芝罘倶楽部(金海湾1号棟)
煙台金海湾酒店(ゴールデン ガルフ ホテル)は煙台開港百年の文化の中心に位置している。金海湾酒店1号棟の芝罘倶楽部は、元はイギリス人居留者が煙台で開設した娯楽場所で、一時賑やかであった。中外の商人が往来し、各国大使館が集中し、かつては海岸の景色が果てなかった。
金海湾酒店1号棟(芝罘倶楽部)は煙台外国公会倶楽部とも称し、煙台山の東南海岸に位置して、イギリス人が1865年に創建し、煙台在住の外国人居留者のために公共娯楽とビジネス会議事務を提供した場所である。
1865年に個人の募金を通じてこの建物が建造された。金海湾酒店1号棟(芝罘倶楽部)は始め規模は小さかったが、倶楽部会員の人数の絶え間ない増加に従って、1906年に大規模拡張が行われた。海岸路砂浜と彼処の金海湾一号棟(芝罘倶楽部)
1901年改建後の金海湾一号棟(芝罘倶楽部)
1906年
孫中山と各界歓迎者代表の海浜飯店前での集合写真
1912年8月21日
孫中山先生は1912年に煙台へ来たが、これは近代の煙台史上重要な事件の一つである。当時中国で最も影響のあった新聞『申報』の1912年8月22日の記載によると、民国元年八月二十日に孫中山は北京入りのため煙台で過ごしたが、官民軍各界は北飯店(海浜飯店)で歓迎大会を開催し、当ホテルに投宿(とうしゅく)した。
1913年以前の海岸路、海浜飯店の二棟の建物
右側の建物(赤いレンガの6本煙突)は、1913年に隣接する金海湾酒店の元の1号棟(芝罘倶楽部)と合併(がっぺい)して拡張された。
1920年9月14日、東海税関はここで「堤防工事落成式」を開催し、総税務司アグレン(Francis Aglen)が特別に上海から祝賀に駆け付けた。
青色屋根の金海湾一号棟(芝罘倶楽部)
1921年金海湾元一号棟(芝罘倶楽部)門前の花園
1931年
1931年までに芝罘倶楽部は再び一度の徹底的再建を経過した。今日芝罘倶楽部の擁する優美で魅力的な環境、快適で完備した設備、交通至便(しべん)の煙台湾のほとりにあって、都市の社交活動の中心に位置している。
1945年8月に煙台が初めて解放後されてから膠東行政公署外事事務庁となり、同年10月7日に膠東行政公署外事特派員于谷鶯、煙台警備区委員仲曦東は人民政府を代表し、米軍上陸を反対する事をアメリカ海軍第七艦隊特遣隊分遣隊司令セトル少将などの人がここで3時間の折衝(せっしょう)を行った。
1947年2月、連合国善後救済総署が煙台弁事処に成立し短期事務を行った。
1948年10月に煙台が再度解放されると、当該建物は煙台市政府の交際科ホールとなった。
1955年5月に中国人民政治協商会議の煙台市第一回委員会第一回会議が開催され、1980年代までずっと煙台政治協商会議が開催された。
1980年代にはこの建物は煙台山賓館の1号棟となった。この建物は現在膠東革命記念館となっている。100年来、芝罘倶楽部はこの都市の発展に立会(たちあい)、波乱の時代の変遷を目の当たりにしてきた。それ自身が、一つの歴史舞台であり、悲喜(ひき)交々(こもごも)の歴史大観を上演してきた。米軍上陸を阻止した事件と「楊䘵奎事件」はこの舞台で起きた生々しいーコマである。
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