山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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近代青州のキリスト歴史(一)

青州市は、山東中部に位置し、山東省の統括する県級都市で、古代九州の一つであり、1986年に元の益都県から県を撤廃し市を設置した。

アヘン戦争後に、清朝と各国代表は協議を取り交わし、宣教師達が合法的にかつ円滑に中国内地に入り込み布教を進行することをできるようにした。およそ1860年ごろ、英米両国のキリスト教は宣教師達を派遣して船に乗せ山東煙台から上陸後、すぐさま旅立ち登州に入り、登州周辺で布教作業を開始した。のち山東内地に推進し、そこで濰県と青州を山東内地の新しい開拓場所としたが、資料には、1860年に、アメリカ長老会とイギリス・バプテスト教会は協議を達成し、青州はイギリス・バプテスト教会が布教し、アメリカ長老会は退出した。

ティモシー

確かな歴史に記された青州最初の宣教師はティモシー(Timothy Richard)で、1875年、志願して布教の脱穀場に侵入したティモシーは、イギリス・バプテスト教会を経て、中国に侵入した。

始めに、山東煙台で布教し、布教事業に従って内地に推進し、煙台から200マイル離れた青州に行くことを決定した。1875年1月、ティモシーは青州に到着したが、異様な欧州の服飾は、当地の人に珍奇(ちんき)に映り、前市街の人がとても好奇的に大量に彼らに着いたので、郷に入っては郷に従うために、

ティモシーは現地人の服飾を着ることを決め、頭を剃り、後頭部にフェイクの弁髪を付けた。彼はまるでいつものように宿所から散歩に出た時、人々は彼の着物に驚いて、現地の人が皆ばらばらと駆け出して来て、大きく眼を見開きこの奇観を見た。彼は一人に聞いてまた別一人に話した。「へえ、今は彼は人のように見える。」そしてその日の午後、彼も格別な招きである家に茶を飲みに行ったが、傍観者も紙を貼った窓にへばりついて、窓辺に穴をあけ、穴を通してこの「中国人」のような外国人をまじまじと見た。後に一人の現地の倉庫管理人が保証人となって、ティモシーは現地で一棟の家を借りることができる。

教義と洗礼

現地の教派の要求を満たすために、ティモシーは手元で探す事のできる教理問答(もんどう)を、英語、ウィールズ語とに関わらず、一緒にまとめて、最も良いものを選び、中国人の生来の知識感覚に対して影響を及ぼすことのできる問答を加えた。また最も広範な当地の宗教に対する小冊子を利用に加え、偶像崇拝の内容を削除して、唯一神崇拝の条文を加えた。
その間、一人の糸紡ぎ(つむぐ)を生業とする敬虔(けいけん)な人が、いつもティモシーを訪ねて来て、そして彼に一冊の教義問答を彼が帰ってよく読み、暗誦(あんしょう)(神聖な経文を暗誦することは、宗教に敬虔な中国人が行う一種ありふれた方法である)できるように、与えてくれるように求めた。彼は大変喜んでそれを家に持ち帰り、毎日声に出して読み、一ページ一ページよく読んだ。
ある日、彼(糸紡織人)が学習研鑽(けんさん)していると、彼の妻が突然悲しそうに泣き出した。彼は彼女にどんな事情が彼女を大変にしたのか聞いた。「貴方は天国へ行けるだろうが、私は取り残されている。」彼女はこのように答え、また悲しそうに泣いた。「貴方もこの教えを学べば、その後天国へ行けることをできるよ」と彼は言った。
「できません、私は大人になっても文字の一つも知らないのにどうやってこの本を学べるのだろうか」と彼女は涙ながらに言った。「俺が教えよう」「私は頭は悪い 私はこの文字を覚えきれない」「もし君が毎日一文字学べば、それは難しいことではない。このようにすれば十日で十文字を学ぶ事ができ、百日でつまり百文字となる。ただ君がやり通すだけで、遠くない内に、この本の文字は、君の全部知る所となる。」「私はやり通します、」彼女は答え、「貴方が一緒に教えてください」、このように、彼らは一緒に教義問答を研鑽した。
教義問答の編纂の他に、ティモシーはおよそ30篇の讃美歌を選択した。この讃美歌はキリスト教でない人に対しても、解釈せずとも、影響力はあった。後に、糸紡ぎ(つむぐ)職人の夫婦はティモシーに洗礼を受けることを求めた。青州府内の西門外に、あの河に彼らが洗礼を受けられた。1875年末に、青州府で、キリスト教徒になった男性はたった三人で、その一人はその紡ぎ職人であり、二人目はティモシーの中国語教師である。しかし、1876年の始めになると、洗礼を受けた人は15人に増加した。


