徐福と煙台(一)
徐福は紀元前219年に秦の始皇帝の命を受け、多くの人員と物資を準備して東渡(煙台蓬莱出発)の路を進んだ。どうして最初の東渡(煙台蓬莱出発)の時にもう済州に到達していたのに当初の自分の定めた目標を放棄して船を反して帰国したのであろうか。
明らかなのは仙薬を探索する目的には到達せず、失敗したので終わりを告げ、もし帰国したならば必ず秦始皇帝の厳罰を受けるであろう。これより当時徐福は済州西帰浦から船を反して帰国を選択したと推測できるが、実は東へ向け東渡を継続する方法がないという重要な問題が発生していた。徐福は済州海峡を横切り航海した時思いもよらぬ潮流と海流が引き起こした事故が原因で、船隊の相当多くの船が主船隊を離脱し、本来航行継続の予定に必要な人員と、物資と装備を全て失っていた。このような情況のもと、当初航行を継続しようとした一切は全て不可能となり、やむを得ず故郷に帰るという困難な決定を唯一の選択とした。
此処に至って、多くの船舶は本人の願望のないまま徐福の主船を離脱し、この一部の徐福一行の人々は朝鮮半島の南海沿岸に留められ、また多くの遺蹟と伝説を残し、これもまた朝鮮半島南部に新文明の種を留めたと見ることができる。このほか実際にはありえないように思わせる日本沿海の徐福遺蹟の存在の原因も説明を得ることができる。
済州海峡を横断するという十分な困難な問題も韓国の歴史資料中に充分な証拠を得ることができる。即ち高麗末期の崔瑩将軍が元朝の残余勢力を掃討するため済州島に出兵した時、軍隊を輸送する作戦は大変な困難に遭遇したが、強烈な海流と潮流によりである済州海峡を通過するのに二か月半の時間を無駄に費やしたが、彼らはこの地域の海流を既に熟知している元でこのように長い時間を無駄にしているのである。
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