山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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近代煙台の基督教歴史(二)

果物を家政婦として福音の道を開く〜ネヴィウス

ネヴィウスは田舎に自ら設計した洋式の小屋を建て、「南楼」と名付けて、宣教師と集会の最適な場所とした。彼は山間の土地が痩せていて、農民は皆貧窮なのを見るに当たり、すぐ先進の農業科学技術を導入し、農民の収入を高め、人民の生活を改善することを決意した。ネヴィウスは煙台の地理的位置がその故郷のニューヨーク州と緯度が大差なく、気候が相似(そうじ)し、果物の種類も多いが、多くは口当たりが悪いことを発見した。それでネヴィウスは「中国の果物の品質が悪い原因は自然条件にあるのではなく、この土壌と気候は大変適合しているので、問題は優良な果樹品種と栽培技術が欠乏していることに在る。」と推断した。そこで、ネヴィウスに山東の果物を改良する考えが萌芽(ほうが)した。ネヴィウスは元は農家の出身で、各種の果樹の植付(うえつけ)と栽培方法に対してもとから経験があり、彼は毓璜頂の麓の南斜面に10畝余りの土地を買い取り、一つの模範農場を起工した。優良な果樹品種を探すために、彼はアメリカ及びヨーロッパ各地の山東の土壌と気候に合った果樹品種を広範に網羅(もうら)し、アメリカから、リンゴ、ナシ、モモ、スモモ、欧米のブドウ、と日本のイチゴを煙台に導入し、接木(つぎき)、挿木、育苗などの方法で、中国原産の果樹と交配し、新品種を育種(いくしゅ)した。この果樹園は「南楼」の南に位置したので、「南園」と名付け、また「西洋果園」「広興果園」と言った。ネヴィウスは果樹園に常々接木用の外国の果樹の枝を用意しており、いつでもそこに求めに来た当地の農民に無償で提供する準備をしていた。
初めは誰も手を出さなかったが、人達がこの西洋果物の味が美味で、市場価格が現地の果物の10倍以上であるのを発見した、そこで次々と種苗(しゅびょう)を求めに来た。ネヴィウスは無料で接木(つぎき)苗を求めに来た。ネヴィウスは無料で接木苗を付近の郷土(きょうど)の人民に贈り、定期的に栽培技術と経験を伝授し、推し広めて、人民の生活に役立てた。
後に農場の規模は次第に大きくなり、ネヴィウスは当地の信者を組織して経営させた。西洋果物の申し分(もうしぶん)のなさは、すぐに当地の果物に取って代わられ、山東農民の新アイドルとなり、彼らのために多くの収入を増加した。ネヴィウスは当地の民衆の好感と尊敬を得て、大いに福音の伝播の助けがあった。ネヴィウス夫人は「夫は西洋の果物を中国に導入したのは、彼に一つの信念があり、一個の宣教師の職責は周囲の人に精神上の福祉を求めるだけでなく、その場の物質的需要にもう少し関心があった」と言った。ネヴィウスは確実に農業技術を「家政婦」として布教事業に服務させた。なぜならネヴィウスは中国民衆のキリスト教に対する排斥心理と現世利益の実用観に注意していたからである。ネヴィウス夫妻が中国へ来た頃、ネヴィウスはかつて看病していた中国人の老婆にキリスト信仰を進めたが、この夫人の反応は「イエス・キリストが私に健康を回復してくれたら、私は彼を信じる」であった。そこで、ネヴィウス夫妻は「中国人の拝神、敬信は神に対する欲求(よっきゅう)から出ていることを意識した。
そこで、ネヴィウスはかつて「適応策略」を運用して、農業技術を導入して、西洋果樹を移植するのを手段として、物資実用面で中国人民に恵みを及ぼしてから、進めて後者に西洋宣教師とキリスト教に対して親近感と帰依感(きえかん)を生み出させた。しかしネヴィウスは盛善にその布教の目標の実現を見なかったが、事実が彼の策略上の成功を実証している。彼が煙台のために運び込んだそれぞれの西洋果樹は、独特の「福音」を成した当地の百姓を幸福にして、中国西洋の科学技術の交流史に一つの奇跡を成就(じょうじゅ)した。ネヴィウスは煙台の果物を天下に名声を満たさせ、また煙台を果物の都とさせたが、彼本人も、50年後に煙台が中国一の「果物の郷」となる事ができるとは、考えも及ばなかった。南洋の豪商張弼士は聞いて、煙台に来て小山を買い取ったが、即ち今日も旧称を襲用している「葡萄山」であり、そして張裕醸造酒(じょうぞうしゅ)公司を設立し、その産品はかつて何度も国際大奨を獲得した。ネヴィウスが山東で費やした40年の歳月は、山東人民に幸福を造出したので、ある人が煙台公園に彫像を樹立することを建議し、その上「リンゴとブドウの父」の称号を加えた。

