山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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煙台最初の博物館


煙台最初の博物館はキリスト教アメリカ長老会の宣教師コルベットが創建した。当時煙台にいた広東豪商の李載之の資金援助で建物を買い、住所は煙台雲龍街と同楽街の中間、名を「博物院福音堂」と呼んだ。計平家27軒、楼房10軒であった。


当院は自然博物館の類に属し、収蔵品と陳列品は各方面から購入し、三部門がある。

第一部分は太平洋の海産物と各種サンゴ及び各種の鉱石である。

第二部分は各種の鳥獣標本と植物標本である。第三部分は物理化学機器と各種の図書などである。

展示品で、虎と、ライオンの実物標本と六角プリズムに人気があった。博物館の開創はセンセーショナルな作用を引き起こし、人々が四方八方から名を慕って(したう)来て、参観が争い、当地の人は言うまでもなく、遠くから商売に来たり、通過したり親類友人を訪問する色々な人々が、皆煙台へ来て、必ず博物館を早く見たがった。コルベットも人々に布教する機会をつかんだ。

博物館の入り口には回転軸カウンターが設置され、一人が入ると一軸を回転し、毎日館内に入り参観する人数を記録した。1936年の教会報告に記載された機器統計によると、毎年の博物館へ参観に来る人数は約7.5〜10万人であった。

新編『山東省志・文物』巻には、この博物館は山東省地域最初の博物館で、また中国でも初期の博物館の一つであると称す。

劉銘偉の研究によれば、コルベットは1879年(一説は1875年)に博物館の建設計画を開始し、人々に外国の奇異な産物、先進科学技術と文化を展示し、同時に布教した。彼は休暇の機会の機会にアメリカに帰るのを利用して、2000米ドルを募集し、その後広東に居る豪商李載之の理解と援助の元で、李載之が芝罘に位置する不動産を半額で購買して、李載之はまた500米ドルを更に寄付しました。1880年、博物館が建設され、「博物院福音堂」と名付けられた。

煙台博物院は教会組織を採用し、院長を主祭と称し、経費はアメリカ長老会が提供した。1902年、キリスト教煙台奇山会が成立し、すぐに主宰を返したことにより、「煙台博物館」と通称された。


コルベットが募集して膠州から来た身長が3尺に満たない小人の姜太宏をその養子として認めた(その束ねた弁髪のためにコルベットの娘は「豚弟」と呼んだ)。コルベットは姜太宏に観衆を引き付け招き、観衆を参観に引率(いんそつ)する責任を負わせた。姜太宏は煙台地区最初の「解説員」と言えるのは明白である。

中国の旧俗を考慮すると、煙台博物館は毎年特別な1日を女性に開放しており、男性の場内への進入を許可せず、講釈は時に纏足開放に及び、婦女もたくさん児童を連れて来て、1915年のある日の参観人数は5275人に達した。

煙台博物館は当地でまた社会福祉事業に従事し、貧民救助をした。付近の学校に通えない児童と婦女に文盲(もんもう)が多すぎるのを鑑み(かんがみ)て、半日学校、平民学校、婦女班を設立して児童に文字を教授し、学生は百人余りになった。

煙台博物館は毎月母親会を組織し、各学校の学生にその母親を集会に来るよう呼びかけ、家庭衛生の常識を説明宣伝した。当時は民間人の生活は貧困であり、無料で病気を見て、博物館もまた民間診療所を成立し、アメリカ北長老会が開業した病院の医者を毎週土曜日に(診療所へ)来るよう求め、少しの登録料以外は、無料とした。博物館は看護学習クラスを設立し、病院の看護士が毎週婦人学生に三度教えに来た。毎年冬至(とうじ)前後に、博物館はまた寄付銭と衣服を募集し、貧民に救済を施した。博物館の慈善事業は民衆の好感を勝ち得ただけでなく、また博物館の参観人数も増加し、布教に優良な条件を創造した。

博物館は毎日に午前9時から午後4時までを講義時間とし、半時間ごとに一度説教し、聴衆は説教を耳を傾け、その後、博物館を参観した。

当時参観人数が多かったため、博物館は参観への講義を数回に分けた。日曜日午前は特別に有名人に順に講義を求め、午後は益文学校の熱心な学生に児童宗教クラスの指導を担当させ、夜間には主教映画を放映し、チケット制で着席し、上演したのは聖書の物語であった。

当時映画は新鮮な事物で、一時は多くの市民が参観に訪れた。統計によると、映画の放映後1か月以内に、観衆は5,900人余りに達した。暑い時期には別に夏季児童聖書クラスがあり、児童の為の宗教教育サービスを専門とした。毎週末ごとに、博物館は各教会の敬虔(けいけん)な女性信徒をそれぞれで交代(こうたい)で博物院で講演するよう求めた。

この期間に、中国民族の事業家で、初期の教育家張謇正は登州軍に勤務しており、博物館に接触し、理解し、精通した。1905年、張謇正は南通で中国初期の博物館〜南通博物館を建設した。これはアメリカの宣教師が布教の目的で、中国民衆を教会に誘致するために建立した教会博物館であったからこそ、張謇正氏に対して影響し、中国初期の博物館の誕生と発展を導いた。


第二次世界大戦が全面勃発後は、煙台博物館はアメリカ教会のために設立され、開放の継続を得た。1941年「真珠湾攻撃」後、煙台博物館は日本軍が接収管理した。1945年に煙台が初めて開放されると、ここはいつも通り開かれ、旧態を維持して変わらなかった。1947年秋に国民党軍隊が煙台を占領した時、ここは万国救済会の事務所となった。1948年秋に、煙台が二度目に解放されると、煙台博物館は人民政府が接収管理し、人民文化センターとなった。後に当館は新住所に移転し、旧跡は人民住宅に改められた。

当時博物館が所蔵していた二体の巨大な鯨の前頭骨は現在では煙台市博物館の隅に置かれている。