山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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ダン・シン(董盛)父女と中国の特殊な縁

万豊洋行は近代煙台の最大のピーナッツ輸出商で、1922年ドイツ国ニグマン氏が、煙台で創立し、最後の支配人はダンシンであった。ダン・シンは中国で生活と仕事を24年をして、その内煙台では17年の長きに達し、ダン・シンの4人の子女が煙台出生で、その中の女児ドン・サラ(董莎楽)は後に造詣のあるドイツ国の漢学者となった。いわば、ダン・シンと彼女は中国と特殊な縁を結んだ。

    洋行のナイチ社長

ダン・シン(1907〜2002)、ドイツ人、1930年に煙台に来て、万豊洋行の本部は煙台芝罘区大馬路西端もあり、ドイツ資本の洋行で、当初は豚のケーシング、ヘアネット、レースや刺繍などの業務を経営し、後にピーナッツの業務を主とし、煙台最大のピーナッツ輸出商であり、産品は主に欧州、アメリカ、カナダに販売された。1925年、万豊洋行は威海衛中山路に支社を設立し、1931年には大連に別の会社を設立し、ハルビンにも支店を開設した。ダン・シンは万豊洋行の一般工員から仕事を始め、後にその後、次第に威海衛支社支配人、大連支社支配人に昇進。1940年代初、彼は煙台本社の支配人を担当した。

ダン・シンは他に特殊な身分があり、ドイツのナチスの山東省総代表であった。1930〜40年代、中国で仕事や、生活をした多くのドイツ人は皆ナチスの身分で、南京大虐殺の時に25万人の中国人を救ったジョン・ラーべや「第二次世界大戦前」の蒋介石のドイツ軍事顧問団長、アクレサンダー・フォン・ファルケンハウゼンの如しである。なぜ中国でこれほど多くのナチス党員が働いて居たのか。

その理由は、1927〜1938年、中国とドイツの関係が「蜜月(みつげつ)」時期にあったからである。1928年、軍閥割拠(かっきょ)の下で中国は表面的な統一を完成した。日本が傲慢な態度で対したその後の「満州事変」に対して、中国政府は国家の自衛生存能力を増強する意識を致し、現代の軍事技術、軍事装備と国防工業体系の発展の過程を加速する必要があった。豊富な軍事経験、十分な経済基礎と科学実力があるドイツは、中国がこの一時代の責任の完成と、中国の必要とする原材料を援助する気があった。そこで、中国とドイツは経済協力の「蜜月」時期に進入した。南京政府は大量のドイツの顧問を招いて中国軍隊を訓練して、同時に大量のドイツ商人が中国で商業と貿易に従事した。

    国際的なスパイ事件に関与

1938年2月3日(農暦正月初四)、日本が煙台を占領した後、彼らは煙台の事業者に徴収を課し(かす)た。万豊洋行は、日本の同盟国であるドイツの国民によって設立されたが、それでも苦しんでいた。1941年10月6日に米国の公聴会で発表されたウィルキンソン報告書によると、「(煙台の日本の占領中)、煙台の日本の憲兵隊は、万豊洋行に非常に安い価格で商品(在庫品)を販売することを強制して、例えば9万袋のアメリカ小麦粉であった。煙台万豊洋行の総支配人のダン・シンはアメリカ人の友人にこう言った:気にしないでください。私達は一時的に彼らと協力しているだけです。私達は必ず復讐します。彼らは中国から追い出され、彼らが所属する場所に戻るでしょう。これは全て計画されています。ダン・シンは壁の世界地図を指差した。これが私達の最初のステップです。ダン・シンはドイツで弧(こ)を描き始めた。地図では、弧の頂点がカスピ海の真ん中を横切り、弧はパキスタンのカラチ市の近くで止まりした。煙台での7年半の日本の統治の間、日本の同盟国としてのドイツ国民の開業した煙台万豊洋行の日々は余り良くなかったようです。
1945年の第2次世界大戦の終結後、万豊洋行はドイツの在留産業と国民政府により押収された。1946年、ダン・シンの一家は煙台を離れ大量のドイツ人が寄り集まって天津へ来て、同記洋行の輸出貿易公司天津支社に加入した。同記洋行の輸出貿易公司は元禅臣洋行の楊寧史と閻錫山が提携して成立した会社で、本社は太原にあり、支社は北平、天津にあった。1949年1月に天津が解放された後、同記洋行の輸出入貿易公司は軍事統制委員会に引き継がれた。間もなく、ダン・シンは外国専業人員の身分で華北油脂公司に加入し、秘書一職を担当した。華北油脂公司は中国油脂公司の天津支店機構である。中央貿易部の統一指導を受けた。ドン・シンは中国華北の油脂公司で働いている間、中華人民共和国の初期にセンセーショナルな国際スパイ事件に関与していた。1951年2月、天津公安局は、天津の元米国陸軍戦略情報局が組織した大規模なスパイ事件を取り締まり、21人の中国人及び外国人のスパイを逮捕した。このスパイ組織では、ドン・シンがスパイ資金の送金者と受取人、中国華北の油脂公司に混入して、中国の企業秘密を盗んだとして告発された。ダン・シンの妻スザーナ(蘇西)も関与していた。1951年2月、ダン・シンと彼の妻は両方ともスパイ容疑で逮捕された。すぐに、スザーナと彼女の4人の子供達はドイツに強制送還された。1954年、ダン・シンは国外追放された。中国に戻った後、ダン・シンはドイツ銀行で働き、引退後インドネシアで働くために雇われた。

