ロシア軍の旅順での道路修理
旅順龍河の河口の未開発の状態は大変に広々としていた。清末に、水中に石ブロックを敷き詰め沈下橋を形成した。潮が引いた時には、通行人も車馬も皆通過できた。満潮時には小船が料金を取って対岸に渡した。
上記の古写真中の道路と橋梁(きょうりょう)は、ロシアが旅順大連を強制租借してから、太陽溝新区を開発するために建設したものである。道路の両脇には安全柵があり、中間地点には大型木橋を建設し、橋の両たもとにはそれぞれ二基の高い証明塔がある。この橋の位置はのちの日本植民統治時代の日本橋の位置であり、現在の入方橋の位置でもある。この道路は当時どんな名が解らないが、現在の黄河路西端に属す。
上の写真はロシア軍の道路整備で、木橋西側のたもとの整備をしている。木橋と道路の連結場所を掘り起こして、新たに太い丸太(まるた)を敷設(ふせつ)した。この木材は皆ロシア国籍の中国人記鳳台が満州の原始林から運んできたものである。
20人の労働状況は大変忙しそうに見えるが、ただ太鼓腹の軍官は腰に手をやり工事を監督し、正常通行に影響をさせないために、まず半分を整備し、また半分を整備する方法を採用した。画面には自転車と大型馬に乗る人が普通に通っている。
道に順じた方向に、我々は白玉山の西斜面を見るが、その正方形に接近した建築はロシア国の公共墓地である。その南側の円形のような建築は清軍墓地である。ロシア公共墓の下には、貨物場の大倉庫があり、倉庫の南の大屋根の建物は、ロシア人が建設した旧駅舎で、1903年7月14日以後に運営を投入した旅順汽車駅である。当時はまだ後の日本満州鉄道会社が建設した西洋式の汽車駅はなかった。
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