山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

中国山東省旅行、野球友好交流旅行、ゴルフ旅行、中華文化、歴史故事、中国野球、健康。

ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
当社の日本語WECHAT ID:18660355510。当社の日本語対応WECHAT IDを追加し、チャットでお問い合わせも可能です。

遠のく鐘の音(外国知識人の中国医薬界に対する黙々とした貢献)

しばらく前に、私は第12輯『老照片』中のエリソン・ハリスの『斉魯大学の日々』の一文を読んだ。私は突然二年前の、イギリスの友人カトリーヌ・ヘイム女士が私に寄せた書信を思い出した。手紙には、姉ジャニスとの1920〜30年代の斉魯大学での幼年期の生活を愛情豊に回想でしている。ハリスとともに、カトリーヌ姉妹も済南で生まれた。彼女らの父親ペリンズ(W.P.Pailins)はハリスと同職で、彼が1920年に斉大医学院に開設した製薬学専門科は中国最初の大学薬学専攻の一つである。私の祖父劉国華と大叔祖劉国傑は皆彼の学生である。祖父は生前に、当時家族は極貧で、全く「裴牧師(ペリンズ)」(祖父たちはこのように読んでいた)の補助に頼ってやっと学校に行けたと言っていた。 裴牧師 斉大学校内の康穆礼拝堂 礼拝堂内景 体験した斉大の学生達 斉大神学系学生の昼食

カトリーヌは、父親が中国に来た時、まず北京語言学校で中国語を学び、後に済南斉魯大学の仕事に派遣されたことを回想している。彼は三職を兼ねて、斉魯大学付属病院の薬局を管理し、また薬学専門科の学生に授業し、そして斉魯大学付属病院での布教者であった。

当時付属病院の所有していた輸入薬品は皆彼が仕入れと配分を担当し、祖父劉国華は学校に留まり彼の部下の薬剤師となった。当時病院の経費の一部分は斉魯大学の特別予算に組み入れられ、別の部分は医学学校の経費中に分配された。1930年代のインフレは重大で、1939年の予算は1937年の3倍であった。面白いことに、当時の統計資料で使用された通貨単位はメキシコ洋銀で、メキシコの「鷹詳」は当時国内で普通に流通し、中央政府の「法幣通貨」の不足を補っていたが、鷹洋と「法弊通貨」の比率は1対1であった。

薬学専修科が設立当初は、ペリンズ(W.P.Pailins)の学生は大変限られていて、例えば1940年度の薬学専修を受験した86名の学生中では16名が採用されただけである。

ペリンズは養成した前後80名の薬剤師は、中国各地に行き渡り、一部は教会病院で職に当たり、私の大叔祖劉国偉は北京同仁病院で薬剤師を担当した。

カトリーヌは、父親が中国語で講義し、教材は英語を用いたほか、学生はラテン語に通じる必要かあったことを覚えているか彼は主に薬理学、有機化学、薬物学と処方(しょほう)学を教授し、講師欠乏のために、彼は毎週7時限の講義に出なければならなかった。新入生のために3回の実験と、また斉大医学予科学生のためにも講義をした。

私の祖父劉国華が(卒業後)学校に留まり、ペリンズの助教(じょきょう)として二期生の一部の講義を引き継いだ。

カトリーヌは、その後仕事量が増え、人手が足りなかったため、父親が医学予科学生の課程を取り消さざるを得なかったことを覚えている。彼は講堂ではいつも両手を使い、図表を片手にして、別の手で文字を書いた。彼は若者と過ごすのが好きで、いつも「カトリーヌの」母親とともに学生宿舎を訪れ、週末には学生と一緒に外出したりすることがよくあります。彼は本職以外にも、校外での不足事態にも応対しなければならなかった。1935年秋に、山東省の西部は特大の水害があり、黄河は堤防が決壊し、14の被災県で200万人が帰るべき家を無くした。彼は書信に「年末まで3県の家屋が水に沈んだままで、残りの3県も半分水に浸かったままである。最長の決壊箇所は2,000メートルあり、全力修復で600メートルに短縮し⋯⋯10分の9の河道が改修された。韓复榘主席は大量の難民の効率よく組織疎開し、まず難民を災害の最も深刻な済寧に集中させ、その後省内中南部に避難させたが、2万人が済南に避難し、臨時に建設されたテントに居住した。」と記ししている。救済部署は棚戸区の衛生防疫を斉大医学付属病院に任せた。父親は2ヶ所の臨時病院に協力し、60床のベッドを持ち、伝染病人を受け入れた。彼は教師と学生を11組に分け、各組は最小2名の医師と8名の学生で、毎週被災者地点を巡視した。

1937年の盧溝橋事件後、日本人の華北侵入に従い、カトリーヌと妹はそのほかの家族と共に帰国した。その年のクリスマスには、日本人が済南を占領し、情況は緊張してきた。

斉大付属病院の中国人はほぼ全員疎開し、29名の患者と、1名の中国医師と8名の外国人医師、13人の中国人看護師と5人の外国人看護士が残った。日本軍が斉大に進駐した後もしばらくは、教授は継続したが、各種の制限が続々とあり、ペリンズとそのほかの外国籍医師は外部と連絡を取り、一年後の病院で医療行為を負担した。1941年に日本がパールハーバーを奇襲した後、日本人は斉大の英米外国人教授に敵対し始め、ペリンズら外国教授の仕事は中断を迫られ、人々はその場で軟禁(なんきん)され、のち上海からの帰国が果たされぬまま、1945年に日本が投降するまでは龍華の「同盟国居留民集中キャンプ」に拘禁された。ペリンズは心身ともに大いに傷つき、1946年11月、突発性心臓病でイギリスで亡くなり、享年60歳であった。カトリーヌの母親はは1987年に亡くなり、亨年94さいであった。

カトリーヌは、父親が何度も、彼は一生心底から中国人を助けた(彼は済南で一人の「顧雲山」【音訳】と言う孤児を養育した)と言っていたことを、心中に思い起こしている。姉妹は父親の中国薬学事業の発展に対して「少しばかり貢献したこと」を自慢に思った。

斉大の鐘の音はもう遠くなった。我々が中国医薬界の先輩の業績を偲ぶとき、彼らの背後には、またペリンズやイングル(英格尓)のような外国知識人の黙々とした貢献を思い起こさない訳にはいかない。