    漢学家ダン・サラ(董莎楽))

煙台で仕事中に、ダン・シンはロシア人のスザーナ(1914〜2004)を妻とし、二人は子女4人を生んだ。女児ダン・サラ(董莎乐)は、1943年煙台に出生し、幼少時代は生粋(きっすい)な煙台方言を話すことができたが、ドイツへ帰国後は、すぐに忘れてしまった。家庭では、ダン・サラは父親とドイツ語で会話し、母親とはロシア語で会話をした。小さ頃から自分の語学の天分を表していた。
中学卒業時、ダン・サラはエンジニアになる予定で、工業科を準備していた。ただし家庭の影響で、彼女は中国語系に進学し漢語を学習し、後に連邦ドイツのボーフムルール大学東アジア学部中国語科漢学博士となった。博士号を学ぶ間に、ダン・サラは中国の1930年代の文学を専門的に研究した。卒業後、ダン・サラは連邦ドイツのボーフムルール大学東アジア学部中国語科で仕事をし、主に錢鐘書の作品、中国空想科学小説、中国の新時代話劇の三つの課題を研究し、この外に、彼女は『論語』『詩経』『紅楼夢』と『水滸伝』などの課程の授業をした。
ダン・サラの最初の作品は国内の有名な作家葉永烈と共編(共編)した『中国科幻小説選集』である。この小説選集はダン・サラがドイツ語に翻訳し、1984年にドイツのゴールドマン出版社から出版した。これは最初のドイツ語版の科学幻想小説集で、また対外翻訳も最初の科学幻想小説選集であった。小説出版後、ドイツの読者の好評を受けて、彼らはこれに独特な東方の風格の科学幻想小説に大変興味を以ていたため、是為に連邦ドイツの各刊行物は7編の書評を連続して発表した。当時ダン・サラが書いた中国の科学幻想小説の論文は、1984年に連邦ドイツで開催された中国当代文学研究会で朗読された。これによって、中国文学家の新星がドイツから昇った。

    ダン・サラ(董莎楽)と銭鐘書

ダン・サラは銭鐘書作品の研究と交流があったので、ここにも良い話が残されている。
1986年、ダン・サラとドイツの孟玉華博士は銭鐘書の短篇小説集『人・獣・鬼』を『記念:銭鐘書短篇小説集』でドイツ語に名訳して、ドイツ国の科隆迪特里希出版社から出版した。同年夏に、ダン・サラは中国を訪問し、銭鐘書と遇うことを特に提案した。一面識で、銭鐘書はユーモラスに語った:「貴方が玉子を食べる時に、どうして鶏を見る必要があるのか」。ドン・サラは「貴方がこのように言うからには、私は今日は’鶏‘を見に来ました。」と言い終わると、両人は見つめって大笑いした。笑うのをやめ、銭鐘書はまじめな顔色で、多くの青年が「囲城」を読んできっと私がどのように見えるのか、見たがっているが、私も見ていない。貴方は私の作品を研究し、私の書を翻訳し、かえって「鶏」を見れば、私と「鶏」を雑談すべきだ」。後にこの物語は非常に広く流通して、少し形が崩れ、銭鐘書に会いに来た「イギリスの女性記者」の物語になった。
因縁によって、ダン・シン一家と中国との結縁は、中国に対して特殊な感情を抱かせた。1986年、ダン・サラは中国訪問期間に大量の各地の風景を撮影した。来た時彼女の父母は特に言い聞かせた:多くの写真を写して、彼らに今日の中国の風貌を見せ、彼らが若い頃に持っていた無数の談笑と傷心、今まで夢に彷徨って(さまよう)場所を見せよう。ダン・サラは自分の出生地に戻った時、興奮して、中国とドイツの間の友誼の架け橋になりたいと言った。