日本の一家が二〇三高地重砲兵観測所の記念碑を参観
日露戦争後、二〇三高地は日本国内で大変有名となり、旅順を訪問して戦跡を参観する日本人は二〇三高地を最初の場所として、彼等は乃木が題字を書いた「爾靈山」記念碑に駆けつけた。最近発見した古い写真は、日本の一家が日本軍重砲兵観測記念碑を参観しているもので、これは旅順地区で最初であった。
この写真は大変鮮明で、当時使用した大型ガラス乾板で撮影したものである。画面の6人は夫婦が子供を連れて参観したものである。3人の女の子はまちまちの服を着て、男の子は制服を着ている。撮影時、彼等の表情は大変真面目であった。
この古い写真を見つけたついでに、私はこの日本軍重砲兵観測記念碑の経緯について簡単に説明したい。
砲兵観測兵の観測進行
日本軍が203高地を占領後、旅順口に停泊しているロシア艦隊に砲撃をするために、山上の西峰に重砲の観測代が設置された。
1904年12月6日から9日までの4日間、日本軍は旅順港でロシア艦隊に18門280ミリ榴弾砲を集中砲撃し、1,148発の砲弾を発射し、弾重量244.5トンに達し、ロシア太平洋艦隊の56隻を撃沈した。重砲兵観測記念碑
戦後、満州戦跡保存会は、観測所の位置に、碑文が「日本軍重砲兵観測所ノ位置」という記念碑を建設した。この記念碑は高くないが、建設は大変堅固で、外周を花崗岩の切石(きりいし)で築き、中身はコンクリートと砂を流し込んである。碑上には直接280ミリメートル榴弾砲の弾頭模型を使用していて、旅順に数多くある碑塔の中では唯一無二のものである。
ソ連軍が観測記念碑を爆破
この一枚の写真は、大変直感的に我らにこの観測所の記念碑がどこへ行ったのかを教えている。これはソ連軍が爆薬で爆破したのである。旅順の戦跡碑は大変多いが、ソ連軍はどうして日本軍重砲兵観測記念碑だけを爆破したのか、その原因は皆知っていて、旅順港内に停泊していたロシア太平洋艦隊がこの観測所の手中に破壊されたからである。
日本の一家はこの記念碑を訪問して記念写真を撮ったことは、彼等の主人が当時観測所が発揮した重要な作用を理解していることを説明している。
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