死亡離別の歌〜カルヴェン ネヴィウス、ヘイズ

1882年にカルヴェン(Calvin Wilson Mateer)は観音堂に大学部を設置し、1900年に山東義和団が反帝国主義闘争を巻き起こし、カルヴェンが登州で長年経営し大変会文館校舎も破壊された。1903年に、時局が平静化すると、第一回取締役会(とりしまりやくかい)が招集開催され、カルヴェンは長老海を代表して参加し、本来は彼は登州基地を放棄し難かったが、この時は会文館の濰県移転に同意せざるを得なく、もとの青州英国バプテスト伝道会の広徳書院と共同して、、文科理科連合大学を運営し、名を広文学堂と定めた。1917年に広文と長老会は漢口、南京、北京、瀋陽と済南の医学院と合併して斉魯大学が成立したが、元の校地は今日の山東大学の所在地である。
聖書翻訳委員会議長に推挙されたカルヴェンは、1907年に煙台で会議を招集開催した時、アメーバ赤痢を患った(わずらう)が、当時煙台には専門病院が無かったので、青島に行き、あるドイツ病院で医者に就いた。同年秋、青島に逝去し、煙台に葬られた、享年72歳。
1892年9月初めにネヴィウスはニューヨークの家から再び出発し、ヒューロン湖とスペリオル湖を北上して、輾転(てんてん)としてバンクーバーに到達した。9月18日、ネヴィウス一行は「エンプレス・オブ・チャイナ」号に乗り込み、彼らの最後の中国の旅を開始した。一月近く上海で揉まれ、彼らは上海に到着し、数日停留した後に、船に乗り煙台へ向かった。六週間の風波(ふうは)の旅程の後、ようやく10月13日に煙台に到着した。多くの中国の友達が埠頭に彼らを迎えに出て、彼らを二年離れていた家〜「南楼」に連れ帰り、郷民たちも次々とやってきて、彼らに挨拶と歓迎を伝えた。アメリカを発つ前に、ネヴィウスの心臓はもう不正常な情況が出現していた。煙台に戻った喜びと興奮と、対面する各種の仕事の重圧は、ネヴィウスの心臓には少し受け入れられなかった。深刻な心臓病の兆候が突然明らかになって来た。ただし彼は依然として明るく、元気に奮起した。数週間後、彼の身体はゆっくりと好転して来た。1893年の春、ネヴィウスは「南楼」の屋根を全面修理した。彼はこの家を少なくともまた20年は使用しても大々的な修理は必要ないと信じていた。彼が高揚にしたのは他人にあげても面倒のないように希望したからであり、彼はいつここに住めなくなるかわからないことを知っていたからです。
同年夏に、各地の宣教師が煙台に集合して、ここで招集開催された祈祷集会と布教会議に参加した。多くの活動はネヴィウスが全面的に計画した。あらかじめの段取りによって、1893年10月18日、この日は水曜日で、ネヴィウスいつもにもまして忙しかった。
午前、彼はまず領事館に行き重要な会議に参加した。午後は、もう一度そこへ行かなかればならなかった。家へ帰ったちょっとの時間で、絶えず来客にあったほか、時間を見つけて、外出訪問に必要な荷物を整理する必要があった。夜、ネヴィウスは妻の部屋に来て、ネヴィウス夫人がこの時重篤(じゅうとく)な気管支炎を患っていたので、彼女に寄り添った。この夜ネヴィウスは大変疲れを感じていて、彼は、昨年発症した時に比べてもっと疲れを感じていた。この夜ネヴィウスの精神状態はとても良く、会話もはつらつらとして、まるで焦燥不安の様子はなかった。だがネヴィウスは大変疲れを感じていて、彼は、昨年発症した時に比べてもっと疲れを感じていた。
翌朝早く、ネヴィウスは体の調子が少し悪く感じた。朝食後、彼は二階に上がり妻に、大変疲れているので、祈祷の前にひと眠りしようと思うと伝えた。それでネヴィウス夫人は彼がベットに行くのに手を貸し、布団をかぶせて、彼を休ませた。しかし彼はすぐに妻の部屋に来て、力なくソファーに座り込み、ぞんざいに彼の腕時計を妻に渡し、彼の脈拍(みゃくはく)を計らせた。彼の脈拍は断続的で、大変微弱(びじゃく)、探り得ない時もあった。ネヴィウス夫人は医者を呼んだが、医者が到着後、ネヴィウスは仆れてしまった。葬礼(そうれい)は10月20日金曜日の午後に挙行された。人々はニ篇の讃美歌を斉唱(せいしょう)したが、その中の一邉はネヴィウスが生前最も好んだものであった。
翌日、ネヴィウスは煙台で病逝、享年64歳、彼が自ら植樹した緑樹(りょくじゅ)の下に埋葬され、ネヴィウスの墓は生花に取り囲まれ、墓前には墓碑が立ち、墓碑の裏側は中国語で彫り、正面には英語が彫りつけて在り、碑文は「ジョン・リヴィングストン ネヴィウス、1829年3月4日アメリカ生まれ、1893年10月19日芝罘で世を去る。敬虔(けいけん)、忠誠、献身精神に富ん(とむ)だ宣教師。40年来彼の持つ愛は中国人に捧げ続けられた。」である。

