山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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旅順の第二極東農場(龍頭乳牛牧場)

旅順の第二極東農場(龍頭乳牛牧場)の、旧址は現在の大連市旅順口龍頭鎮旅順中路と徐土線交差点の南西角、龍頭駅の東北に位置する。ここは日本植民地時代に建てられた乳牛牧場で、中には事務棟、工場、宿舎などの建物が残っている。解放後、ここは「龍頭乳牛牧場」と改称され、当時旅順市の国営農場所属の牛乳隊となった。1957年1月1日、旅大市地方国営農場第一農場の七つの専業牛乳隊と旅順石橋牛乳隊と合併(がっぺい)し、旅大地方国営牛乳場が組織された(1981年に「大連牛乳場」と改称)。1995年2月24日、「大連牛乳場龍頭分場」と呼ばれた。

旅順第二極東農場

ソ連軍が旅大に進入すると、鉄道沿線の日本人の農場はソ連軍に没収され統一管理され、旅順境内の長岭子汽車駅と駅付近の農場は、ソ連軍の所有に帰した。ソ連が旅順に居た時、三里橋、石板橋、老虎尾の三ヶ所のの牛乳牧場があった。老虎尾牛乳牧場は主に海軍部隊に提供された。石板橋牧場は主にソ連の婦女が、毎朝2台の幌馬車(ほろばしゃ)に乗って牛乳牧場に来て仕事を手配した。当時、老虎尾牛乳牧場には乳牛も少なく、作業員もあまりいなかった。1953年11月から1955年11月まで、大連第三国営農場部は牛乳牧場の小さな建築で執務をしていた。牛乳牧場の安全と防疫要求を考慮して水師営の事務所へ移った。1955年に解放軍が旅順に進駐すると、老虎尾の牛乳牧場は雕窩棚に移転した。統一管理と牛乳の販路を保証するために、1960年に三里橋、石板橋、雕窩棚に分散していた乳牛は龍頭牧場で集中管理した。龍頭牛乳牧場で作業する獣医は皆大学生で、ほとんどが杭州農学院の獣医系を卒業していて、彼らの主要な仕事は防疫と出産であった。乳牛に結核病を発見すると、隔離して治療飼育が実行された。獣医(じゅうい)の大変な仕事は(乳牛の)出産で、もし難産に遭遇すれば、腕を進入して助産した。搾乳を担当する婦女は、毎週身体検査を1回受け、健康状況が要求に符合しなければ搾乳(さくにゅう)作業を離れ、乳製品の品質を確保した。乳牛が食べる馬草は、全て北面で梱包(こんぽう)され汽車で運ばれて、中庭に小山のように積み上げられた。1950年代には馬草の山で火事が一度あった。

龍頭乳牛隊現状

10年前にこの牛乳牧場を現地視察したが、全体的な建築質量には問題がなかったが、継続して乳牛の飼育に利用されば、付帯施設は揃っていた。しかし、前面の宿舎区に一戸の民家が荒れ地を開墾していて、後の農作業ではそこに洗濯物を干してる。当時、そこでは何頭かの牛が飼われていた。現在、基本的には荒廃状態であるw