山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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近代煙台の基督教史(一)

山東登州は、今は煙台に属すが、清朝時期には、登州府と称して、宣教師が中国へ来た頃には、登州は地所が山東半島一体であったので、渤海と黄海に臨んでいて、近代早期には登州と煙台は山東に来る外国人宣教師の最初の逗留地で、また早期のキリスト新教教会の中心地であり、彼らはこの両地方を拠点と大本営として、山東全省に発展し、早期の多くの宣教師は皆まず登州あるいは煙台に至るか、または両方に気を配った。1870〜80年代に至っても、この種の状況は改まらず、かえって激化の勢いがあり、後に有名になったキリスト新教の重要基地濰県、青州、済南の開創者達のように、最初は大体が登州あるいは煙台で中国を学習し、中国人の中で布教を学習した。

キリストの教えの道を敷く

1831年、ずっと中国に濃厚な関心のあったフリードリヒ(Karl Friedrich Gutzlaff)は、ロンドン布教会の元で、中国海岸線での長距離旅行を開始した。彼は東インド会社特許の汽船アムスト爵位号に搭乗し、当船の翻訳と医師に充当された。7月14日、彼らは威海衛湾の劉公島に上陸し、劉公島で、彼らは山中を漫遊し、島の漁師がまるで「皆友好的でない表情」であることに気が付いた。翌日、アムスト号は威海衛に到着し、彼らは「ここの官員は大変友好的でない」ことを発見した。しかし、フリードリヒには威海衛当地の住民が劉公島の漁師と比べて喜んでキリスト教の書籍を受け取ることがかえって嬉しい発見であった。16日、彼らは再び威海衛に上陸し、「だが我々はここの人間がかえって我々が必要な補給品を販売するのに、一人一人が我々に購買を教養するのに気づいた」。彼らが当地の官員に逢う時になって、その官員は不満気に彼らに「鳥銃を以て上陸し、何発か発砲した」と言った。だが、フリードリヒは当時の状況を記録していて、「武器を携帯するのは我々が馴染みのない国家へ行く時の習慣で、発砲するのは我々の小娯楽である。だが、我々は我々の要求を言ったが、少しも収穫がなく威海衛を離れざるを得なかった。」という。フリードリヒは「当時の山東と山東人は全く貧窮しているようで、また山東地区は大変貧窮していた。」と描写している。そこで彼らは威海衛を離れ、朝鮮へ去った。 フリードリヒ

フリードリヒが中国沿海を北上した旅行の刺激と、また故モリコンが広く配布したキリスト教文作作品が呼びかけた影響で、メドハースとスティーヴンは1835年7月21日に共に広州から出発して、「書籍配布と布教の地を探索」した。彼らは船上に約20,000冊の各種書籍、少し理解しやすい聖書のパンフ、メドハーストの「福音調和」、「神理総論」、「モーセの十誡註解」、「キリスト贖罪の論」、及び各種の出版物を積み込み、そこで彼らは書籍を伴ったまま乗船して中国沿海を北上して布教の地を探し求めた。

メドハースト

9月11日午前1時、彼らは山東東北部の威海湾に停泊し、劉公島に上陸した。彼らが出現すると、多くの現地人は逃げ去ったが、メドハーストが中国語を話すのを聞くと、すぐさま物好きが沸き起こり、この二人の外国人が配布する書籍とパンフの部屋に(現地人が)充満し、この二人が表現する「西洋的」な話を聞いた。二日後、彼らは威海衛上陸の数カ所の村を訪問し、「配布した書籍は如何なる暴力にも受け取りを阻止されなかった。」。その中の一村落で、「人々は正規の配布を待ちきれず、自分たちで配布を手伝った。」。二日間で、彼らは、もともとは「熱心に書籍を受け取ると期待していなかった。」。山東で「100ページの本1000冊を配布」した。

