山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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歴史上最も有名な七人の躺平族(とうへいぞく、ネソベリゾク)


紀元249年、司馬懿は「高平陵の変」を発動し、曹氏の魏政権は徹底的に司馬家に掌握された。

洛陽が大規模な権力紛争に陥った頃、洛陽の東北400里(160キロメートル)の山陽県の竹林の中で七人が、外では何も発生していないかのように、心ゆくまで酒を飲んでいた。

この七人で、酒に強いのは劉伶であった。

劉伶は殆ど四六時中飲酒し、一日中酒壜を持ち、自分が酒で死んだら、自分をどこにでも埋めると公言した。

劉伶は心ゆくまで飲んだ時、自分の衣服を全部脱いで、皆に言った。「われ劉伶は天地を家とするが、部屋を衣服とするが、あなた方はなぜ私のズボンの中に入るのだ。」

もし劉伶が大変おかしいと言うならば、あの阮籍の行為は更に理解し難い。

阮籍の家と壁を隔てて酒肆の女将が、ある時阮籍が飲み潰れて、「そこで横になり」、結局女将の隣で眠ってしまった。どんな通常のマナーも、彼は全く顧みなかった。

古代の女性は名声を重視したが、ある時、隣村のある大きな家の娘が病死したが、また嫁いでもおらず、阮籍は(その)家人も知らなかったが、葬儀に駆けつけて大泣きし、心肺が張リ割けん程、病死した娘の父母のように泣いて、その家の父兄を呆然とさせた。

また嵇康と向秀があり、学問に満ちていたが、竹林に浸って炉を焚き(たく)鉄を打ち、嵇康は鎚(づち)をカンコンと打ち、向秀はライゴを引き、雨のように汗をかき、鉄を打つカンコンという音と、ライゴのコーコーと言う音は、人間の最も美しい音楽同様であった。

これは一群の狂人であり、一群の放蕩で自由な人々で、世間体を気にしない人で、「向上を考えない」人々で、同時に、彼らは一群の憐れむべき人々で、絶望的な人でもある。

彼らがつまり「竹林の七賢人」で、具体的なメンバーは嵇康、阮籍、山濤、劉伶、阮咸、向秀、王戎である。

  01 一群の放蕩で自由な人々

竹林の七賢人は常に集会し、酒は自然と必需品であり、嵇康は強飲を好まず、彼はいつもあまり飲酒を好まない向秀と一緒に座った。山濤は八斗(144リットル、0.14立方メートル)を飲むことができたが、八斗を超過すると自然に飲まなくなった。
阮籍は良い酒を飲むのが好きで、彼は歩兵の陣地に三百斛(5.25立方メートル)の酒があると聞いて、只一杯を飲みために、歩兵キャンプに服役に行った。
阮咸は少し瘋癲(ふうてん)で、宴会に参加している時、こともあろうに豚と一緒に飲み比べするほどであった。
そして劉伶は言うまでもなく、彼は自分が酒の中で死ねることを望んでいた。
ただ王戎には例外があり、彼は劉伶と一緒に強飲したり、嵇康と一緒にちびちび飲み交わすこともできた。
彼らは飲酒だけでなく、また当時の「麻薬」〜五十散を服用し、五十散を服用すると、全身が熱くなり、行動をおかしくした。
彼らは狂っていると思う必要はなく、彼らは自我を解放しているのである。彼らは酒と「五十散」を多量摂取できないことを知らないわけではなく、ただ彼らは自身に麻酔をかける必要があったのである。
とは言え、7人はそれぞれ個性があり、出自(しゅつじ)が同じというわけでもない。

嵇康は生枠の皇族で、妻は曹操の曾孫である長楽亭公主である。阮籍の父、阮瑀は曹操の同門で、阮咸は阮籍の甥にあたる。王戎は瑯琊王氏の出身で、東晋時代の王導·王敦は共に王戎の一族兄弟である。山濤の父と司馬懿の妻張氏はいとこで、彼は司馬家とも親戚関係にあった。

竹林七賢の内、上記の五人は貴族であり、向秀と劉伶は卑しい(いやしい)出自であった。
また、嵇康、阮籍、阮咸、劉伶、向秀は「老荘学」を得意とし、山濤、王戎は儒教と混同するなど、思想的傾向も異なっていた。
道は違えど仲直りという言葉があるが、この7人は出自も趣味も思想傾向も違うのに、どうして「グループを作ろう」と集まったのだろう。
なぜなら、彼らの背後には彼らを結び付けた強力な要因があったからです。