ネヴィウス

1901年、袁世凱の求めに応じて、ヘイズ(Watson McMillan Hayes)は登州から済南に来て、山東高等学堂の教頭となり、文会館の中外教師を統率(とうそつ)し、一ヶ月で中国最初の省立大学山東高等学堂を創設した。学校で使用する教材と各項の制度は完全に文会館の制度を模倣した。慈禧太后(西太后)は全国各省に山東の学校創設の経験を模倣するように告示し、ヘイズの学校創設の功労(こうろう)を表彰したので、各省は文会館の卒業生の招聘を争奪した。同時にヘイズは山東省の最初の日刊新聞『山東時報』を創業した。彼はまた清朝に、世界で実行が慣例化している日曜休暇制度を参考にすることを、上書して清朝に受け入れさせた。山東高等学堂は初に日曜休暇を実行した。だが、1901年の末に、ヘイズと彼が連れてきた中国のキリスト教師は学生へ孔子の祭礼を強制した事に反対して辞職した。その後、彼は煙台長老会神学院で教鞭を取った。1917年、広文大学は濰県から済南南関に西遷して、斉魯大学と改名し、ヘイズは斉魯大学神学院院長を任じた。1919年、ヘイズは信仰の保守を堅持して斉魯大学を辞職して離れ、濰県で別に華北神学院を創設し、1922年、華北神学院は滕県に移り、北方で最も影響力のある保守派の学院となった。

ヘイズ

太平洋戦争が勃発すると、老齢のヘイズ夫妻と彼らの息子ジョン・ヘイズ(John D.Hayes, 1888–1957)は共に日本軍に濰県(今の濰坊)の長老会楽道院を改造した集中営に拘禁され、かつ国際垢十字会が取り仕切った(とりしきった)日米両国捕虜交換の機会を放棄して、母国への返還を拒否した。1944年8月2日、ヘイズは集中営で病死、享年87歳であった。一年後の1945年8月12日に、アメリカ軍はこの集中営を開放した。
碑文:

「愛を以て栄誉神学博士、栄養法学博士ヘイズ(1857--1944)を記念す、彼はデヴィット・ヘイズとマルガリータ・ヘイズの子であり、中国濰県に葬られた。また彼の妻の〜ジョン・ヤングナンシー・ヤングの娘〜マルガリータ、アイリーン、ヤング(1857〜1849)を記念する。彼らは1822〜1944年の間中国で宣教師を行い、彼らの働きは彼らに順った。」