15日、彼らは奇山所湾(Keshan So Bay)、つまり煙台湾で上陸した。ここで、彼らは威海衛のような歓迎は受けなかったが、「ここの人は大変喜んで我らの配布する書籍を受け取るが、彼らは我らが彼らの村里に入るのを強烈に反対した」ためである。しかし、煙台湾の船上で、彼らは人々が配布する書籍を渇望して「決して多すぎない」ことに気づいた。彼らの先輩フリードリヒと同様に、彼らも無料で医療作業を行った。煙台でくず拾いが、薬を欲しがったので、彼にどんな病気か聞いた時、彼は「現在どんな病気もないが、すぐどんな病気になるかもしれないので、彼は薬を準備しておきたいと素直に答えた」。山東で、彼らは『神天聖書(新旧約全書)』を大量に含む、4,000冊の書籍を配布した。彼らの前に山東に行ったフリードリヒと同様に、人民の貧窮は彼らに深刻な印象を与えた。特に彼らがあった女性であった。「脳裏に拭って(ぬぐう)拭い切れないのは、女性の苦痛で、見苦しく、土色の顔つきで、人を不安にさせ、我らを深い同情に陥れたが、彼女らは全く救いがなかった。現状を改善する状況は見通しもなく、あるいは多くの現地人がキリスト教の自由で喜楽な影響の受け入れは言うまでもなく、少しも目前の現状を改めたがっていなかった。」

十九世紀の山東

本当に彼らが描写したように、全体的に、山東人は「外国人の立ち入る振る舞いに対する方面では、全く南方人やちょっかいをかける田舎人の熱意と機転には遠く及ばなかった。」
彼らは山東の最も貧窮の物乞いの話す中国語と認識していたにもかかわらず、南方の学者と比べて、「発音はなんじだものが多」かったが、彼らは山東人が総体的に教育があきらかに欠乏していることに対してがっかりした。スティーヴン先生は「山東の知識人の数は私の予想とはあきらかに少なすぎた。ただ我々と話を交わした婦女には一人も文字を知るものが無いだけではなく、農村中の貧苦の人にも一枚の書を読解できる人も大変少なかった。ただ、都市と豊かな場所では、読書人の比例がちょっと増えるだけである。1832年『中国叢報』が創刊すると、役に立つ宣伝を開始し、1835年11月にスティーヴン先生の旅行報告を発表したが、おそらくこのレポートの情報の伝播により、ホームズの注目を引き、彼を山東に導いた。

布教の道に命を捧げる〜ホームズ


ホームズ(James Landrum Holmes)は、アメリカ南部バプテスト教会の宣教師で、1836年5月、バージニア州プリンストンに生まれた。コロンビア学院から卒業後、ホームズは1858年7月に結婚し、翌月の新婚夫婦はアメリカ南部バプテスト教会から派遣された中国へ布教に来た。彼らは1859年の夏に上海から煙台の到着し、最も早く煙台に布教に来たプロテスタントの宣教師となった。

ホームズ

登州人はホームズを一見すると、この「変人」に対して大変怪訝(かいが)に思った。「我々が来た時様子を見に来た人でいっぱいになり、我々が城門から入ってからも、後にぞろぞろと人が続いた。我々の案内人は我々を木賃宿(キチンやど)に連れてきたが、夏の日差しの中を遠い道を歩いたので、とても一休みしたかったが、ただ我々が耐えられなかったのは、ずっと我々の後に付いて来たあの人たちも木賃宿に着いて、入り口にひしめき、中の結果を見る方法を考えたことだ。」
都市としては、ホームズは登州に対して印象が深く、彼はここの街路が広く、また彼が思っていたより小綺麗(こぎれい)な部分が多く、石ブロック積の家屋も見た目はまるで快適そうなことを発見し、彼は、現地の人は活力に満ちた体格で、(日焼けで)真っ赤な顔つきは、ここの気候が健康に有益であることを証明していると思った。登州でぼんやり二日を過ごし、ホームズと彼の中国語教師は煙台に戻ったが、登州でぼんやり二日を過ごし、ホームズと彼の中国語教師は煙台に戻ったが、ホームズはそこで四ヶ月近くの時間を過ごしたが、政治形勢が、彼を上海へ返した。1860年の夏、ホームズは再び北上したが、今回はずっと煙台にとどまり、この時間に、彼は日中路上を往来して、一軒の家に安住したかったようだ。夜、敢えて(あえて)冒険して外国人を泊める人がいなかったので、彼は港の色々な小船の中で夜を過ごし、この船が出発すれば別の船に移り、船長とも親しくなり、彼に一特権を与えた。煙台で二ヶ月を過ごし、その後上海へ帰った。
1860年の秋、ホームズは煙台に戻り、芝罘で一棟の家を賃借して内装を良くした。1861年10月、東捻軍が福山城を占領し、その後清軍の夾河防衛線を突破すると、10月7日に宮家島、珠璣などの村に突入し焼殺し、宮家島だけで36人が害を受けた。
当時ホームズ夫妻は珠璣村に住んでいたが、ホームズと別の一名で珠璣村に布教に来た米国聖公会牧師のパーカー(T.M.Parker)は芝罘住民を保護するために、共に進んで捻軍を制止したが、計らずとも二人とも害に遇い、惨殺されたバラバラにされたが、時にホームズはわずか満25歳であった。