偶像と唯一神

しかし災難の多い中国では、その当時頻繁に旱魃(かんばつ)で、全く雨が無く、1876年の春に、農民が種蒔きをした後全く雨が無く、官員と民衆は大変焦って(あせる)、色々な廟祠に雨乞いに行った。青州府の行政長官は、民衆に、どのような肉、特に牛肉を食べない、精進(しょうじん)を呼びかける、広告を発布した。ある日、彼は鉄鎖(てっさ)を自分の首と腕、足につけ、市街の路上を歩いて、大廟へ雨乞いに行った。中国の官員が出かける時に全て輿に座るので、これは一種変わった光景であった。地元の民衆は柳で編んだ花笠(はながさ)を着けて、群を成して彼の後に着いた。その行政長官は廟中の神像の前で地面に匍匐(ほふく)礼拝すると、民衆も外の広庭で匍匐礼拝して、恭しく(うやうやしい)降水を求めた。この種の伝統的で、封建的な雨乞いの方法はティモシーを大変驚かせ、そこで彼は文字の少ない宣伝ポスターを作り、彼らに、皆さんが雨が欲しいのならば、最も良い方法は死んだ偶像を捨て去り、生きた真神(まかみ)に転向して、祈り彼の生命に対する掟(おきて)と要求に服するのだと訴えた。ポスターが各県城の城門に貼られると、効果はかなり驚異的であった。老人の多くはティモシーの足下に跪い(ひざまずく)て、彼らがどのように崇拝して生きた真神(まかみ)に向かって祈れば良いのか求めた。山間の纏足女性まで山を越え青州府へ同様の問題を訊ねに来ていて、数年後、この村民はその山村地区のキリスト教会の中堅となった。そしてこの古い封建思想は、その飢饉の数年に、絶えず湧き出したので、ティモシーは民衆の神に対する渇望と聖書の内容を利用して、導きと帰善を進めた。

「7月2日(日曜日)に民衆に占い師が復活して、今年は三分の一の人間が死ぬと予言したと噂が広がった。若し一人が十人に噂すれば、この人はまたほかの十人に伝え、この人はまた十人に伝えて、久しくせずして、全国の人が皆非常に危険を感じるようになった。そこで私は噂の伝播の「チャンス」を利用して、アブラハムがソドムに、ヨナがニウヴェ人に対して話したように、私も民衆に対して、自己の懺悔(ざんげ)をなし、心を神に向かわせ、ただこのようにすれば神は彼らを憐れんでくれると根気よく促した。」
このように単独で布教する環境に在って、1877年5月に、イギリス・バプテスト伝道教会はジョーンズ(Alferd. G. Jones) を青州へティモシーの救済作業の協力に派遣し、同時に白銀1万両ばかりを分配した。大量な被災者がいたので、ティモシーは多くの救済方法を考えたが、伝統的な集団配布は、重大な将棋倒し(しょうぎたおし)事件を起こし、救済の効果を弱めていた。そこで探索する内に、彼らはある有効な効果のある方法を発見した。被災者を広い場所に整列させて、皆が安静な情況で、彼らは願い通り両替した銅貨を皆に配ることができた。このような方法は将棋倒し事件を避け、また繰り返し受け取る現象を減らした。1877年末になって、ティモシーは山東を離れ、凶作がさらに厳しい山西へ救済に行き、この時ジョーンズは一人青州にとどまって救済と布教を継続した。

