山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

中国山東省旅行、野球友好交流旅行、ゴルフ旅行、中華文化、歴史故事、中国野球、健康。

ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
当社の日本語WECHAT ID:18660355510。当社の日本語対応WECHAT IDを追加し、チャットでお問い合わせも可能です。

煙台の流行病百年史

1860年代、チャールズ・ホールというイギリスの宣教師が夫人と女児を連れて煙台に来た。

当時太平天国の乱が猛威を振るっていて、彼ら(チャールズ)は戦乱を避けて、あるオランダ船籍の汽船に避難したが、思いがけないことにその場にコレラが爆発して、煙台市街にも大規模に蔓延した。チャールズはかつて1862年の状況を、地区丸ごとがまるで死人の大墓地で、至る所に新しい墳墓が見られると描写している。

その後、チャールズ・ホール先生は自身の僅かな医学常識を緊急に煙台住民の救助作業に投入した。しかし、不幸な事情はやはり発生して、彼と彼の女児は共に流行病に感染したのである。

画像は清末の煙台で、戦乱を避けた難民の煙台からの上陸

今回の流行病は全国的なコレラの大流行で、これに加えて1862年の煙台の地区は豪雨がたえず、雪に霜(しも)が加えられた。『清史稿』の記載:「同時元年七月、蓬莱、黄県、福山、招遠、莱陽、寧海は大雨が連綿と続き、穀類は全滅した」。多くの学者は、これらは河川の流れを通して伝播したと推測する。当時の煙台を往来する船舶は多く、人の頻繁な交流でさらに感染が発生した。莱陽は当時の(中国)東北(満州)、華北地区との交易が密接で、コレラ毒は東北、天津等の地区から伝来した可能性が大きい。 清末の煙台の繁栄な港

百年以上前には、公共衛生の体制はまるで立ち上がっておらず、コレラのような巨大な伝染病に対して人々は何の抵抗能力も持っていなかった。流行病の爆発は頻繁でまた致命的であると言うべきである。これについて煙台各地の県志や当時の宣教師の記録文章中に多くの痕跡を見ることができる。

1861年、咸豊11年、本文が故事を講述(こうじゅつ)し始める一年前に、第四次旧コレラが中国を襲撃した頃、山東各地はすでにコレラが発生していて、今回の流行病の爆発は捻軍(反清)の反乱活動が伝播の拡散を導いている。『棲霞志』の記録: 咸豊11年8月9日、捻軍は土着の匪賊(ひぞく)と結んで膠東より賊が四方へ分散し、莱陽と棲霞境界の楡科頂、観里に集まり、接近したので、人心は恐々(きょうきょう)として落ち着かなかった。

『蓬莱志』の記録: 蓬莱志には「咸豊11年8月1日、日月合璧(月食)、五星聯珠(水金木火土星が一列に並ぶ)、捻軍が撹乱し、秋の収穫に損害があり、九月に災難はやっと止んだが、流行病が大発生した。」と記す。

記録では煙台人の捻軍と義和団運動に対する態度は見いだせないが、山東の大部分の地区の人民は捻軍と義和団の騒乱の苦難を受け、事の張本人達は貧民を焼き殺しただけでなく、疾病(しっぺい)まで撒き散らかした。 捻军の叛乱

同年9月、アメリカ長老派教会の宣教師ゲイリー(Samuel R. Gayley)夫妻とダンフォース(J.A.Danforth)夫妻が煙台が快適な環境なのでここへ布教に来た。百年前の煙台開港当時は、全世界各地の宣教師の多くが煙台の環境が好まれたのでここに定住して、先進的な文明を持ち込んだ。この二人のアメリカ長老派教会の宣教師一家が煙台に来た時、ちょうど当地はコレラが爆発した時で、そこにはダンフォース夫人がコレラで亡くなり、ダンフォースは悲しみに暮れてアメリカへ帰国できなかったと記録している。もう一人の宣教師ゲイリー先生本人も伝染病で世を去った。この伝染病は煙台地区の西洋布教事業に対して打撃が大変であった。だが損失が最大であったのは煙台の住民であった。当時の衛生条件は良くなく、結局どれほどの人がこのコレラで亡くなったのかは、知れないのである。

