山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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青島旧跡時計台


一 ドイツ膠澳警察署旧跡時計台

ドイツ膠澳警察署旧跡は、1904年から1905年にかけて建てられた、ルネッサンス期のドイツの建築様式とヨーロッパ大陸の中世の教会建築様式で、黄色の壁面に赤煉瓦を埋め込んで、その間に突出する切妻の飾壁と高く聳える時計台が際立ち、時計台の上部の4面には、盤面に時計と分針(ふんしん)の動く、大型の時計が埋め込まれ、南面の時計の上には旗竿が立つ。2006年6月に中国重点文物保護単位に昇格した。
1914年に日本が初めて青島を占領してから、日本の憲兵部隊の駐屯地となった。1922年12月に中国が青島の主権を回復してから、ここに膠澳商港監督役所警察を設置した。1938年1月に日本が再び青島を占領してから、民国青島治安維持会はここに警察部を設立した。
抗日戦争勝利後は青島市警察局となる。青島が開放後は、この建物はずっと青島市公安局が使用している。
時計台は方形の6階建て高さ30メートルであり、時報と眺望の利用に供されている(きょうする)。100余年の歴史変遷を経て、この美しい時計台のあるドイツ式の旧建築は依然として良好に残存している。
二 青島駅時計台
青島駅は1900年1月に建設が始まり、1901年秋に竣工した。ドイツ人のウェラーとゲーデルツの設計で、山東鉄道会社の施工であった。
汽車駅は主に時計塔と待合ホールの二ヶ所で組織され、駅舎の基礎は花崗岩のブロックで築造され、待合ホールは三つのアーチ式の入り口で、二階は六つに等分された縦長の窓で、模造木組の山形壁(きりづまかべ)であり、待合ホールの南側は高さ約30メートルの時報時計台である。
汽車駅の初代時計台はドイツ本土で製作され、1992年7月に汽車駅改造時まで、百年近く運転された。その後青島時計工場製造の時計に取り替えられて、博物館の収蔵となった。第三回目の時計の交換は煙台時計研究所から持たされた。
1991年膠済戦複線増設工事により、青島駅はこれに従って拡張され、ドイツ旧建の駅舎は基本的に解体され、旧位置に再建された。
元の駅の北側に新しく大型二階建ての待合所ビルを建設し、別に旧駅の跡地にもう一度旧来の風格で南楼が建造された。新しい時計台は高さを3メートル量増しして、待合の(新)ビルと協調を計り、この拡張建築はは1993年に竣工した。3メートル高くした時計台は、厳格に言えば、フェイクである。だが100年来の無数の旅行者や通行人に(時報の)利便性をもたらしたことは、多くの民衆に深い印象と忘れがたい思い出を与えた。

三 セントポール教会の鐘塔

1897年にドイツが青島を占領後、ドイツキリスト教信義会(ルター会とも言う)派の宣教師クンツェを青島の布教に派遣して、ドイツ膠澳総督の顧問に任じた。第一次世界大戦でドイツが敗北すると、経済が衰退して、遠くの青島教会への資金投入を支払う余力がなくなった。
アメリカ信義会は1925年に僅か2万米ドルでドイツ信義会の資産を買収した。1938年青島観象山に土地を買い新しい教会を建て、1941年2月に完成、観象1路にあり、セントポール教会と命名された。
教会はロシアの建築家ユリーフによって設計され、(宜興の)清水赤煉瓦の外壁で、建築面積1,482平方メートル、内部は礼拝に300余人が収容可能であり、方形の鐘塔を擁して、内側に沿った60段の階段で24メートル高さに達する鐘塔である。
文革時期に、セントポール教会も同様に衝撃を受けて破壊に遭った。教会は一切の宗教活動を停止して、建物も彼らの使用のために占有された。90年代に、政府は資金を教会に対して割い(さく)て全面修復を進め、教会を旧態に回復した。
2009年4月3日、半世紀近く行方不明であった元の大鐘は遂にセントポール教会に戻った。今では、教会の鐘楼に懸かる古鐘を打つと、鐘の錘が重厚な娘鐘に当たり発声するゆったりと抑揚のある音声が、街の上空にゆっくりと漂っている。

七 聖ミカエル大聖堂鐘塔

聖ミカエル大聖堂は現在の青島市市南区浙江路15号(曲阜路入り口)に位置する。ドイツの設計士ビアルヒャによるゴシック式とローマ式の建築様式によって設計された。聖堂の平面はラテンの「X」字形で、聖堂の結構は鉄筋コンクリートと花崗岩の組み合わせでできている。
聖堂は1932年に建て始められ、1934年に竣工、敷地面積11,480平方メートル、建築面積6,301.54平方メートル、ツインの鐘塔の高さ56メートル、先端に4.5メートルの十字架がある。筒内には4口の釣鐘がぶら下がっていて、一旦鐘が鳴くと、音声は数里の先に届く。
1960年代後半、青島カトリック教会は「文革」の衝撃を受けて閉鎖され、のち修復を経て1982年の「イースター」に再解放された。1999年5月1日より、聖ミカエル大聖堂は遊覧客にも開放された。

八 キリスト教会鐘塔

青島キリスト教会は典型的なドイツの古城式の建築で、様式は堂々豪壮で、シルエットはシンプル、堅固(けんご)で重厚な壁、半円アーチの窓枠、急勾配(きゅうこうばい)の赤い屋根に緑の尖塔は人にある種宗教建築に特有の美観を与える。
教会は鐘塔と講堂の二つの部分で構成され、鐘塔は高さ36メートル、塔に登れば青島市街の海と空の秀景を観覧できるから鐘塔上の巨大な時計は、もともと厳かな教会に幾分の神秘性と荘重さを添えている。
青島キリスト教会は、膠澳のドイツ総督の出資で、1908年4月19日にマイスター社によって施工が始められ、1910年10月23日に竣工した。
時報時計の内部には大小3口の鐘があり、皆1908年に設置された旧設備で、今なお保存は良好で。正常運転している。
教会塔内大時計は1909年にドイツのボッケネムで製造され、時計の針にJ.F.Weule,Bockenem am  Harz のメーカー表示が記してあるが、この時計会社は1836年創業で、1953年西ドイツで倒産した。
青島江蘇路キリスト教会、ここは油絵の質感の中世の古城式の風格の定番建築で、これも青島が代表的なドイツ建築の一つである。百年の風雨にも、旧来の優美さである。それはこの街を見守り、青島の歴史を証明し記録してきた。