それは、「受動性」と「世間への忌避(きひ)」です。

02 “向上心のない”人々もいるのだ

竹林の七賢の中で最も人気があるのは嵇康であるとは言を俟たない(まつ)。
その当時、三国時代に高名な名臣がおり、名を鍾会と言った。彼は司馬懿の一番弟子で、若くして名を知られ、才能豊かであった。鍾会は幼い頃に嵇康の文に接したことがあり、嵇康私崇拝し、密かに私淑(ししゅく)していた。
その後司馬家が権力を掌握し、鍾会も一躍時の人となり、数百人の供を連れて遠路遥々(はるばる)洛陽から山陽までやってきたのも、せめて嵇康と語らないのひとときを過ごしたいと思えばこそであった。
鍾会は、自分自身は朝廷の重臣であるし、自ら膝を折って学問の士に面会を求めに来たことは、美談として語り継がれることになるであろう、と考えていた。竹林に足を踏み入れ、我が目を疑うそのときまで。
『晋書』に伝わるところによれば、
初,康居貧,嘗與向秀共鍛于大樹之下,以自贍給。潁川鐘會,貴公子也,精練有才辯,故往造焉。康不為之礼,而鍛不輟,良久會去。
嵇康は魏の皇女を娶ってはいるものの、彼自身は貧困の中で育ち、日頃から向秀と共に家事や仕事をして生活の足しにしていた。後に皇族に連なることになったとはいえ、自分の来たし(きたす)方を忘れることは決してなかったのだ。

鍾会が竹林に嵇康を訪ねた折、鍾会が見たのは嵇康が袖をたくし上げて金床(かなとこ)を打つ様であったのだ。しかも、傍らの向秀は首筋に汗を光らせながらライゴを押している。鍾会と彼に続く数百の供人を前にしても一切気にとめるでもない。

鍾会はしばし立ちすくみ、金床をたたく音以外は何ら音のしないときが流れた。鍾会は己が長年私淑してきた聖人が果たせるかな山野の原人であったとは、と思い至り、踵(きびす)を返して立ち去ろうとした。

鍾会が帰る気配を察した嵇康は些か嘲り(あざける)を込めて「何か聞こえたからここへ来たのでは?何を見て帰ろうとする?」と禅門問道(もんどう)的な問いを発した。鍾会も聡い(さとい)人物であったため、嵇康が自分に当て擦った察し立ち去ろう。

そこで、鍾会は「聞くべきものを聞いて来た、見るべきものを見て帰る」とやり返した。

嵇康も、彼のたった10文字の発言が、徹底的に鍾会の恨みを買うととは考えておらず、鍾会はわずかな恨みを買うととは考えておらず、鍾会は僅かな恨みも必ず晴らす人であり、この発言は後に嵇康の葬送の鍾となった。
嵇康のほかにも、「竹林の七賢人」の阮籍の評判も良いが、嵇康と比べて、阮籍の方法はずっと賢明である。
高平陵の変の後、司馬家は曹氏政権を徹底的に掌握し、司馬師と司馬昭の二人の苦心の経営を経て、司馬家が曹氏の魏政権に取って代わることは、避けることができなかった。司馬昭は野心家で、人才を引き出すため、当時の名士阮籍に目を向けた。
阮籍はは魏晋の名士で、彼の父親は建安七子(文人)の一人阮瑀で、出身に限らず、才能までも、阮籍は傑出していた。
当時司馬昭の長男司馬炎(後の晋武帝)はまだ結婚しておらず、たまたま阮籍の家には婚約前の娘がいたので、そこで司馬昭は高価な贈り物を持たせ阮氏の家中に結婚を申し込んだ。
驚いたことに一か月余りすると、結婚を申し込みに派遣された人が気落ちして帰って来たので、司馬昭は「阮籍の野郎は返事をしないのか?」と聞いた。
戻ってきた人は「阮籍が答えないのではなく、酔っ払っているだけで、私は根本的に彼ときちんと話すことができなかったのです。」と答えた。
『晋書・阮籍』の記載は:

文武初欲為武帝求婚于籍,籍醉六十日,不得言而止。

阮籍は聡明な人で、彼は司馬家との係りを願わず、また直接この婚姻を拒絶することはできなかったので、そこで毎日飲んで酩酊して大酔いし、酔いが醒めれはまた飲み、60日間酔い続け、求婚に来た人は話す機会がなく、如何ともしがたく、報告に還るしかなかった。