ホームズ墓碑と撮影した米軍水兵

ホームズが被害に遭ってから、その婦人は登州に行き布教を20年余り継続し、1887年7月に帰国した。1906年、アメリカ南部バプテスト教会は煙台大馬路に教会を建設したが、アメリカ人シーマンは4,000米ドルを出資し、教会に「霍姆斯記念堂(ホームズ記念教会)と命名して、ホームズを記念するように要求した。1912年に教会が落成すると、800人を収容できる、当時煙台で最大のキリスト教礼拝堂であった。

大馬路教堂

福音の場所 開拓を創設する仕事

1861年5月、アメリカ北長老会宣教師ガイリー(Rev.Samuel R.Gayley)夫妻とダンフォース(Rev.J.A.Danforth)夫妻が登州に到着し、同年6月、ネヴィウスは妻を連れ登州に向かったが、初めて着いた時、落ち着き場所を探すのは大変困難で、紆余曲折の末、ようやく破損した観音廟を見つけ、そこに住所と布教場所を作り、山東地区の布教作業を開始した。まもなく三人が洗礼を受け、登州最初のキリスト教徒となった。ヘレンの自叙(じじょ)によると:
「1862年3月2日、教会は登州に初めて設立した。三人が洗礼を受ける。一人は寧波の人で、我が家の台所で働いている。一人は林寿宝先生で、拔貢(国子監に行ける資格)であり、ネヴィウスの翻訳を手伝った。一人は張幹臣先生で、私達の祐筆(ゆうひつ)である。当時ネヴェウス夫妻は観音堂を教会としたが、礼拝と布教の場所とするのは、実に珍しいことであるネヴィウスは独自の見解があり、彼が見つけた観音堂はインドの仏教建築とは異なり、ある種中国の伝統的な住宅建築で、容易に中国人に共通感が認められた。これに由って彼は、仏教が中国で基礎を築き急速に伝播することができたのは、主要な原因がそれが現地文化との共通感を得たと、理解したのである。キリスト教がもし中国で根付いて座して発芽(はつが)したいならば、必ずできるだけ早く中国の現地環境に適応しなければいけない。始めの何年かの布教の実践で、ようやく「ネヴィウス計画」が形成した、彼は中国教会の「自治、自ら修養、自ら布教」の三自原則を最も早く提出した人である。

ネヴィウス

ネヴィウスはその鋭敏(えいびん)な観察力に任せて、ある新作業を開始した。中国人女性の受けている圧迫、識字(しきじ)率の低さ、纏足、思想閉鎖、迷信などの特徴を鑑み(かんがみる)て、ネヴィウス夫妻は彼女らを福音を伝える対象とし、彼女らが教育を受け、技術を学ぶ手助けをし、中国の半分人口の労働力の荒廃を至らなくした。そこで、彼らは登州に来てから二年目に、何人かの父母双方が無くなり捨てられた女児数名を引き取り、寄宿(きしゅく)女子学校を創立し、自ら彼女らに読み書きを教えたが、これが山東最初の女子学校で、女子教育の先駆けの意義がある。
メリスは1862年に家族を連れてきたが、その時コレラが流行していて、途中で二人の子供を不幸にも伝染病で亡くし、その悲しみは知るべしである。
彼は登州北門外は海辺まで全体が一面の砂漠の荒れ果てた不毛の地であるのを見て、落花生を植えれば必ず利用できると考え、そこでアメリカに九回に帰った時に二包の落花生の種を持ってきて人に栽培を試させたところ、果たして成功した。数年後落花生の栽培は山東各地に広まり、「山東大落花生」の誉れ(ほまれ)を受けた。メリスの前妻の生んだ子女数名は不詳で、最後の一名の男児が生まれつき聾唖だったのを知り、臨終(りんじゅう)の時、彼女(前妻)は祈って、慈愛の父なる神がこの子をアメリカに返して専門的な聾唖教育を受けることを願い、また中国の聾唖の子が同等の教育を享受(きょうじゅ)することを願った。果たして、この子はアメリカに行き、一つの名校(Rochester School for The Deaf=チェスター障害者学校)に送られ、また後に来たアメリカの後妻(ごさい)は登州で啞児童を収容するクラスを設け、後に煙台に移り、中国最初の啓喑と言う名の聾唖学校を開設した。

