金州南山の四灯明
旅順に南山坡山記念碑があり、金州に南山戦跡記念碑があり、文字の標記がない情況では、この二基をどのように区別するのであろうか。比較的広大で、先頭で、上部に装飾物のあるのが南山戦跡記念碑である。
金州南山は金州市街の南1キロメートルにあり、海抜116メートルである。山は高くはないが、金州地峡中間の要害高地であり、左は金州湾に続き、右は大連湾を控えて、大連と旅順の陸上交通を制御していて、地理的には大変重要である。日露戦争では、防衛を担当したロシア軍は東シベリア第四師第五兵団で、団長はトレチャコフ大佐、団員3,800人、65基の大砲と10丁のマキシム機関銃を配備した。ロシア軍は南山陣地に13の砲台と5カ所の多面堡塁、3カ所の三日月形堡塁と3条の通行用堡塁と鉄条網が連結していた。
1904年5月26日早朝、日本軍大将奥保鞏は第二軍の三個師団36,000人を指揮して、200余りの大砲と金州湾内の6隻の軍艦の砲火の支援で、金州南山のロシア軍陣地に猛攻撃を発起(ほっき)した。
14時間の激戦後、ロシア軍は死傷者2,000人近くで旅順を撤回し、日本軍は死傷者4,200人余りで南山を占領し、旅順のロシア軍と遼陽のロシア軍の陸上連繋(れんけい)を徹底的に切断した。
日本軍の仮記念碑建立
日本軍は金州南山を制圧してから、当陣で亡くなった将兵を追悼するために、兵士達が角材を使用して仮の記念碑を建立した。
金州南山戦跡碑
日本軍は旅順大連を占領後、満州戦跡保存会は南山山頂に耐久性のある「南山戦跡」記念碑を建立した。古写真を見ると、この記念碑の石材と全体的な造形は旅順戦跡碑とは大差ないことが知られ、一目で日本式建築の作風に属することが解る。一致しない点は碑上に4灯明を装着していることで、碑上の四面に灯火を配置するのは、全く普通の装飾物ではない。日本人が見るその常夜灯は、戦死者の霊魂がずっと消滅しないことを暗示している。この碑はつとに取り壊され、古い写真を見ると、碑上に装着された灯火は日本植民統治後期にはもう見られないことが見つかった。
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。