山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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伍連徳:中国現代医学の開拓者


伍連徳、字は星聯、祖籍は広東新寧、流行病の専門家で、微生物学と病理学家、中国の検疫と防疫事業の先駆者かある。20世紀初頭に、彼は中国の現代医学の建設と医学教育をし、公共衛生と伝染病学に先駆的な貢献を作り出した。前後して検疫所、病院、研究機構20カ所の開設を主催し、中華医学会の建立と『中華医学雑誌』の創刊を発起した。彼の積極的な提案で、中国は最初の自身の現代化病院〜北京中央病院を建設した。

最初にイギリスの医学博士を獲得した中国人

1879年、伍連徳は広東省出身のマラヤ・ペナンで生まれました。14歳の時、伍連徳はイギリス女王奨学金の取得に合格したが、若すぎて、イギリスに行き勉強する事の許可を得られなかった。翌年、伍連徳は再び奨学金を合格し、同年唯一の合格者となり、イギリスケンブリッジ大学のエマニュエル学院の門を邁進した。

当初、伍連徳の留学生生活は厳しい状況でした。僅かな奨学金は、家賃、食事、日常消耗品など各種の生活費用を差し引くと、幾ばくも残らなかった。当時のイギリスの医学生は、四年生から開始されたのは病院での実習への進入が要求された。学校の手配で、伍連徳はロンドンのセントメアリーズ病院へ実習に来て、彼は年内に20回の助産任務を完了するよう要求された。しかも彼がセントメアリーズ病院を去るまでに、実際に28回の(赤ん坊の)取り上げの任務を与えた。この一年の実習生活は、伍連徳はイギリスの下層階級へ接触する機会を与えた。上層社会と形成する強烈なコントラストが、彼を深く感動させた。

ケンブリッジでの留学の第四年目に、伍連徳は前後してリバプールの熱帯病学院、ドイツのハレ大学衛生学院とフランスのパスツール研究院で実習、研究に行った。

パスツール研究所は医学研究の「整地」で、伍連徳は多くの国際的巨匠から指導を受けた。その中で、一番の導師はイギリス人ホプキンス(F.

G.Hopkins)で、彼は人体に必要な「ビタミン」を発見して1929年のノーベル医学賞を獲得した。別の一名は、1908年のノーベル医学賞を得た、ロシアの生物医学者エチコフ(elie Metchnikoff) で、彼は腸管のプロバイオティクス(善玉菌)理論の最初の提案者であった。当時のイギリスの大学学制に照合(しょうごう)すると、本科、実習、修士号から博士号の学位獲得まで、順調に学習するには、7年の時間が必要であった。ケンブリッジで苦学した伍連徳は、僅か5年半で博士号の答弁(とうべん)を完成した。

卒業後、伍連徳はイギリスの医学博士号の最初の中国人の身分で、イギリス植民地のマレーシアへ戻った。この時、彼は野心的で、一心に「医官」を担当して、学んだものを発揮できることができると考えていた。しかしながらイギリス植民部は伍連徳に、彼が中国人であることから、多くは副官となることができるが、医官はイギリス人だけが担当すると教えた。この激しい打撃は伍連徳を途方に暮れさせた。野心に挫折した伍連徳はクアラルンプール医学研究所に来て、熱帯病の研究に従事した。

クアラルンプールに逗留したあの時間に、伍連徳は不自由に過ごした。研究計画を完成後も、伍連徳まだ不自由であった。研究計画を完成後、彼はペナン島に戻り、自身で私立診療所「懸壺済世」(看板をあげ医業を営む)開設した。

20歳を過ぎた伍連徳は年若く勢いがあった。医者として開業したほかは「身の程をわきまえず」に、ひたすらより多くの社会に有益な仕事を従った。彼は中国人で卓越した人物の集団中に活躍し、同様にイギリス女王の奨学金を獲得してイギリスに留学した林文慶と宋旺相と知り合い、現在では、(この)三人全ては「(英領マカッラ)海峡中国人三傑」と称される。

陳嘉庚の要請を受け、林文慶は嘗て廈門大学の学長を20年余りを務めた。法学研究に従事した宋旺相は、始めてマラヤ(マレー半島南部)地区で英国のナイト(=サー、準男爵)の肩書を得た第一人者とある。20世紀の初め、中国は大きくアヘンの被害を受け、東インドから運ばれたアヘンは、殆どがマラヤ地区での加工を経てから中国へ再送されたが、伍連徳は当地で「ペナン島禁止アヘン協会」を組織発起し、社会各界に名声のある人士と連絡し、一緒にアヘンの禁止に努力した。禁止アヘン運動はイギリスの恨みを買ってまた当地でアヘンの加工と販売をしている商売人の恨みを買い、伍連徳はこれによって初めて陥れ(おとしいれる)られた。

伍連徳の私立診療所では、食器棚の中に小瓶のモルヒネを医療用鎮痛剤として保管がされていた。当時定められていた法規では個人のモルヒネ所有は許可されていなかった。伍連徳は自分が登録医であり、モルヒネを治療のために保留するのは理の当然と申し開きをした。しかし捜査者は、伍連徳が規定通りモルヒネ登記をしなかったと言った。これは伍連徳の不意を突き、その結果、敗訴し、百元の罰金を判じられた。

