ネビウス夫人の回顧録節録
ネビウス(John L. Neivus、1829〜1893)、19世紀後半の有名な来中のアメリカ宣教師。1854年、ネビウスはキリスト教北米長老派教会の派遣委任を受け、妻を伴い中国へ到来して、まず上海、寧波、広州などの地で布教した。
1858年、清政府と西欧列強は「天津条約」を締結して、登州(今の山東省蓬莱)を通商港として開放し、西洋人の居住と布教を許可した。これを契機として、また健康などの理由から、1861年、ネビウスは登州に到来し、いくつかの波乱の末、古ぼけた観音堂を拠点として、山東地区の布教事業を開始した。
1871年、当時の北米長老派教会が膠東地区の布教基地を登州から煙台に移転した為に、そこでネビウス夫妻も登州から煙台に移転して毓璜頂の東南ののり面に家を建て、それから煙台に定住した。
これ以後、ネビウスは何度か帰国して療養したり中国の地方旅行をしたが、ほとんどの時間を煙台で過ごし、1893年に煙台の住まいで亡くなった。
中国での40年の布教経歴で、彼は最初に中国キリスト教会は自立、自養、自伝の三自身原則を提示して、大量の西洋の優良な果物の品種を導入し、当時中国主要のキリスト教会の主流な媒体(ばいたい)『教務雑誌(Chinese Recorder)』の主要な修筆者(ひっしゃ)であり、在華宣教師大会にたびたび参加と組織をし、中国語版『聖書』北京語(口語文版)共訳の主要な翻訳者であり校訂(こうてい)者であった。
ネビウスが亡くなった二年後(1895年)、彼の妻ヘレンは回顧録『ネビウスの生活ーー中国での伝道40年』を執筆(しっぴつ)した。本文は書中から煙台と密接な関係のある部分の文章を節録した。
1871年の秋、私達は登州から煙台へ転居した。煙台に着いた一年目は、私達は煙台山近くの西洋人の集まる地区の小さな部屋に住んだが、部屋は大きくなかったが、温和(おんわ)で快適であった。ここで、私の夫は多くの時間を執筆活動に費やしたが、相変わらずコルベット牧師と共に、神学講座も解説していた。
私達が煙台の外国人集中地区に一時的に居住したその年に、夫は私達自身の住まいの建設に着手し、彼はその住まいに「南楼」と名付けた。いわゆる「楼」は2階建て以上の建築を指し、「南」は即ち方位である。
だから、いわゆる「南楼」はこの住まいの風雅な呼び名である。それは「毓璜頂」と呼ばれる海を背にして小高い丘の上の、南斜面にあり、山頂に築かれた道観(道教寺院)から遠くなく、その道観には玉皇大帝が祭ってあるので、この道観は「玉皇廟」と呼ばれている。今日その道観は当地の人々が「李鴻章廟」と称するが、あるいはここ数年の李鴻章の国家への貢献を表彰するものであるようで、これはここ数年で発生した事情の表面化である。
始め、私達は中国人の村の近くの山の麓に建設に使う土地の購入を本当に切望していた。しかしこの願いは実現せず、私達は一歩次を探し、この場所を選んだ。だがこの場所は勾配(こうばい)が大きく、至る所に岩や、谷があり、工事の大変さは計り知れなかった。
我が夫の工夫(くふう)と勤労で、山畝(うね)を削り、谷を埋め、石ころを運び出し、入念に設計して、遂にここに今日見られる、美しい家庭を築き上げたのである。
私達の北側には、大変目につく建物があるが、それはコルベット先生の住まいである。遠くの山下にあるのは、私達の友人エカード(L.W.Eckard)夫妻の住まいである。私達が新しい家に引っ越して間もなく、彼ら一家がアメリカに帰って、私達は大変な悲しみを感じた。これら宣教師の住宅は、腹嫌味な人には「豪華な宮殿」と呼ばれている。一部の旅行者の記述に、海外の宣教者達が優雅にのんびりした生活を過ごしていると無責任に描写しているので、宣教師達の崇高(すうこう)な品格にある種侮辱(ぶじょく)と損傷しているのである。
コルベット先生のお住まいは大変屋根が低く、一階しかなく、庭の一隅にあって、建物の両側も庭の塀であり、他人に一種錯覚を起こさせ、もし港の方向から見ると、宣教団の教会が家の横に建てられているので、コルベット先生のお住まいが広大に見えるが、実は、彼の住まいはとても小さく、人々は生活が大変不便であろうと感じていた。ここには彼ら一家が住むほか、中国人為に専門的に作られた学校があり、また教会の付属機構がここにあることを知る必要がある。ネビウスがかつてオゥリンウッドに宛てた書信中に、我々が煙台で建造したここの住まいの状況と、当然そのほかの事情について言及されていた。私達の家庭や庭が完成すると、私達はついに煙台山近くの借家から引っ越した。それからはこの中での日常は私達の暖かく快適な家となった。