山東煙台啓喑学校

メリスの後妻は元は彼の子の教師であり、二人は何年も文通し、自然と通じ合い、後に彼女はメリスのもとの妻の願いを達成するために、万里遥かに中国へ来て、煙台のコルベット牧師の立会(たちあい)で結婚した。メリスの前妻が13年前に願掛け(がんかけ)下第二の願いも実を結んだ。

メリス

仕事に深く深く伝える

1864年にネヴィウスは夫人が重病を患った(わずらう)ため、アメリカにに帰って治療した。1864年、カルバンとコルベットが夫人を伴って登州に来てネヴィウス夫妻の仕事を受け継いだ。彼らは同年冬に登州に到着し、メリス一家と観音堂に住んだ。そこはもう香華(こうげ)も絶えて、壊れた仏像が露わ(あらわ)になった古寺で、安くアメリカ長老会に売られた。翌年カルヴァンは布教作業以外に、観音堂を借りて男子学校を設立しようと決意したが、目的は科学の中国への持ち入れである。彼は科学が中国に積年(せきねん)日々深くなる迷信を打破する鋭利(えいり)な武器であり、その後キリストの教えがやっと広く伝播すると信じていた。カルヴァン夫人はネヴィウス夫人が創設した女学校の仕事を引き継いで、都察院後方に民家を借りたので、この地方では分会女学校を「察院裏(うら)」、男子校を「観音堂」と呼んで、旧称は半世紀襲用(しゅうよう)された。
1864年、28歳のカルヴァンは、当時の中国の生活水準がとても低く、思想意識の観念もとても低く、科学技術は大変立ち遅れているのを目の当たりにして、そこでキリストの教えを伝えるのは一方面で、もう一方面は当然できるだけ中国で経済社会の進歩を推進することで、そうすれば、中国のさらに多くの人が古くからの思想や現実から抜け出すことができ、そして自由にキリスト教を選択できると考えた。

カルヴァン

そこでカルヴァンは煙台で蒙養学堂を建立したが、これはある種全日制の寄宿学校で、当時新入生の募集は困難で、士族名士高官高位の人はきっと自分の子供を学校に送らないだろうし、ただ窮苦の家の子がやっと学習に来ることが可能で、学校は最初6人の学生を募集して、無料で衣食交通費を提供し、また子供達に洗面髪梳き(かみすき)をしてやったが、これらの学生は学習を堅持できるものは大変少なく、大部分が皆家に戻り早く結婚し、その後、重複の賽珍珠が描写した『大地』の山東人の生活に戻った。
後に、カルヴァンは再編改善し、蒙養学堂を文会館に昇級させ、キリスト教家庭の子供で、年齢の大きいものを募集した。カルヴァンは学校を大学に変え、現代的な学科体系を開設し、かつ同時に伝統的な儒家文化の学習を重視した。この学校はまもなく1897年にW.ルース(Henry Winters Luce)を迎えたが、即ち著名なキリスト教活動家で、寄附者で、タイム誌の創刊者R.ルースはこの学校で、学校に絶対的な歴史観と世界観の改変をもたらした。