当時司馬昭は「喉から手が出るほど賢人を求めた」ので、多くの人が知恵を絞って司馬家の追い風の車に乗りたいと考えたが、阮籍には全く興味がなかった。
古来より、「学んで余力があるならば仕官をする」のだが、嵇康や阮籍ら7人の博学の士は朝廷が人手を必要としている時に、なぜ官職に就くことよりむしろ竹林に隠れて酒を飲むことを望んだのか?と言う疑問が生じる。
これは一種の学説であると言わざるを得ず、それが魏晋玄学である。
東漢(後漢)末期に天下が三分されて以来、魏晋時代まで天下は分裂し、社会の矛盾は日増しに鋭く(するどい)なった。庶民が安心して暮らせない問題を“知識人たち”が信奉(しんぽう)していた儒家思想では解決できず、皆の儒家に対する信仰にぐらつきが生じる事となった。
彼らは儒家教育を受けたが、それがこんなにも脆い(もろい)ものだと言うことに気づいたのだ。彼らがひたすら守って来た政権は闇に包まれ正常な状態にないか、軟弱(なんじゃく)で無能であるか、互いに欺き(あざむく)あっているか、という汚職した現実に“知識人たち”は次々と信仰心を失っていった。
そこで、人々は「自然」や「無為」の老荘思想に目を向け始めに。殆どの人の胸中で世俗から逃れることが最良の帰着点となり、魏晋玄学が生まれたのである。
玄学の影響を受けた知識人達は、無為で荒唐な生き方は一種の新たなる社会の気風であると感じ、果ては感覚器官と肉体への刺激まで転化した。竹林の七賢は魏晋玄学を最も良く解釈したのだ。

