山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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旅順のこの洋風の白亜(はくあ)の建物は「医学専門学校」の附属病院である

日本の植民地統治の時期には、旅順に三ヶ所の高等教育機関が建設された。すなわち元の406病院にあった旅順工業大学、海軍基地司令部にあった旅順高等学校、海軍某部署の兵站部(へいたんぶ)にあった旅順医学専門学校である。旅順医学専門学校は、黄河路に位置した。日本の帝国主義が満州を侵略して、満州国を建設してから、日本国内から大量に満州地区に移民して、多くの「開拓村」を建設し、人口が急増し、医師が急に求められてから、1939年に旅順病院に医学校を創設して、現地の医師を養成した。 ロシア赤十字医院旧址

旅順医学校の学生募集要覧の規定:試験選抜を経て採用された学生は学費雑費を全額免除し、毎月一人30元の官費(支給)、団体宿舎の費用免除。学生は卒業後必ず配分に服して、指定された地方へ4年の義務に赴く。満期後は、自由開業を許可する。

旅順医学校の校旗、校歌、制服

開業時の校長は医学博士、旅順病院の院長の樋口修輔が兼任していた。本科3年制です。中国人学生のための予備科を1年間設け、日本語、ドイツ語、ラテン語、数学、物理、化学などを補習する。本科の3年間で、基礎医学、生物、解剖学、病理学、細菌学、法学、臨床医学、内外科、産婦人科、耳鼻咽喉科、小児科、放射線などの課程を開設した。旅順医学校第一陣は本科に日本人20名、予備科に中国人18名を募集した。 医学校の学生は附属病院に実学
1943年、旅順医学校は官立旅順専門学校に昇格し、卒業後は日本国正式医師の資格を有する。生徒数は289人で、初代校長は田亮次、後任校長は笠原親之助、問山美弘である。教授26人、駐校武官陸軍大佐1人、少佐教官1人。事務会計士が1人、総務が1人、タイピストが1人です。学制は4年に改め、予備科は1年、本科には基礎医学と臨床医学の2つが設けられた。基礎科目は解剖学、生理学、組織学、医化学、病理学、処方学、衛生学、カデバ解剖実習など。臨床の授業があり:内外科、外科学、児科、産婦人科、眼科、耳鼻咽喉科、歯科、皮膚科、沁尿科、放射線科、法医学と臨床の教学など。 医学校舎旧址
旅順医学校が昇格してから、旅順病院は旅順医学院の附属病院となった。病院には看護士学校を附設した附属病院の作業員は110人で、医師、看護師、技巧者、附属室人員を含む。
朝鮮と台湾から来た学生は皆必ず日本の名字に改めて、日本の学生と一緒に住んだ。一名の台湾学生は決して日本の名字に改めず、中国の学生と一緒に住んだ。1944年には中国人学生の募集をしなかった。1945年に日本が投降すると、学校は業務を停止した。かつて旅順医学専門学校で学んだ中国人学生は、解放後は医療戦線の技術の主力となった。
1944年に軍事訓練に参加した後の医専学生の会見所参観

著者 旅順 李華家

日本文資料整理 威海 李君