旅順で日本婦人の「二〇三高地」髪型の写真を発見
1904年、帝政ロシアは積極的に「黄露計画(ロシアの中国進出)」実現した。1904年2月6日、日本は正式にロシアと国交を断絶し、2月8日夜間に宣言無く戦った。これで日露両国の帝国主義の掠奪が勃発した。
制海権を掌握するため、日本軍統帥部は旅順口をロシア艦隊の封鎖を決定した。1904年2月9日から1904年3月初めまで、日本の三度の船の水没封鎖は共に成功しなかった。
日本軍はニ〇三高地を重量砲で轟撃
1904年8月に日本軍が最初の旅順強攻に挫折(ざせつ)した後、日本軍は、射程1万ヤード、砲弾重量550ポンド、飛行中に特殊な轟鳴を発生する。「汽車弾」という別名の、280ミリメートル重量砲を運び込んだ。
9月19日、日本軍は第二次強攻を発動し、10月30日になって、第三次強攻を仕掛けたが、重大な進展は得られなかった。大山巌は乃木希典に指揮権の明け渡しを命令した。しばらく参謀長の兒玉(ごだま)源太郎が指揮したが、兒玉は砲兵に対する運用は乃木よりも強く、部署(ぶしょ)の調整を経て、一日で二〇三高地を攻略した。日本軍は高地上に観察所を設置し、砲兵射撃を校正して、280ミリメートルの大口径の榴弾砲でロシア艦隊を襲撃した。この高さ203メートル、長さ250メートル、幅30メートル余りの小山上に、日本軍は70回余りの砲撃を発動し、死傷者1.7万人、ロシア守備軍の死傷者6,000人であった。日露両軍で2.3万人が倒れ、世界史上面積最少死傷者最大の惨烈(さんれつ)な戦史となった。
二〇三高地北坂の陣没の日本軍
二〇三高地の攻略は、当時日本国内で大変利用され、ほとんどの大・中型以上のホテルで『二〇三高地戦史』の資料フィルムが、繰り返し放映され、日露両国の当時二百三高地での激戦の血生臭い場面の事実が再現された。
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