点子
清同治3年山東登莱青道衙門(役所)の点子(雲板)
近現代、長さ61センチメートル、幅60センチメートル、厚さ3センチメートル。
衙門(役所)の点子は、衙門前にかけて、報事、集合、点卯(点呼)の時に打ち鳴らして用いた。これは嘗て登莱青道衙門の門前に掛けられ、鋳鉄(ちゅうてつ)で、形は如意の頭の形状をなして、周辺に花紋を装飾し、上の一孔で吊り下げの便をはかった。正面の鋳鉄文は「同治十三年十月立」。清の同治13年は紀元1874年で、同治皇帝が崩御した、光緒皇帝即位第1年である。点子はまた「雲板」と言い、通常は官署や大きい家の中門に掛けられ、時報や、集合に用いられた。往時の官署は卯時(今の5〜7時)に事務を始めたので、時刻に点子を打ち、役人の登庁、官員の人数を点検したので、「点卯」とも言った。
登莱青道は清朝中期に設けられ、山東省の一級政権に属して、山東省の三ヶ所の地方道の一つで、登州、莱州、青州3府を管轄した。1858年、清政府が西欧の侵略者と締結した『天津条約』で登州(今の蓬莱)を通商港とした。
1861年、イギリスの駐中国大使モリソンは考察して、通商港を登州から煙台へと改めた。政治と経済利益の需要から、清政府は登莱青道の駐在所を煙台に遷し、東海税関の調達作業を担当させた。
1862年、清政府は登莱青道を掖県から煙台に遷した。1863年にイギリス人が東海税関税務司に任命されたので、煙台は開港に迫られ、ここに半植民地半封建の近代史の道が開かれた。
1911年、辛亥革命が勃発し、煙台も革命の波に巻き込まれ、辛亥志士が道台衙門(役所)に突進して、一挙にこの外国人が勤務する封建政府を転覆した。道台衙門(役所)は無くなり、衙門(役所)の点子はそこで歴史舞台から退出してが、煙台近代史の証拠(しょうこ)品となった。
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