威海旧洋館
イギリスが威海衛を租借したので、威海には少なからず異国風の旧建築が残っていて、威海市区と劉公島に分散している。
これら100余年を経た旧建築は建築方式や、材料は勿論、採光や居住機能まで皆中国の伝統建築と根本的に差異があり、それらの存在は威海市街の歴史に多くの地域特徴をもたらし、都市文化の位置づけた一定の参考要素を提供している。イギリスの租借時代の建築には深刻な歴史意義があり、この旧洋館の背後の物語を掘り起こすのは、古い事物に対する未練ではなく、もう一度歴史を熟視して、それらが新時代に合ってもたらしてきた啓蒙と教訓とすべき文化的内包(ないほう)を取捨(しゅしゃ)する事である。
劉公島の旧洋館の大きいものには「康来ホテル」「西摩爾街商店」「蒸餾塔「病院旧跡」「海軍陸戦部隊宿舎」などがあり、その他多くの住宅や別荘の類や、建築様式は類似(るいじ)していてまた相異(そうい)なり、統一された様式中にも変化に富んでいる。
島沿岸の丁公路に東側には美しい別荘建築があり、二階建ての石積構造で、建築面積は527.9平方米であり、それは海に面しており、赤瓦の屋根は緑の樹林により目に鮮やかで、劉公島の青い海と空と互いに補完し合ってより顕著である。
関連資料の記載によれば、この建築は最初にイギリスの駐中国艦隊の劉公島基地設計士の住宅であり、後に艦隊司令の専用別荘となった。駐中国艦隊はイギリスが世界各地に派遣した10艦隊の一つであり、イギリスの租借する威海衛は劉公島と、香港、上海の間を往来して、「中国艦隊」と名付けられた。
1920〜30年代に、その艦隊は1隻の空母、6隻の巡洋艦、1隻の潜水艇供給船、11隻の潜水艇と15隻の駆逐艦を擁していた。艦隊司令の階級は上将であり、臨時代理でさえ少将で、1939年の第二次世界大戦勃発前には、彼らは毎年必ず艦隊を引き連れ劉公島で避暑を独占していて、この海に臨んで高居する海景色の別荘に泊まったので、「将軍別荘」と呼ばれた。
上世紀20年代の将軍別荘
この西欧様式の別荘には多くの有名のイギリス将官が過ごしたが、パーシー・ノーブルもその一人である。
パーシ・ノーブルは海軍上将で、1880年生まれ、1955年没、二度の世界大戦に参加した将官である。第二次世界大戦中には、彼の貢献の主要は、イギリスの対潜部隊を組織、訓練して、対ドイツ潜水艇戦の勝利の基礎を固めたもので、これは主に「大西洋海戦」〜ドイツが英米と大西洋の制海権を争奪(そうだつ)して戦争史上最長で複雑な自給海戦で体現した。
英国海軍上将パーシ・ノーブル
ドイツはイギリスの戦略物資を運輸する海上生命線を粉砕(ふんさい)し、イギリスの海上貿易をかく乱する為にU型潜水艇で「群れ狼(おおかみ)戦術を展開し、夜間を利用して水面下で攻撃し、ソナー探査系統を無効とし、飛行機も潜水艇への有効な攻撃が難しく、客船も貨物船にも巨大な脅威であるばかりでなく、戦列艦や航空母艦でさえ同様に撃沈するので、「群れ狼戦術」の群隊攻撃の特性は一度イギリスを困難に陥れた。
パーシ・ノーブルは、この種の受動的局面を改変するには護衛艦の数量を増加し、護衛の範囲を拡大する必要があると考え、このため彼は大型の護衛艦隊の組織を主導し、同時に武器の研究開発と利用を改善し、対潜水艦攻撃探測のレーダーと相応の対潜水艦攻撃戦術に効用があることを開発し、特に潜水艇攻撃器の研究開発後、潜水艇の到達時間の確実な計算ができるようになり、かえって受動的状態が主導的となり、イギリス海軍はすぐさまドイツの三つのエース船を殲滅させる輝かしい戦果を得ることができた。最終的にドイツ海軍は700隻の潜水艇全部を海面に浮上(ふじょう)させて、イギリスに投降し、5年にわたって大西洋海戦は終結した。
劉公島に休暇中のノーブル夫妻
一棟ごとに古建築の物語があり、旧洋館が貴重なのは古く、あるいは景観価値だけではなく、さらに重要なのはそれらが威海ないしは世界的範囲の史料情報を本当にとどめていて、充実して深刻な歴史の記憶を持っているという点で貴重な存在なのです。
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