山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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漢奸張本政伝

張本政(1865〜1951)、字は徳純、祖籍は山東省文登県、遼寧省大連市旅順黄泥川屯姑子溝の人。中国北東部で一番の売国人である。

清の同治4年(1865年)12月12日生、父親は普通の漁師で、中年で落水しなくなり、妻と3人と2人の娘を残した。当時、家庭は貧しく、かつては4年間私塾にで学んだが、その後母親について小商売をした。

光緒8年(1882年)、18歳で、大工を学ぶ。翌年、旅順に行き陳某と雑貨店を共同経営した。

光緒12年(1886年)、雑貨店を閉鎖休業し、家に帰り5年間農業を務めた。

光緒17年(1891年)、27歳で、陳某と旅順に戻り、房某等と「通裕号」雑貨代理店を開業した。

光緒20年(1894年)、日清戦争が勃発し、再び仕事をやめ家に帰る。戦時中、日本の特務高橋藤兵衛と知り合うが、高橋はかつて北京に留学し、中国語が流暢で、戦時中は居酒屋を隠れ蓑として開き、日本軍に軍需物資を提供した。張本政は、その手下で雑用に当たり、その後、やりくりを担当した。日本が旅順口を攻略すると、張本政は高橋について旅順に侵入して、その後煙台へ至り、海運業に利があると見て、海運交易を学習し始めた。

光緒27年(1901年)、2隻の日本汽船「貫致丸」と「宇治島丸」を賃借(ちんしゃく)して、煙台ー>大連ー>大東溝の海上活動を展開した。

光緒30年(1904年)、日露戦争前夜、ある在中のロシア人が、日露戦争が開戦すると予見し、旅順が陥落すると、財産の損失を免れられないとして財産を張本政の名のもとに掛け替えて、事後に一筆の巨額の報酬を与えた。戦争中には、張本政は商売の名のもとに帝政ロシアの情報を密かに探り、日本軍のために兵火物資を運送し、業務は日一日に発展し、煙台で政記汽船合資無限会社(俗称政記汽船公司)を創設して、資本金4万銀元の、当時煙台一の汽船航運企業となった。 張本政旧居

民国3年(1914年)、第一次世界大戦が勃発し、欧米の船舶は全て召喚(しょうかん)され、中国沿海の船舶輸送に空白が出現したので、政記汽船会社は迅速に拡張する機会を掴み、戦争終結時には華北一番の大航運会社となった。

1920年、政記汽船会社は株式会社に再編した。1923年に会社は大連に移転。1931年、満州事変以後、政記汽船会社は日本軍の軍事輸送を引き受け、まもなくその全ての汽船を大連と、香港に集結し日本軍のために物資を運輸して、ぼろ儲けをして、大連、青島などの地に両替、銀行、植物油工場を開設し、政記鉄工廠(今日の大連機床廠の前身)等を創業して、当時の大連八大中国富家富豪の一つとなった。

1905〜1945年、張本政は、日本人が支配する関東州庁参事、関東州時局委員会委員長、満州海事協会委員、大連商務会長、満州経済協会副会長など49の職を歴任し、「二皇帝(二股【ふたまた】して仕える)」と言われて、抗日戦争中、日本軍のために大量の軍需品を輸送し、前後14隻の汽船が米軍に沈没させられた。かつて人と協力して日本軍に40基の飛行機を寄附して、日本政府から何度も表彰を受け、数回東京に行き日本の天皇に謁見して、中国北東部で一番の売国者となった。

1945年8月、日本が投降すると、政記汽船会社は倒産した。張本政と邵尚倹は「大連地方自衛委員会」を成立し、自ら委員長となった。

8月22日、ソ連軍が大連に進駐すると、「中国人会」を成立し、後に「治安維持会」と改め、国民党を旅順大連に迎えようとしたが、最終的に失敗した。

1946年、地方裁判所はその財産に対して整理を進行したが、銀行預金1,715,249元(当時の貨幣)、土地1,050畝、家屋1,886棟を擁していた。

1947年1月15日、地方裁判所は禁錮12年と、全財産の没収の判決を下したが、同年3月18日身柄を医者にかける機会に乗じて家族を伴って当時国民党が制圧していた瀋陽に逃亡した。

1948年、共産党が瀋陽を占領する前夜に天津に逃亡し、その後上海へ逃亡、最後は天津へ逃亡し隠棲(いんせい)した。 大連老鼈湾

1951年、人民政府が反革命を鎮圧した時に逮捕され、当年5月6日旅大人民裁判所で反革命で死刑の判決を下され、86歳の張本政は大連の老鼈湾で銃殺が執行された。

張本政の記録は人民検察院博物館大連分院に保管されている。

著者 旅順 李華家

日本文資料整理 威海 李君