実際ここ以前に、ネビウスはアメリカの多く場所からいろいろな樹木の苗木(なえぎ)を集め、彼のは、アメリカまたはヨーロッパ原産の優秀な果物の品種を用いていくつか果物の品種は山東省の地に適合させる試みを開始していた。私達の果樹園の面積はさほど大きくないが、かえって試験農園としては最良の場所であり、これ以前に彼が試験植樹をしていた場所より遥かに便利であった。私が他に言いたい大切なことは、「南楼」を始め建設した時、使用したのは宣教団の経費であったので、ここも宣教団の資産であったのであるが、ここに住まいしてからは、私達は自分のお金を費やしてそこを買った。私達は本当にこの家が大好きであったので、普段の工夫と努力でそこを美しくて、住まいをさらに快適にして、またほかの人の讃美と羨望(せんぼう)を引きつけた。それなりに、そこはまた、中国北方は勿論南方でも病気になった宣教師の為に保養奉仕を提供する一棟の療養院にもなっていた。そこの建設当初から今まで、依然としてこの作用を発揮していた。夫が亡くなる前に、私達のこの不動産は、付属する施設と共に、皆アメリカ長老派教会が設立した煙台宣教師に寄付した。この家の主体の建物は、当地の客人を接待する客室や前々からの中国使用人の部屋に使いまた私が以前創立した女子校の校舎は、現在では教団の重要な宣教基地となっている。今となるまで、この優雅で、荘重な建築はいわゆる「分不相応(ぶんふそうおう)な宮殿」であるだけでなく、私達の美しい思い出を受け支えている。
今現在、ネビウス先生が中国に西洋の優良な果物の品種を導入した情況を皆さんに紹介する必要がある。子供の頃、ネビウスは園芸が大変好きで、アメリカニューヨークのセネカ郡(Seneca Country)に住んでいた頃、実家の畑でこの事に夢中になっていた。
この趣味は、おそらく彼の父親からの遺伝である。山東に来てから、彼は山東と彼の田舎がほぼ同緯度にあることと、育っている果物の種類もただ幾つかの品種を除いて基本的に似ているが、その他の品種の品質は彼の田舎とは違っていることに気が付いた。彼は早くに、山東の果物の品質を改良するのにアメリカの品種を用いる必要があると考え付き、すぐさまこれを実行した。彼はアメリカとヨーロッパ大陸を広範囲に歴遊して、色々な山東に適合しそうな果物の品種を探し、彼の実験の信仰に思いを費やした。事前に見込んでいたように、無数の失敗をした。ある時、彼は適合しそうな果樹(かじゅ)の品種に挑戦したが、海上をはるばる運ぶ途中で、汽船の機械室に近い場所に置かれたせいで、中国について全て枯死(こし)してしまった。
またある時は、正反対に、過分な水分が原因で皆腐乱してしまった。これらの苗木(なえぎ)が無事中国についても、植え付けた最初の夏や冬には、新しい環境の、夏の高温や冬の寒さのために、それらは皆受け付けることかできず、苗木は熱に枯れ、さもなくば凍え(こごえ)て枯れた。枯死しなくても、また半枯で生き残らず、うまく成長しなかった。またそれらは辛苦を超えて生きながら得たとしても、嫌な害虫が図らずもやってきて、この美しい苗木を病虫害(びょうちゅうがい)で蹂躙(じゅうりん)した。この一切の困難を乗り越えて、収穫の喜びの到来が目の当たりという時に、突然と大風が吹き、熟れ(うれ)そうな果実を皆吹き落とすのである。全く難儀の末の、(苗木の育つのは)九死に一生なのである。
私達の住まい南楼周辺の、菜園は大変小さかったので、ネビウスは南楼から歩いて5分ほどの場所に数十畝(せ)の土地を買い付け、そこに海外から持ち込んだ品種の違う果物、特別にいささかの葡萄の苗(なえ)➖そろいを植えて育てた。
彼はこの果樹園を試験園として、実験成功ののちには、加えて普及すべきことを望んだ。この事を行う時、ネビウスは根本的にそれが彼にどんな栄養や金銭的方面の報酬(ほうしゅう)をもたらすか考えていなかった。彼はこの果樹園を興味を抱いた中国の友人に分け与え、そして彼に、どんな時であっても、彼らがこの果樹を植えてお金を稼ぐまで、彼はこの果樹園で既に費やした資本を自身で返還して、彼は一旦失敗したリスクを独自に負担し、かつまた自分の園芸知識と経験をこれらの中国人に伝授し、彼らの管理する果樹園を指導した。この果樹園は、南楼の南方に位置していて、煙台の街中では、当地の人間に「広興果園」と呼ばれ、たくさんの人から深い関心を集めていた。彼らの中には、この宣教師の伝道活動に何ら興味のない人も少なからずいたが、この経済的収益の発生する可能性のある事項には最大の関心を示し、内心から歓迎の意を表した。
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