関東州地名の由来
日露の旅順大連の強制租借当時の歴史を回顧すると、必然的に「関東州」に触れなければならない。その「関東州」の地名はどこから来たのか、面積は何平方キロメートルか、本文で簡単に説明する。
1898年3月27日ロシアは『(三国干渉)遼東返還」を口実に清政府と『旅順大連租借条約』を締結し、租借期間25年で、旅順大連3,200平方キロメートルを租借した。当時山海関以東の地区を関東と言ったので、旅順大連の租借地を「関東州」と呼んだ。1898年8月にツァーリ(ロシア皇帝の称)は『暫定関東州統治規則』を公布し、ロシアは一方的に旅順大連の借地に「関東州」と名付けて、旅順に関東州庁を設立した。「関東州」の地名はロシア強制租借の時期に始まった。旅順ロシア関東総督府旧址(国家級文物保護単位)
1904年2月、日露戦争が勃発すると、ロシア軍は1905年1月に敗戦投降した。同年9月、ロシアは旅順と大連の租借権を日本に譲渡した。日本は旅順で前後して関東都督府、関東庁と関東州を設立した。亞瑟港(П о р т -А р т у р ポルト= アルトゥル、ポート・アーサー)を旅順港と改め、ダリニを大連と改めた。
日本は大連地区を占領した後に復県5島と普蘭店以北の空地262平方キロメートルを拡張し、総面積は3,426平方キロメートルとなった。日本の植民統治時期も「関東州」の地名を踏襲した。
1915年に日本は民国北京政府と締結した「中日民四条約(対華二十一ヶ条要求)」中で関東州租借地の租借期間を99年間に延長し、1997年に切り上げとした。
1932年に満州国が成立後、日本は満州国に関東州を租借した。1937年に日本と満州国は新租借協議を達成し、日本は満鉄付属地行政権を満州国に交付したが、関東州は保留され名義上は満州国外で独立していた。
1935年の日本の国勢調査によると、日本軍人を除いた、関東州の人口は1,034,074人,その内168,185人人日本人であり、面積は3,500平方キロメートルである。1945年の第二次世界大戦の終結で日本は降伏した。「関東州」の地名もこの称に随って歴史となった。旅順日本関東都督府旧址(国家級文物保護単位)
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