を主として採用し、鉄釘の連結を補助としているが、この種の「木釘」は韓国の文献中に「皮槊」と称するもので、高麗船によく見られるものである。最後に、船型から見ると、その長さは幅に比べて短く、薄く、平底(ひらぞこ)で、比較的北方の海域の特性に適合している。この事から考えれば、この船はより多くの高麗古船の製造技術を採用していて、おそらく高麗古船の可能性がある。だが疑問点もまだあり、高麗古船は通常「駕竜木」を採用して船舶の横方向の強度を確保し、隔壁(かくへき)を使用しないが、後者は古代中国の造船技術でもある。このように、この古代船は詰まる所(つまるところ)高麗造船技術を多用した中国古船なのか、将又(はたまた)朝鮮半島製造の高麗古船なのかは知り得ない。だが明らかに、中国と高麗国の海上貿易や、造船技術などの各方面の広範な交流の疑いのない歴史的証人となる。

船上の珍宝(ちんぽう)

この船は独特な構造であるばかりでなく、船上に積載された物品も非常に豊富で、甕(かめ)、船形壷(つぼ)、皿、鉢(はち)などの陶器あり、また染付(そめつけ)茶碗、、青磁碗、青磁皿、青磁広口(ひろくち)壺、白磁(はくじ)碗と白磁の醤油瓶、茶葉末(ちゃばまつ)釉磁(ゆうじ)碗、粉青沙碗など数多くの美しい磁器から、石球、数珠玉、黒煉瓦、いぶし瓦など、最も面白く興味深いのは、松の実、スイカの種、カナムグラの種(薬用)などの植物の種や象牙(ぞうげ)光角貝(Laevidentalium eburneum)、牡蠣(かき)などの海洋生物の発見に他ならない。これら現代人も常食する果物や海鮮は、元は数百年前の古代人が楽しむところで、当時の果物や牡蠣は現在と一緒なのか、その他の形や大きさがあるのか、古代人はいつ頃からスイカという美味しい果物を育て始めたのか、いつ頃から松の実のような高栄養価の乾燥果実を食べ始めたのか、少なからず我らに興味を抱かせるものである。
これは実に考古学が我らの為に打ち開けてくれた古代世界の窓なのである。その特に貴重なのは景徳鎮で産出された染付磁器と染付(そめつけ)盃(さかずき)と龍泉窯(かま)産出の青磁碗である。その内最も語るに足るものは粉青沙磁碗で、見込みに白い蓮華、見込み上部(茶巾摺)に白彩波浪紋、胴に四条の轆轤目(弓紋)、腰にも深い轆轤紋(ろくろもん)、装飾は多様で、描線は流暢、色つやは純粋で、造形は秀麗、極めて芸術性が高い。このような装飾の風格は高麗の特色を鮮明に帯びていて、その一方ではるばる遠い高麗から到来した歴史の航路を投影(とうえい)している。 昔繁盛した登州古港は、千年の歴史の変遷を経て、今日の全国重点文物保護単位である蓬莱水城へと発展した。
「蓬莱水城」は「登州古城」ほどの広大さはないが、この水城はもはや仙境の都市の様相で、現代人に山海の間に起こった歴史的な物語を展示している。この千年近く眠る古代の沈没船は水城の西南隅に埋もれていて、その付近からまた時代がやや下がった三隻の古船が見つかっている。今では、古船の出土地には中国初の現地展示の古船と、古港の専門的博物館である蓬莱古船博物館が建築されている。この蒼海(そうかい)桑田(そうでん)的な様々な歴史のある沈没船とほかの三隻の古船が共に博物館に陳列され、人々に千年の登州古港の燦然たる歴史と古船自らの命脈の旅路を語っている。

著者 煙台 王晓妮