前面右一ジョーンズ

ジョーンズ

排斥と受け入れ

1877年末、ティモシーは招きに応えて山西に行きさらに恐れるべき凶作の救済をした。ジョーンズは青州にとどまり、一人でイギリス・バプテスト教会の山東派遣会の作業を担当した。彼は救済に関係する勘定役(かんじょうやく)と先に建立された孤児院を担当した。孤児院は青州府市街数十マイルの大尹村の大邸宅の家庭内に、祟リ(たたり)があると言われ、
そこはしばらく荒廃していて、誰もそこに住もうと冒険するものが無かった。当時に人間は外国の宣教師を理解していず、お上から民間まで、皆大変外国排斥の風潮があった。村民は彼の家に放火して焼払うと声明したので、彼が中庭に取水の井戸に毒薬が撒かれた。朝起きてみると、正門には細々(こまごま)と物で塞がれ(ふさぐ)ていた。中庭や、家の中にはいつも石が投げ入れられた。このような環境のもと、ジョーンズは絶え間なく孤児を引き取り世話をする事、前後2,000人余りに達した。これらの故事を養育するため、ジョーンズは自分の親しい友人、キリスト教会に助けを提示して、彼らに義捐金(ぎえんきん)を求めた。ジョーンズはまたこれらの孤児に生活するための技術に長じる学習を教えた。孤児たちはここで、鉄鋼、木工、紡績とロープ製作などの技術を授けられた。ジョーンズはまた国外にいくつかの機器を発注し、各種の子供だましから威力の大きい旋盤台まで、孤児らに現代工業を接触させた。また孤児らは新しい絨毯工芸を身につけ、一つでたくさんの工具を擁する工場を形成した。
ジョーンズから建立した青州キリスト教堂(1950年)

綿紡績業と養蚕基地の建設

ジョーンズは実業家が経済に対する鋭敏(えいびん)な観察眼を持つを持つ、彼は宣教師に中国人を幇助(ほうじょ)することを呼びかけるのと同時に、青州府で彼自らが称した「綿紡績工業を建立する試験」を実施した。彼は根本から問題を解決する必要があると考え、最も良い方法は、「救難と利殖(りしょく)を役に立て、更に便利なのは機器局(機械工業管理役所)がないののも、かりにも学堂を設立し生徒を募集するならば、工業を以て救済に替えれば、多少の慰めになるだろう」。当時青州一帯の民間婦女は手工芸で紡績糸を作っていたが、生産効率はとても悪かった。彼はイギリスの紡績機器を青州に持ち込み、機器生産を手工作業に替えようと考えた。技術屋を招聘し、信徒を招いて機器の操作を学習させたが、作業者は皆キリスト教徒であった。当時青州の民情は未開放で、人々は西洋機器に不慣れであり、紡績部署の創建は困難が山積みであった。ジョーンズは門下の生徒を率いて、心血を紡績機器に尽くして、経営すること4年で、完成を告げたが、試験織紡の12〜14号は皆不合格が無く、門下の生徒の技術は熟達していた。1897年、紡績部署は営業を開始した。残念なことに、彼らが購買した所有の機器は1900年の義和団運動中に焼き捨てられた。
1898年、ジョーンズは欧州から蚕種と養蚕技術を買い取り貧窮した信徒に紹介した。1899年の春に、ジョーンズは蚕種を12名に支給して養蚕を試験培養したが、結果は大変成功した。洋蚕は現地の蚕より糸を多く産し、かつ蚕糸の発色も大変良かった。
新蚕種を普及するため、ジョーンズは『教務雑誌』に手紙を書いて、無償で自分の手中の蚕種をその他の地区の宣教師に分け与えて、彼らに普及を助けさせ、さらに多くの中国人にその実益を獲得させることを希望した。正にジョーンズが熱心に優秀な蚕種を普及したので、青州はのちに山東で最も有名な養蚕基地となった。

救済と離別の歌

1888年6月、黄河流域は連日の大雨で、勢いは盆を傾けたようで、黄河付近の鄒平一帯は、洪水が発生して、黄河の水が氾濫し、田畑や、家屋が水没し、飢饉が発生した。バプテスト教会の人はここへ救済と、同時に新しい教区を開発に行った。ジョーンズ夫妻は1889年に鄒平に来て、彼はここで救済しながら、布教伝道し、鄒平に青州に次ぐ第二の大教区を打ち立てた。彼は鄒平に7年に住んだが、この期間に、彼は疲れを知らずに、鋭敏努力した仕事で、鄒平で困窮の人の救済と布教のために一片の新天地を開闢(かいびゃく)した。1896年になって、ジョーンズ一家はやっと青州府に帰った。