マラヤに戻って数年、伍連徳は植民地のあらゆる所で受ける種族偏見と差別待遇を所々で体験した。一方で、伍連徳は心中にずっと、「中華コンプレックス」を仕舞い込ん(しまいこむ)で、ある日祖国へ復帰することを期待した。

祖国では、「ペスト戦士」が世界を震撼していた。1905年、清の朝廷は五大臣を憲政視察に派遣したが、マラヤは当時必ず通過地であった。故郷に戻った伍連徳は、視察団のメンバーで年若い外交官〜施肇基と知り合った。

五大臣は海外での視察を終え帰国して、施肇基は北洋軍医学堂を創立した袁世凱に建議し、伍連徳を当校の教員を務めることを要請した。軍医学堂は手厚い待遇を提供し、伍連徳は祖国に帰って才能を展開する機会に遭遇した。


1908年秋に、伍連徳は帰国の道に着き天津に到達し、陸軍軍医学堂の職を補佐し、これ以来祖国に服務する人生の課程を開始した。


1910年10月、中国東北部で深刻な流行性ペストが爆発し、前後して6万人が死亡した。流行病はシベリアから侵入し、ハイラル、チチハル、ハルビン、瀋陽一帯を経て、迅速に伝播して山東省から侵入し中原に迫った。その中で、当時毛皮(けがわ)商人が集中したハルビンの傅家甸(フージャデン)の流行病が最も深刻であった。天地が凍え(こごえる)ても、至る所で流行病となり、山となった棺桶が数里も続き、地面に埋葬する方法もなかった。


当時の東北は既に半植民地に属し、日本とロシアの勢力範囲となっていた。日露は、中国は流行を鎮圧できないと、考えていたので、満州の清政府に圧力をかけ、派兵をして東北に進駐することを提案した。東北は「龍興の地(清朝勃興地)」として、清朝政府は一定の主権を持っていた。朝廷は、もし流行病の処理の方法が無ければ、中国東北部の主権は完全に失われる可能性がることを知っていたので、そこで怠慢することなく、外務部にこのことを引き継ぐよう懇ろ(ねんごろ)に促した。施肇基は当時外務部の右大臣で、彼は東北の深刻な流行病を伍連徳に訴え、外務部大臣の那桐に報告し、陸軍軍医学堂の調査員の身分を決定し、伍連徳を東北に向かわせ流行病の情況の調査に派遣した。


1910年12月24日のクリスマスイブに、伍連徳は一人の学生を伴いハルビンに到着したが、身の回りの荷物には、顕微鏡一台と、細菌培養地(ばいようち)一点を持って行った。

ハルビンに着いて三日目に、伍連徳はあの感染者が亡くなりそうだと聞いて、すぐさま患者の家に駆け付けた。この患者は中国人に嫁いだ日本人女性で、回復の術はなく、終に治らず亡くなった。

伍連徳は秘密でこの女性患者の死体を解剖し、血管、心臓、肺葉(はいよう)などから見本を採り出し細菌培養をし、すぐさま、彼は顕微鏡の元にペスト菌を見出した。

更に分析の進行を経て、伍連徳は東北で勃発したのは「肺ペスト」であることを確認した。その伝播経路は、この前に考えられたものではなく、単純にネズミ、ノミなどの動物が病原(びょうげん)で人に伝染したものであった。人と人の飛沫(しぶき)の伝播は、やはり最も重大な伝染方式であった。

検査の後、伍連徳はすぐに流行病に対する9点の建議を提出した。(1)傅家甸の排除ペストの流行は、既に臨床と細菌学検証で十分に確認された。(2)当伝染病はほぼ完全に人から人へ伝染する。鼠感染の問題は除外できるので、直面の流行を消滅する所の努力は流動する人々と居住民に集中すべきである。(3)シベリア辺境満州里とハルビン間の接道交通を厳格に管制する。(4)その他の道路と凍った河流は必ず人を派遣して河沿いに巡視と検査すべきである。(5)傅家甸の徴用宿舎に病院を設立し、隔離キャンプとする。(6)南方から多くの医師と助手を募集する。(7)道台(地方長官)は防疫活動のために充分な経費を提供すべきである。(8)北京奉天間の鉄道沿線に細心の注意を払う。(9)日本の南満鉄道当局との協力を求め、ロシア当局に関連措置の実施において中国政府と協力する要請する。

人と人との接触がもたらす飛沫(しぶき)感染に対し、当時の人々には何ら防護知識と措置を持たなかったが、肺ペストの流行は当然に大変凄まじかった(すさまじる)。伍連徳は、一人一人がまずは自己防衛が必要であると、建議した。しかし当時の東北では、日本人だけがガーゼとアルカールを販売していた。

そこで、伍連徳はガーゼを使って一種縫製(ほうせい)が簡単な厚いマスクを設計し、感染防止人員と居住民に必ず着用する必要を要求したが、後に「伍市のマスク」と呼ばれた。