1867年には、また赤痢の流行が漠然と記録されている〜当時捻軍の騒擾(そうじょう)は、各種の伝染病の流行を造成した。その中に赤痢がある。それは抵抗力が脆弱(ぜいじゃく)な児童の死亡率を引き上げた。下にある一つの記録を、見ると淒惨な気持ちとなる:同治6年、辛酉の乱で、各州県の人民は乱軍を怖れて、土塁石垣を築いて自衛した。遂に防御を固く攻撃を困難として、保全に頼るものが少なくなかった。そうして、相互に維持すること50日、一都市は数十万人、一市町でも数万人、炎暑に蒸し焼きとなり、流行病が大発生して、ほぼ半分が死亡した。

ここでの描写の具体的な場所は煙台のどこかわからないが、頷ける(うなずける)ことは、当時捻軍擾乱に抵抗するため、防御を構築するために、皆が一城塞に集中した。一城塞には10万人が集中し、このような密接な接触は流行病の温床となり、その状況は惨憺(さんたん)たるもので、およそ半分の人間が病気になって死んだ。

煙台開港当時、世界各地はここに領事館を建設し、一時期煙台は万国の公使館となった。

煙台は本来奇山防御所と天后宮付近の市街の二つの地方があるだけで、そのほかの地方は全て荒涼(こうりょう)とした田野や樹林であった。ただし開港後は、瞬く間に煙台租借地となり、輸入商社、教会、領事館四ヶ所が林立し、至る所で地所(じしょ)の購買の人が争った。

その後、現代病院もここに建設された。 清末の煙台の街

例えば『山東衛生志』中の記載: 1860年にフランスのカトリック施病院(煙台山病院の前身)、病室、薬局、分析室、手術室、などがある。医師は9人、看護師15人、分析員1人。1902年にアメリカ長老派教会は煙台毓璜頂病院を開業した。1914年になって病院ビルを建設し、内科、外科、婦人科、小児科(しょうにか)などまであった。それだけでなく、流行病に対しても一定の緊急対応制があった。 煙台山病院の前身:フランス天主教施医院

1902年、また全国でコレラの大流行があり、煙台の医務官が要求した。「よその港で腺ペストあるいはコレラの感染したもので、当港へ来た船舶は医学検査を要求された」。

現在の煙台に来るよその土地の旅行客が健康コードまたは7日間のPCR陰性証明同様の措置である。当時はこのような措置だけでなく、コレラのニュースが煙台に伝わる限り、当地のホテルもマーケット検査を被った(おおう)。

当時、グローセン(Gu-loosen)が東海税関の医務官に任命された。主に税関行の医療衛生保険を担当し、港湾を出入(しゅつにゅう)する船舶の検疫を進行した。1902年、コレラ大流行の時には、グローセンは芝罘港の厳格な検査を要求し、コレラの港湾からの流入を有効に遮断した。

グローセン

同年9月、グローセンが『税関医報』に書いた『煙台医学報告』で「本年夏季に検査した16隻の船上で17例のコレラを発見し、皆隔離(かくり)された。この17人は3人の欧州人、1人の日本人、13人の中国人で、これらの人は港に着いた時には大部分が死亡しているかあるいは瀕死であり、日本籍は幸いに生存していた。」と言及している。

さらに、煙台の医療衛生の水準を高めるために、アメリカ長老派教会は毓璜頂病院を創立し、また看護士学校を設立し、1916年に3年の養成が終わり、初めて看護士が卒業した。この看護士は煙台最初の近代病院の治療救助ができる医療看護人員となり、彼らの理論水準と医療臨床能力は米国医師の標準に相当し、この卒業生の多くは自身で門戸を自立して病院を開業した。 毓璜頂病院の前身

