斉中簋
1962年に招遠県霊山郷東曲城で西周時期の一式の青銅器が出土したが、そのうち最も重要なのは2件の造形が精美な銅簋(どうき)〜斉中簋である。この2件の銅簋は1対1で、構造と、模様、大きさは全く同じで、その内1件が煙台市博物館収蔵となっている。斉中簋は通高19.7センチメートル、口径18.5センチメートルである。口縁部は僅かに外巻で、胴が深く、下腹が外に張り出し、圏足(高台がある)、圏足の下に三本の獣面(じゅうめん)蹄足があり、大変風変り(ふうがわり)である。両側には獣首形の耳(取手)が付属し、耳下には飾りが付き後円部下には2匹の一首双身の夔龍(きりゅう)紋を装飾し、龍首は浮き彫りを盛り上げ、胴及び圏足にはそれぞれ凸弦紋(でっぱりのある平行線模様)を装飾する。簋は殷から春秋戦国時期に流行し、主に煮炊きした飯食を盛った、現在の飯碗と飯鉢に相当する。古代人は饗宴時に地べたに坐り、簋を席上に置き、手で食物を取った。殷周時代には青銅器は貴金属で、その中で常に饗宴、祭祀に用いられた器物は次第に貴族階級がもっぱら享受する典礼の器物となった。簋は重要な礼器の一つで、それは往々に偶数と奇数の鼎の列に連携して使用され、天子の典礼には九鼎八簋を用い、諸侯は七鼎六簋をもいる如きなど貴族の等級の高低を表示する。これはつまり周代礼制の「鼎簋の制」である。
斉中簋は普通の礼器ではなく、その重要性はその持つ一篇の銘文にある。銘文は簋の内底に鋳込まれており、二行五文字「斉中作宝簋(斉中宝簋を作る)」。これが一名の「斉中」という貴族の人物が製作した記念礼器であることを説明している。この貴族は斉を姓としていて、彼はつまり斉国当地集団の人物である。斉中簋の時代は西周中期で、当時の斉国の中心はまだ臨淄にあり、その境域の範囲は東の最遠でも膠来河を超えるのは不可能である。では、この斉国の銅の礼器はどうしてさらに遥遠な膠東半島に到来したのか。古代には、銅器は貴重な礼器とされ、その流伝にはいくつもの事情:報酬、贈呈、結婚、また戦争に略奪などの如きがあった。どの種の事情に関わらず、この銅簋が斉国との密接な関係を代表するものを説明している。さらに重要なのは、斉中簋が出土した曲城の地はかつて一度も経伝に見えない古代国家であることである。斉中簋もこの古国の謎を解く鍵なのかも知れない。
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