伍連徳の組織の下で、防止保護と、隔離、消毒など流行地区の工作は整然と行われた。ただし、一ヶ月の努力を経ても、流行病による死亡人数は大幅に減少しませんでした。

この時伍連徳は、延々と数里伸びた棺桶と地上のに残っている死体を、もしすぐ処理しなければ、同様に恐るべき感染源になると認識した。どうすべきか、伍連徳は火葬を提案した。これは当時の中国人の論理観念では、一般の人々に受け入れられない重大な突破であった。

このような大きな出来事の中では、伍連徳は決して一存で決めれなかったので、そこでこのことを施肇基に告知し、彼に朝廷へ決定を作り出すことを請求した。紆余曲折(うよきょくせつ)を経て、旧暦正月に、摂政王の載澧は最終的に伍連徳の方法で処理することに応答した。

後に、伍連徳は人力を組織し、三日の内に棺桶と死体全ての荼毘(だび)をしたことは、当時初めての事業となった。一連の対策を採取した後、1911年3月初めには、ハルビンのペスト死亡人数はゼロとなり、流行状況は効果的に抑制を得た。伍連徳の成功は、すぐさま全世界を震撼させた。流疫情況が消滅後間もなく、満州清政府は10万両の納税から支出をし、中国と連携のある国際各国に要請し、奉天に迎えて国際学術会議に招いて、東北ペストの総結を検討した。1911年4月3日、「奉天万国ペスト研究会」を開催したが、中国人が議長を務める中国初の国際学術会議となった。参加者の中には独自にペスト菌を発見した日本の医師で、細菌学者の北里柴三郎を含む33名のペストの権威と感染症専門家が出席した。

後世に恩沢のある貢献

今回のペストを攻撃する荘重指揮を成したので、伍連徳はここになって「ペスト戦士」の名で世界に名が通った。この後ロシアの視察団と連合して、野外でペストの病原を捜索し、草原に広く分布するマーモットが、東北部の肺ペスト流行の根源の存在であることを発見した。流行病の原因を見つけた後、伍連徳は一連の学術論文を発表した。1935年、「肺ペストの予防治療の実践と研究上の傑出した成功、ならびに伝播中の作用におけるマーモットの発見」で伍連徳は当年のノーベル生理学あるいは医学奨励にノミネートされた。疫情が消滅に向かうと、伍連徳は東北で防疫事業の展開を継続し、中国のために多くの貢献を成した。彼は北満防疫事務所を建立し、中国最初の防疫機構となり、また一連の辺境検疫制度を締結し、防疫体系を創建した。
19世紀中葉に起こる近百年間は中国の辺境検疫の主権はずっと外国人が把握しており、伍連徳は中国の港湾検疫の主権回収の為に奔走した。1930年7月に、国民政府は上海で港湾検疫管理所を成立し、伍連徳は所長を勤めた。当時中国はなお未だ自己の近代病院を建立していないと考え、伍連徳は四方にアピールしけ、寄付を募り、中国人による自身の建造した最初の近代化病院〜北京中央病院を創立した。伍連徳は前後して中国の病院、医療研究機構と防疫所など20カ所を創設した。
学術交流を促進するために、伍連徳は『東三省防疫事物総処報告全書』の編纂を主宰し、報告書は中英両文で刊行した。1912年に第一巻を発刊し、1931年に終刊するまで合計7巻を出版した。

1937年、日本軍が上海の住まいを爆破したので、伍連徳はペナン島に戻り医業を開業した。ここに至り、伍連徳は中国での30年の事業にピリオドを打った。中国の30年間で、伍連徳は積極的に学会活動を促進し、国際学術交流の展開を推進した。彼は積極的に中華医学会の創立を計画し、第二代会長を担当し並びに「中華医学雑誌」を創設した。彼は国際微生物学会連盟の発起人の一人で、同時に中国最初の全国微生物学会の発起人である。1910年から初めた、彼と王吉民医師との合作は、20年を経て『中国医史』を書き上げたが、今もって中国唯一の英語版医学史の著作である。
1947年、中華医学会は会議を開催し、伍連徳は帰国して参加の要請を受けた。故郷に再び戻り、伍連徳は当年設立した幾ヶ所かの機構を訪問した。これもまた彼が中国大陸の土地に足を踏み入れた最後の一回である。

晩年になって、有名な科学技術史の専門家李约瑟の建議の下で伍連徳は自伝の書写を開始した。8年近くを費やして、英文版の自伝『ペスト戦士〜現代中国人医師の自伝』が1959年にケンブリッジ大学出版社から出版された。
1958年1月、伍連徳は中華医学会の上海分会歴史博物館の旧友〜王吉民医師に、観光で一度帰国を希望していることを、手紙に記した。上海衛生局は王吉民の請求を受けて、衛生部に報告し、伍連徳が観光の帰国の要請を認め、特に衛生部の検証処理請求した。
当時の特別な歴史的原因により、伍連徳の観光帰国の願いは、最終的に実現しなかった。1960年1月21日、伍連徳は心臓病で亡くなったが、享年81歳であった。