山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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アメリカ前大統領グラントと煙台

北方で最初の開港都市の一つとなった。近代煙台は優越な地理位置と良好な水深のある港湾で、西洋人が中国を訪問する重要な足掛かりの一つであった。1879年6月17日、開港都市煙台は1名の神秘的な貴賓〜総統の任を降りたユリシーズ・シンプソン・グラント(Ulysses S. Grant,1822-1885)を迎えた。煙台地方政府はこの大洋を彼岸から来た客人で、黒人解放の英雄のために盛況空前な歓迎儀式を挙行した。これは煙台の歴史上最初の西洋国家元首の接待であり、また近代煙台の外国賓客の接待活動中でも規格が最高の一回であった。

煙台を訪問したグラント将軍はアメリカ史上一番の勲功(くんこ)が顕著な総統である。彼の出身は卑しく(いやしい)、南北戦争の時に連邦軍総司令を担任し、しばしば優れた功績を建てた。1867年、1872年の、二度総統に当選した。1877年任を終えると、不満足ながら政治舞台を去り、妻のジュリア(Julia Dent Grant)を伴い二年間の地球一周航行を開始した。1878年末、彼は歴史が悠久な東方の大国〜中国の訪問を決定した。1879年4月7日、グラントは安南から乗船して香港に着き、前後中国広州、澳門、上海、天津、北京などの地を歴遊し、最後の立ち寄りは山東半島東端の沿海開港都市煙台であった。

中国のおもてなし

初めて中国を訪問することになった西洋の国家元首として、グラントは清政府の高い注目を引き起こし、この退任したアメリカ大統領に最高規格の礼遇を与えた。
夙にグラントが中国各地を訪問する前に、清政府はグラントの来訪に、たとえばいつ旗を換え、いつ祝砲を鳴らし、いつ演奏し、また式場の配置、接待人員の手配、訪問者たちの安全問題など、詳細な準備を進行した。グラントが上海に到着した時、劉道憲(劉道憲は劉瑞芬、道憲は道台の尊称)に接待を担当させた。このため劉瑞芬は上海豫園の萃秀堂に宴を開く席を用意し、事前に通商港総領事リットーを通じてグラントを招待するなど、もっぱら「相当歓迎礼節メニューを予約した」。天津に着いた時、直隷総督兼北洋大臣李鴻章は接待を主催した。招待を周到にするため、李鴻章は天津駐在米国領事ともっぱら相談し、礼節十条を取り上げ、特にその夫人のために「大統領夫人を歓待し、西側の女官5人の相伴を求めた」盛宴を段取りした。
煙台に着いた時、接待作業を担当したのは登莱青兵道兼東海関監督方汝翼であった。方汝翼は上海の『申報』などの新聞を通して、グラントの行程に注目しており、上海道台劉瑞芬が巨資を割いてグラントを招待したことを知っていた。道台の劉瑞芬の一人目立ちをさせないために、方汝翼は、グラント一行は煙台で一日を過ごすだけで、その一日の招待費用も上海を超える(グラントの上海訪問は三日間)必要をした。方汝翼は特に東海税関事務司イギリス人シンプソン(C.L.Simpson)と交替し、「本道台は(グラント一行の)一切の費用を受け持つので進めろ(Go ahead, and the Tautoi pay the bills)とした。6月16日、グラント一行は「リッチモンド(Richmond)、「アシュロット(Ashuelot)」号艦船で天津を離れ煙台に向かった。煙台到着の前に、駐在転送アメリカ領事ドニー(Owen N. Denny)が煙台に前乗りしてグラントの接待の準備作業の検査、督促(とくそく)を行った。
6月16日、グラント一行は当時西洋人が「中国ニューポート(New-Port)」と呼んでいたこの港に着いた。グラントの随行員の記録によると、「我々が煙台の港に到着すると、港内に散らなっていたサンパン船が、びっしりと岸壁(がんぺき)に留められた。一隻の警備艇が上陸する場所の戦艦に寄り添って揃って留められ、艦上には万国旗がはためいた。」「リッチモンド」号艦船が埠頭に留まるとまもなく、港内の警備艇はすぐに礼砲を、合計21発鳴らした。赤、白、青色の絨毯が敷き詰められた埠頭上に上陸すると、岸上ではしばらく、鼓楽が一斉に鳴り響いた。この時、埠頭では人間のが犇く(ひしめい)ていて、登莱青兵備道兼東海関監督方汝翼、先ごろ到着したデニ領事、煙台駐在アメリカ代理領事のイギリス人プラット、東海税関事務司シンプソン(C.L.Simpson)及び煙台在留の西洋人が皆埠頭で恭しく(うやうやしい)待機した。その後、衆人にびっしり囲まれたグラント夫妻は埠頭近くの東屋に来ると、そこで荘重な歓迎式典が挙行された。儀式の終結後、グラントはすぐに煙台山の煙台駐在アメリカ代理領事官邸に向かった。埠頭から領事館へはおおよそ400メートルで、路上は全て赤色絨毯が敷き詰められた。起点には大型の赤色凱旋門が臨時に建てられ、凱旋門上には中・米両国国旗が交差して配置され、付近の外国人居住区の住宅と税関建築の全ては装飾で一新され、「グラントの煙台訪問を歓迎する」を記した標語デ満ちた。
騎馬の中国官員が前面を先導し、道台方汝翼の護衛隊による儀仗隊が20枚の色鮮やかな彩色旗を担いその後にびっしりと続き、儀仗隊(ぎじょうたい)の後にはグラント大統領の乗った豪華な8人担ぎ(かつぎ)の大輿(こし)で、大輿の後の大隊は猩紅色塗る服装の清兵が続き、路傍(ろぼう)には長矛を手にして一列に並んだアメリカの煙台領事館官邸の護衛兵士であった。
この時煙台の街灯(がいとう)は皆家、空にして出かけ、中外の人士が揃って煙台山下に集まり、この伝説中の「国家のトップに上がった、海外の雄才。政治世論が有名で、中外に好まれる」アメリカ大統領を争って見に来た。
正午に、登莱青兵備道兼東海関監督方汝翼は煙台駐在アメリカ代理領事館でグラント一行のために宴を設け歓迎した。音楽の伴奏中に、ゲストが席に落ち着くと、一時盃(さかずき)を取り交わし、酒を取り喜びを語り、双方が遅い面会を恨んだ。宴席は、上海の劉道憲と李鴻章がグラントに請うた宴の規格を参考にした。席は様式デ、卓上に白布を敷き、中外の果物を、異常に宝具に羅列(られつ)した。食事は中洋両用で、山海の珍味(ちんみ)が、次々と尽きずに現れた。酒はフランスの商店から求めた、最高のワインであった」。昼の宴ののちに、グラント一行は煙台市街を一通り巡視した。
華燭(かしょく)の盛典の初めは、東海税関税務司シンプソン夫妻が煙台山の税務司官邸にグラント夫妻一行を招待した。
この時税務司官邸の庭園では、至る所を提灯(ちょうちん)で彩り(いろどる)、樹上、灌木(かんぼく)の上、門の上、あずま屋、手すりや柵の上、階段上も全て灯籠を掛け、広い渡り廊下や外壁応接も皆応接室とされ灯光が金碧に煌い(きらめく)た。晩餐の始まる前に、煙台の海岸では多くの花火が打ち上げられた。花開く花火、紅色の灯籠、風に翻る美しい旗は、疑いもなくグラント大統領に煙台人の厚情を感じさせた。
晩餐で、登莱青兵備道兼東海監督方汝翼は大変活躍し、彼は「華麗で洒脱(しゃだつ)な官服を着け、えんじ色の帯の房飾りの官帽をやや後ろ向きにして、顔面には無邪気で柔和(にゅうわ)な微笑みを添えていた。両手を固く握り、いつでも「どうぞどうぞ⋯⋯」の動作を添えていた。シャンパンを彼に手渡された時に、彼はその場の一人ずつと盃(さかずき)を鳴らす心算(しんさん)でいたが、宴席上には一人の紳士も彼に協力する者はなかったようである。晩餐が収束すると、税務司官邸では舞踏会(ぶとうかい)に加わった大多数は「リッチモンド」号、「アシュロット」号艦船上の海軍軍官と煙台に居住する西洋居民であった。

