山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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煙台の前世

1856年、大清帝国咸豊6年、中国市場の開放を一方進め、中国での侵略(利益)を拡大するために、ロシアとアメリカの支持の下、イギリスとフランスは「アロー号事件」と「広西教案」を口実に対中国戦争を発動した。

1859年9月遠征作戦計画が基本的に確定してから、フランス皇帝ナポレオン3世は海軍に、上海吳淞フランス軍基地のほかに第二の中継基地の捜索を要求した。1860年3月、海軍中将プロテットは実地観測の結果、フランス軍は山東煙台芝罘に停泊地を設立することを確定した。

実際フランス軍の中華侵略部隊総司令のモントバン(孟托班)は「私はもはや芝罘を上海と白河の中継地点として選択し、我々の計画が一旦思いがけない困難に遭遇した時のために、そこに私の軍隊を配置した」と宣言した。

戦争の趨勢(すうせい)に狙いを合わせ、広東広西総督崇芳は山東沿岸の特に登州府沿岸の防衛の強化を建議したが、山東省巡撫文煜は膠東沿岸に危険はないと認識して、陸戦防衛を力説して、沿岸から遠い青州に軍備を強化し、沿岸区域の下の軍隊は異動せず、団練(民兵組織)を置くだけで、正規部隊は駐在しなかった。

この重大な海防の失策の前提で、フランス軍は順調に煙台港を占領し、福山県(当時煙台港は登州府福山県の統括であった)の港に武装駐在をちゃっかり遣って退けた(やってのける)。

その後4ヶ月に、フランス軍は前後して煙台山、奇山所城周辺、毓璜頂などの戦略要地を占拠して、また煙台港のある芝罘湾に埠頭、兵糧倉庫、弾薬庫などの後方勤務補給施設を建設し、軍用補給のために民間物資の大量掠奪と買付けを行った。 1860年 芝罘湾に停泊したフランス軍艦と兵士

この期間、フランス軍は40隻以上の商船全部を強引に徴集し崆峒島に閉じ込めて、一部の兵員を看守に派遣した。1860年7月、フランス軍参謀部は、北京・天津への唯一の軍事中継基地として、芝罘を吳淞に替えることを決定した。7月19日、英仏連合軍は芝罘で軍議を開催し、最終的な作戦計画を決定し、7月20日から25日にかけて続々と船積みした。 1860年フランス兵士は芝罘湾崆峒島の駐留地

出征前に、フランス軍は芝罘湾に艦船31隻寄港させ、士官275名、兵士7,867人、騾馬(らば)1,024疋(ぴき)集結した。その内、2隻の軍艦(1隻は駆逐艦、1隻は医療艦、共に帆船)と220名の歩兵が施設の保衛管理と物資の掠奪購入の継続に当たり、そのほかの兵力は大連湾に駐留する英軍と共に、総勢(そうぜい)で西へ向かい天津衛を攻撃した。 1860年、フランス兵士は芝罘湾崆峒島に食事をする

押し広げて言えば、フランス軍が煙台に侵入した事件には、いくらか説明が必要で、第一に、イギリス侵略軍も大変煙台港に憧憬(どうけい)がある。つとに第一次アヘン戦争(1840〜1842年)の時に、イギリス海軍は芝罘湾の地形を詳細に観測していて、また試しに1846年商船が煙台で上陸して初めてアヘンを売った。1860年にフランス軍が煙台に侵入直前に、イギリス海軍は煙台海上で中国商船の掠奪に躍起(やっき)になり、大連青泥洼に護送して侵入準備をした。フランス軍が芝罘湾を占拠してから、イギリス軍はフランス軍との煙台の共同防衛を提案したが、フランス軍は当地の淡水の両軍での共同使用に満足できず、あらかじめ拒絶したが。戦後、『天津条約』が締結され、イギリスは煙台に領事館を設立した先取(せんしゅ)最初の国家となった。

第二に、フランス軍は煙台で軍用物資を備蓄している。煙台占領前後には、フランス海軍はイギリス海軍と共謀して中国商船をの掠奪に躍起となり、密輸を含む近海運輸と貿易は基本的に中断をもたらした。

フランス軍は上陸後、土地を選び井戸を開き、民家を掠奪し、地方経済と社会秩序の大混乱を引き起こし、特に軍事物資の収集において、掠奪と買付は相供う(あいともなう)もので、煙台の商業環境を動揺させるので、有効的な軍用物資の補給を確保するために、フランス軍は即時に掠奪行為を「懲罰」し、通常の買付けによる取引に軍事保護を提供し、民間交易の増長を促進した。

第三に、フランス軍は煙台開港に予行演習を提供するために管理機構を設立した。フランス軍が占拠している間、煙台山に関連機構を設立し、西の北京・天津に進軍した時の遺留部隊の守衛と継続管理をしたが、客観上は『天津条約』後に煙台の都市空間の変化が始まった。

ちょうど米英仏軍がシリアに侵入し、文明を破壊し、死傷者無数であった。何人もがニュース画像に涙を流し、似たような国家の記憶を呼び起こした。本文の一念は、第一に歴史を忘れず、弱小国には外交がなく、ただ自己強化を怠らず(おこたる)に、ようやく独立自立する。第二に古言を引いて今を風刺して、強盗(ごうとう)の屁理屈を譴責(けんせき)する事である。

19世紀下半期、ヨーロッパ人からの煙台地図

著者 煙台 韓沂樹