03 憐れむべき人々

嵇康は、自ら竹林に潜み鉄を打ち、世間を問わず、荘周の蝶を夢見ることを学べば、、余生を静かに暮らせると考えた。
嵇康は官吏になりたくなかったとはいえ、曹氏の魏の時代には、彼は良くも悪くも皇帝の縁者であり、彼が謀叛でもしない限り、誰もが彼に幾らかメンツを保った。
だがしかし、高平陵の変の後は、曹氏の魏は司馬氏に屈服したことで、世の中は誰も嵇康のメンツを立てず、これで嵇康に次の危機が訪れた。
嵇康と関係の良かった山濤は、別の選択を迫られた。前述のとおり山濤の父親と司馬懿の妻はいとこ同士で、言い換えれば、司馬懿は山濤の叔母の夫である。
司馬懿が亡くなると、その長男の司馬師が実権を握り、司馬師が人材を籠絡し、メンツを以て山濤を出資を要請した。洛陽で、山濤は司馬師に会った。
『晋書』の記載
(山濤)與宣穆后有中表親,是以見景帝。帝曰:“呂望欲仕邪?”
ここでの「景帝」は、司馬師を指し、司馬師は自分を周の文王になぞらえ、山濤を太公望(姜子牙)に見立てて、彼に仕官したいかどうか訊ねた。
実際、司馬師は確かに傲慢で、古え周の文王は自ら太公望を招いたが、どこで周文王は太公望に(来るのか)質問しているのであろう。もししたのが嵇康であれば、おそらくその場で袖を払って行ったかもしれない。
しかし、山濤はそのようにことはなく、司馬師の面前では、彼は選びようがなく、彼は士官に答えた。
山濤の仕官は、竹林の七賢が既に「七賢」で亡くなり、亡くなったことを意味し、彼は「信義を背き(そむく)捨てた」人になった。実際山濤にも山濤の如何とし難い所があった。
山濤は司馬師のために努力したあと、司馬一家は目を嵇康に向けたが、山濤は、嵇康の執拗(しつよう)な性格から、うまくやれなければ災難に遭う事を知っていた。
そこで、彼は昔の親友の身分で、自ら嵇康を招いて礼部尚書郎を担当させようと計画したが、山濤は、朝廷の身分の庇護があれば、嵇康は必ず大丈夫であろうと考えた。
図らずも、山濤は恐れたものがやって来て、嵇康はてんで山濤のメンツを立てなかった。更にまずい事には、しばらく文章を書かなかった嵇康が、世に轟く(とどろく)名文〜『山巨源に与える絶交の書』を書いたが。
「巨源」は山濤の字名で、「山巨源」はつまり山濤である。嵇康は山濤と決別したいと考え、「公開書簡」を発表した。
しかしこの絶交の書には三ヶ所の奥深くとらえづらい所がある。
第一に、古来友好的でない人の呼称は、多くはその実名を呼ぶが、嵇康は山濤に絶交を求めているのに、彼の字名「巨源」を呼んで、嵇康は山濤に対して、実際には敵意がないと、見ることができる。
第二に、この「絶交の書」を通して、第一弾で山濤は自分を理解しておらず、自分の親友とできない以外に、全く山濤には言及していない。
第三に、嵇康は絶対的な部分を殷の湯王、周の文王などの即位の不正について論述している。知りたいのは、殷の湯王が殷王朝を建立し、周の武王は周王朝を建立したことは、もし彼らが全て即位の不正であれば、その司馬氏が曹氏の政権を掠め(かすめ)取ったのならば、その即位は不正なのである。
そのため、嵇康は名義上は山濤との絶交であるが、実際の目的は司馬家を風刺しているのである。しかもこの一切は、ちょうど恨みを抱いた鍾会に利用された。
後に、鍾会は「呂安呂巽の案件」を利用して強行に嵇康をその中へ引き入れ、その後司馬昭に讒言し、嵇康は本来朝廷を風刺たので、この人を留めてはいけないと説いた。
そこで、司馬昭は、「この禍の元」除去を命令した。
嵇康が刑に付されるその日、3,000人の太学生(官吏養成校生)の集団が情に訴えたのみ込んだが、司馬昭は嵇康の影響力のかように大きいのを目の当たりして、猶更嵇康を死刑に処した。嵇康の別れの前に、処刑場で「広陵散」外伝が演奏されたが、現代では「広陵散」は絶滅しそうである。
嵇康は臨終前に自分の子供の嵇绍に遺書を残したが、遺書の中で「山公尚お在り、汝孤ならずや」と言っている。
意味は子供が山濤へ身を寄せさせると言うことである。嵇康が黄泉(よみ)の国に行くまで、山濤は彼の親友であると、みなすべきである。彼は当時のいわゆる「絶交」は、もう一つの深い意味があった。山濤も良き友の託すところのままに、嵇绍を有用な人材に育て上げた。
嵇康が亡くなった後、竹林の七賢のもう一人のリーダー阮籍は大変に苦痛した。
王子安在《滕王閣序》中寫道:“阮籍猖狂,岂效窮途之哭!”
阮籍はしばしば馬車に乗り道を進んだが、目的地もなく、道を行き尽くすと、大泣きをした。
嵇康が亡くなった二年後、阮籍は鬱々としながら亡くなった。
嵇康と阮籍が皆亡くなると、竹林の七賢は完全に解散し、阮咸と王戎は司馬家に頭を下げ、朝廷に入り官吏となり、歩く屍と化した。しかし劉伶は始終官となることを願わず、最後は浴びる(あびる)ほど酩酊して大酔いして、家の中で亡くなった。


04 懐かしいの人々

嵇康が死んだ、阮籍が泣いて病死した、山濤、阮险、王戎は朝廷に入り官吏となり、劉伶は酒に酔うことが最終
注:躺平族(とうへいぞく)は競争社会から逃避した人々。劉伶は酒に酔うことが最終目的地となり、「竹林の七賢」中の残りの一人は、つまり向秀で、それは嵇康のためにライゴを引いていた親友である。
嵇康の死後、向秀は最も打撃を受け、六人の中で、彼と嵇康の関係は最も親密であった。
嵇康の死の前には、向秀は、自分は絶対に朝廷の泥水を渡ることができないと考えていたが、しかし嵇康が亡くなると、向秀は危険が自分の身の上に迫っていることを知った。
『晋書』には:
康既被誅,秀应本郡計入洛。
向秀は終に「悟って」、彼は竹林を出て官となったと言う。向秀は「裏切った」ように見えるが、実は災難を避けていた。紀元263年頃、向秀は特に嵇康の旧居前に行き、ここで、向秀はしばらく足を止めた。
彼は当時七人で竹林で飲酒し詩を賦した時の様子を思い起こして、中から来る悲しみを禁じ得なかった。向秀は最後に一般の『思旧赋』を書いて、涙をぬぐって帰って行った。
竹林は今なお有るが、七賢人はもういない。死んだ人は、既に死んでいるが、生きている人は、既に自分を裏切っている。汚職の世界は、絶望する七人を救えないことを決定づけている。