深夜の礼砲

真夜中、興(きょう)を尽くしたグラントはベンハム艦長の御共で、「リッチモンド」ヘ戻り、帆を揚げ出航する準備をした。この時、中国方面は: グラントが艦船に搭乗してから、中国は21発の歓送の礼砲を鳴らしたと、情報を伝えている。
中国のこの情報はアメリカ海軍を大変困らせ、またアメリカ艦長のベンハムにも多少の難題を与えた。
国際礼儀にからいえば、もし中国が歓送の礼砲を鳴らせば、それは客人のアメリカも礼砲を以て返礼を示さねばならないのである。しかし当時のアメリカ海軍条例では、アメリカの戦艦は落日後の礼砲の放鳴は禁止されていた。もし太陽が登るのを待ってからやっと礼を鳴らせば、それはアメリカ艦船はおそらくもう茫洋とした大海中に到着しているであろう。このため、アメリカ海軍の条例に違反しないようにやり遂げ、また中国側の好意にすぐ答えなければならない一難題がベンハム艦長の面前に立ちはだかった(たちはだかる)。そこで、彼は専門的に将校を招集して協議を進行し、アメリカ海軍条例が落日後に礼砲鳴放が許されるかの情況を討論した。十分な能力と常識を持つ熟練した海軍軍官として、ベンハム艦長は、もし中国歓送礼砲を鳴放すれば、アメリカがすぐに礼砲で謝意を応答しなければ、それは客人として大変失礼である。この特殊な状況の下で、まずは中国人の好意を優先して認めるべきで、アメリカの訪中の基礎は平和、尊重と善意である。最後に、アメリカは、煙台道台の好意を尊重して、礼砲を鳴放して返答し、返礼を示すことを決定した。
グラントが「リッチモンド」艦船に乗り込んでから、中国は礼砲を鳴放し始めた。中国の砲艇には礼砲の砲弾がなかったので、実際発射された「礼砲」は大口径の砲弾であったので、真夜中の礼砲は格別に響いた。中国が21発の礼砲を鳴らし終えると、アメリカ艦船は礼砲を鳴らし始め、感謝を示した。
ドーンドーンと礼砲が天地を震撼(しんかん)し、絶えず煙台山の山海間に響き渡り、ぐっすり眠っていた煙台はにわか覚醒(かくせい)した。当然、歴史も此の中米交流史上の趣きある一幕を記録している。6月18日夜明け前の午前4時に、グラント一行の乗り込んだ「リッチモンド」号、「アシュロット」号艦船は順次煙台港から走り出て、グラント世界一周の旅の次の停泊地〜日本の長崎にまっすぐ向かった。

ここで、グラントの中国行は煙台で円満に幕を下ろした。

日本文資料整理 李君