鄒平教会にははめ込まれた『仲牧徳碑序(ジョーンズ牧師頌徳碑序文』

1905年7月、ジョーンズは泰山に休暇に出かけ、そこで執筆作業に忙しかった。彼は泰山山上の小廟に泊まり、周囲は小山の斜面であった。
7月17日(月曜日)の夜、泰山の上は暴風雨で、一陣の強風が廟の基礎を引き裂き、小廟は倒壊し、ジョーンズは中に埋まり、落下した梁が彼の身体に当たり、成年盛りだった彼はこのように世を去った。彼が亡くなると、彼の同僚や、特にジョーンズ夫人と彼の二人の女児、一人の男児は重い衝撃を受けた。友人らは彼の遺体を青州へ運び帰り、派遣会の儀式で葬礼を挙行した。埋葬の日、大群の地元人と外国宣教師は残暑を侵して彼の為に葬送し、意外は青州府城外の、彼の思いで築かれた中国式墳墓に埋葬された。後に、その足元にまた一墳墓を築かれたが、これは彼の旧親友で、山東共和神道学院(校址は青州)教授、斉魯大学神学院主任院長、アメリカ北長老会の有名な宣教師ウィリアム(William P. Chalfant)博士のもので、これはウィリアム博士とジョーンズが共同な処世(しょせい)思想を持っていたので、彼の死後遺体をその旧友の足元に埋葬することを求めたのである。鄒平キリスト教会は訃報(ふほう)を得てから、特に一片の碑を刻んで教会の壁の中に組み込んで永遠の記念とした。
ジョーンズの墓碑は、僅かに「老公仲氏」とだけ見える。

ホワイトライト〜青州培真書院/博物館

ホワイトライト(懐恩光、John Sutherland Whitewright)、字は恵普、イギリス人、1858年9月5日にエジンバラに生まれ、1879年に青州へ布教に来て、1881年にホワイトライトとジョーンズは聖経学堂を創設し、布教員を育成した。1885年に発展させ青州神学院とし、中国語の校名を培真書院とし、学制は5年であった。1887年に培真書院は社会教育を開設し、ホワイトライトは博物館を創建した。博物館には地球儀、望遠鏡、汽車模型などを展示し、参観人は毎年7万人であった。1893年にイギリスのエドワード・ロビンソン夫妻から寄付を受けて、東華門街に新校舎を建設し、この寄付はコッチ博士(Dr.Cotch)とイリサ・ロビンソン(Elishu Robinson)を記念するためのもので、名を取って葛羅学院とし、中国語名を葛羅培真書院とし、当時北書院(前濰坊教育学院北部)と称し、1887年に社会教育を開設し、講堂、会所、教室と博物館を建て、博物館は名を「博古(または物)堂」とし、ホワイトライトが担当した。

培真書院

青州博物館〜博古堂

青州博古堂は青州偶園の西側(今の偶園路270号)に位置し、ホワイトライトが青州に到着後、まず布教堂を設置し、布教職員を育成し、のちまた継続して学校、病院を建設したが、ただし、特に旧知識人たちが西洋人への反抗に尽力したので、教会の目の届く影響は深入りを少なくして、布教拡大の影響を継続するために、ホワイトライトは外国博物館の形式で展覧室を建て、参観に来た人に機会に乗じて布教したが、これが青州史上最初の博物館〜博古堂であった。ホワイトライトが博古堂を建立した初心は布教事業の拡大のためであり、建築形式であれば内部の陳列から見ても、博古堂はキリスト教布教の目的を仄めかせ(ほのめかす)ている。近代の西洋科学技術の領域は中国に先んじ(さきんじる)、大量の新旧珍しい近代科学技術の産品が中国に流入し、当時の中国民衆にとって、確実に阻む事の出来ない吸引力があった。宣教師たちは正にこの一点を目にして、利用に加えたのである。博古堂は無料で群衆に開放され、一時の多くの参観者を引き入れたが、無料の条件は静かに教えを聞く事であった。博古堂には講堂、フライド室が設置され、いつも信仰に関する講演が開催され、接待室では定期的に布教が行われ、機会を掴んでは参観者に教えを説き、福音を伝えた。
膠済鉄道の開通に伴い、青州は次第に大量の韓商文人の集散作用を失い、人流は次第に減少した。だが済南は人が集中していて、交通の便が良かったので、ホワイトライトは1904年に博古堂の大部分の設備と、収蔵品を済南に運び、済南に広智院を建設し、ホワイトライトは院長に任じ、後に斉魯大学の社会教育科となったが、済南博物館は「広智院“(その知識を広める)”の意味」と名付けた。