登州文会館

カルヴァンの親友コルベットは登州に下った翌年(1865年)は煙台を選択したが、理由は此の地より前に行った膠東各地の道程とロバ、ラバなどの交通手段が比較的便利だからである。
仕事は満半世紀後に、各地に40軒の小学校を創設した記録があり、清朝は文書で称賛し、礼帽の羽飾り一本と双龍徽章一個を下賜した。義和団の時期に、膠東各地に流行った合言葉は「外人ならばコルベットを殺さず、中国人ならば趙斗南を殺さず」であった。趙斗南はもとコルベットの学生で、この人は布教のほかに各地で善行を行った。
コルベットは煙台で文先男校と「会英女校」を設立し、後に管理を合併(がっぺい)して文会書院を名付けた。コルベットの助手の牧師コーンウェル(George Cornwell,1867〜1909)は英文館を設立して、後に拡大し、実益学館と改名した。最後の二校は合併して益文学校となり、商業専門科を設置し益文商専と改名し、その北校は1960年代に建て直され、男校は山東省立煙台第二中学が今日の所在地となって、現在学生六千の多さがある。コルベットは1920年に逝去(せいきょ)し、享年85歳であった。

文会書院旧址

ネヴィウスは妻を連れて五年後に再び中国へ来て、1871年に登州から煙台に転居し、この後そこで22年もの長さ長きの生活をして、亡くなった。
教会を建て学校を運営した他に、ネヴィウスは常々に山東の内地に入り込みキリストの教えを伝え、キリスト教の書冊を配布し、足跡は広く青州府(今の益都)、潍県(今の維坊市)と沂州府(今の臨沂)に及んだ。

1877年、山東は連年の旱魃が大飢饉を引き起こし、ネヴィウスは一切の事情を投げ捨て、コルベット牧師(Rev. Hunter Corbett)らと、被災救済活動に専門的に従事し、同時にキリストの教えを当地の民衆に伝授した。彼は臨朐の高崖を中心として、被災地をあまねく訪問し、災害状況を理解し、被災者数を統計し、救済金を出す方法を決め、救済金を放出した。海外に募金するため、彼は常に災害状況と」救済の状況を把握し、煙台の妻に手紙を書いて知らせ、国外に転送した。その手紙の一段落には、当時の災害状況の深刻さを見ることができる:「1877年3月:この災害は深刻さを極め、人口の半分が近隣の数省に分散して飢饉を避け食事を求めた。過去6ヵ月の平均で100分の15がすでに餓死し、ある地方の死亡率はこれよりも高い。⋯⋯民衆の食糧はすでに食べ尽くされ、米糠(こめぬか)、薩摩芋の蔓(つる)、豆柄まで食べ尽くしている。今では木の皮、草の根などで飢えを凌い(しのぐ)でいる。私達があった人の、10人の9人は顔黄ばみ肌が痩せ、目は窪ん(くぼむ)で、骨まで柴のように痩せ、家族の心配ばかりをしていた。彼らはあえて満腹を望まず、生き繋ぐことだけを求めた。多くの人が妻女を売ることを窮余(きゅうよ)の一策とした。6、7歳の女児は12元で売れ、10〜12歳は3〜5元で売れた。」

「1877年6月:この数週間の死亡率はさらに高くなり、⋯⋯500人の村落で300人が餓死し;300人の(村では)100余が死んだ。臨朐のある村では、昨年の夏に180人がいたが、現在は93人を残すだけである。彼らは衣服を売り飛ばし、着る物もなく、地下に室穴を掘り、寄り添って暖を取り、一人死ぬと一人を足した。」

ネヴィウスは全力で災害救済に投入したが、アメリカン・ボード(海外布教団)の報告によると、援助救済銀7,600両余り、383ヶ村の32,593人を救済し、彼らの義挙はキリストの美善を実証し、数万の人民が恩恵を受け、多くの被災者の尊敬を勝ち取ったので今多くの人が慕って(したう)教えを聞き、洗礼を受けキリスト教徒となり、一年のうちに新増した教友は数百人を下らなかった。その内幾らかの信徒は家を教会とし、キリストの教えの中心となり、次第に多くの布教所が現れ始めた。ネヴィウスはまた10数人の男女児童を煙台に連れ帰り、「餓死しそうな児童を、受け入れ学生として、育成して成人とした。」」