10年後、看護師学校は中華看護学院の会員学校となり、当時の煙台は10万人に過ぎない小都市であったが、高等教育を受けた名医の人数が全市人数に占める割合は高く、全国都市に在っても上位に名を連ね(つらねる)ている。

煙台人と伝染流行病の対抗の歴史は自体で現在の医療条件を引き上げたばかりでなく、全体の衛生意識も上昇した。

晩清時期の煙台住民の衛生意識は大変劣って(おとる)いて、浅瀬の至る所がゴミや糞便であった。当時大量の人員が船の荷上げ(にあげ)作業に従事して、人為(じんい)的なゴミが大変多くなり、浅瀬の汚染を深刻にした。はては汚水(おすい)と飲用水まで混用し、大量の人員が赤痢が原因で死亡し、あるいはそのほかの伝染病で死亡した。

百年前の煙台の埠頭

当時市街の規制も不条理で、各国がここで勢力範囲を区分し、全体的な都市計画が無く、ある人は「実業家が自己資金でビルを建造する時、街並み(なみ)の建設と道路の整備には注意せず、北大街路のようなもっとも繁栄した街区でさえ、道幅は一丈(3.3メートル)余りに過ぎず、狭いところも一丈であり、幸い当時は自動車の通行もなく、ただ人の往来だけであったが、いかにも混雑していた。」と回想している。

当然外国人が居住する場所はゆとりがあったが、煙台住民の居住している場所の衛生条件は大変懸念があった。市街の道路両側は糞便とゴミであった。一部の住民は糞便をまとめて農民に売るのを待った。記録によると、清末民国時期には、道路の閉鎖整備もなく、晴れれば砂塵が舞い上がり、雨が降ると泥だらけになり、常に汚水が流れ、環境衛生は全く凄まじ(すさまじる)かった。

百年前の煙台の街

ただし開港から20世紀初頭まで、つまり1900年代以後、煙台市街は徐々に小さな町から一定規模の近代化都市へと変貌した。

張裕公司の大門

軍閥の劉珍年が煙台を統治している間に、交通条件の改善のために、公安局を設立し、前市街の主要道をセメント道路に改修した。そして塩田路政委員会を成立し、建設業者に各分会での請負工事(うけおいこうじ)を入札させた。その他、彼は河道に対しても疎通(そつう)を進行し、陸上の水を順調に海へ流入させ、水害を軽減(けいげん)した。

当然道路修繕はこの軍閥がここで行っただけではなく、一部の事業家もかつて出資して道路を修繕した。張裕路、載之路のように、張裕公司と李載之が出資して土地を購入して建設したもので、坤山路は万坤山が出資して土地を購入して道路修繕したものである。

都市計画の合理性はある程度煙台住民の衛生意識を向上させ、性格条件を改善した。衛生習慣もこれによって上昇した。当然こればかりでは完全は流行病に抵抗できないので、医療の介護も必要である。

開港以来、欧米の商人が次々と煙台で西洋薬品店を開設し、西洋の医療機械も芝罘港から絶え間なく輸入されてきた。その中で1920年フランスの医師ゲレンは道済薬局を開設し、治療しながら売薬した。また日本の商人が後に虹口路に芝罘衛生社を建設し、主に都市衛生を管理し、煙台市民の糞便を収集(しゅうしゅう)処理して、薬品、機器などを兼営した。これらの措置は煙台住民の流行病の対抗に巨大の貢献を造出した。

フランスの神父は煙台住民のために疾病治療と祈祷

人類が流行病に抵抗する歴史は人類の医療文明の発展史であり、煙台人が晩清時期から近代に至る経歴の百年余りは複雑にして曲折した人類の抗病の道であり、政治、植民を夾雑(きょうざつ)した近代化の一種の医療衛生発展の歴史である。当然、これも煙台の一種特有な文化の維持の下に成り立っている。

著者 煙台 海紅 夹箍儿俠