広智院

済南広智院

広智院に陳列された動物、植物、鉱物、天文、地理、機械工作、衛生、生活、農産、文化教育、芸術、歴史、古物など13部門1万点余りの展示で、公衆に通年公開された。確かに「知識を広める」作用を果たしている。当時青州の博古堂は公開を継続していたが、開館時間は短縮された。青州解放後、宣教師は立ち退き(たちのき)を迫られ、博古堂はこれによって閉鎖された。

該年広智院展覧した鯨の骸骨

1904年にホワイトライトは青州を離れ済南で広智院院長に就任した後に、青州キリスト教会は頌徳碑を教会に建て、ホワイトライト夫妻の創出した貢献を表彰した。しかし碑は損壊され見えないが、碑文は心ある人が抄録して、抄録で錯誤(さくご)もあるが、大変価値ある資料である。碑文:

怀牧师暨师母德教序

夫以吾人未迪厥德,笃生仁人,使之涉重洋宣福音,颛(zhuan)蒙偕大道雍睦之风遐迩一体,是上帝心之仁爱,则望於牧师,爱人之心何有加无己也。牧师即恩光,字恵普,英國北部苏格兰都城人。少年为学,和厚敬恕之德蚤蜚英而腾茂。光緒七年来青郡主讲培真书院,迄今巳历廿二年,授业不下百卅人,其高足者各任教会要职,知牧师之陶成以多矣。其精力亦宜口矣,而猶日对生徒,阐经奧旨,有闲必人,无义不搜,悟天道之真諦,詮續人生之真命脈。其愛人也為何如况復謙以持己而陵轢者化寬以責人而悔過者深憫人則推解無吝忧人則療治多方慈惠之情,历久彌篤。人之飲和食德者并煦煦焉如坐春風中。牧師嗜博古雅重儒書,擇六經為義訓深見天人之旨口合無聞。又著《聖經淺旨》一書,啓迪后進。何一非愛人以德之事夫以愛人為心者,外即有以孚物,內尤足觀型賢。師母出其才力,為初学講經旨,釐(li)詩譜,諄誨往复,勞勤不辞。院內經費歲逾三四千緡(min),均歸師母會計,已耗心血缕缕矣。又憫教會諸女友道友未諳恒於礼拜日或礼拜三邀女友赴院中飲食之,教誨之,殷勤懇摯悉本性真慈母也,而嚴師彼巾帼者流親炙德輝,閨弗望風引領,以承教懷,不数年而閨中積習頓覺改觀,則是師母大有造于華也。夫以牧師之德,濟以賢內助,心心相印,榖我士女传道者將繇此目重,聖教益臻於昌明,此牧師之力以師母之力也。教澤既浹(jia),世澤滋長。今喆嗣兢爽嶄露頭角,則彼之眷德意已可知。諸生久沐洪恩,寸心銘感谷勒石以述梗慨,而牧師懷君恩光对遏此門足見謙德彌光亦見仁愛出于天性,非粉飾沽名者所可疑也。传曰:仁者愛人。又曰:其仁如天。斯言也,唯牧師與師母足當之。吾即以是頌之而已,至于鋪張之諛詞,反有誣於盛德,亦何足陳。

侯選教諭優行貢生臨朐友誼 馬瑞青謹撰 益都教友 

楊掄傑 書丹 受業人 邵禄書 王玉堂⋯⋯(160人)

西歷一千九百零四年正月十一日 光緒三十年十一月四日 勒石


済南に到着後、ホワイトライトは1817年に斉魯大学神学院で教え、定年後も済南に住み、1926年1月10日に世をさり、済南に葬られた。