山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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乾隆帝に啓蒙しようとした人物/ミシェル・ブノワ

1745年、30歳のフランス人である蒋友仁(ミシェル・ブノワ)は、宣教師の一人として北京にやってきた。

二年後、1747年のある日、乾隆帝が西洋版画に目を通していたところ、にわかにその中の“水法”- -つまりヨーロッパ式の噴水に興味が湧いた。皇帝はイタリア人宮廷画家の郎世寧(ジュゼッペ・カスティリオーネ)を呼び出し、その原理の解説を求めた。

乾隆帝が見ていたのは、もしかしたらルイ14世が当時の宣教師を通じて康熙帝に贈った『フランスで最も美しい建築図集』かもしれないし、ルイ15世が宣教師を通じて乾隆帝に贈ったヴェルサイユ宮殿の銅板画と西洋建築の絵なのかもしれない。乾隆帝はこれらの絵画が実際の風景からのものであると知っており、絵よりも壮麗な噴水を欲しがったのだ。

郎世寧は宣教師でもあった。噴水の原理については、彼は皇帝に大雑把(おほざつぱ)に説明するのが関の山だった。彼は皇帝に、中国に来た宣教師の中に噴水の作り方を知っている者が居るかどうか、尋ねて回ることを約束した。しかし、皇帝が去るとそのすぐ後に宦官が近寄って来て、郎世寧に明日“噴水の建造に取りかかる”者を宮殿に連れてくるよう催促して来た。郎世寧は性急にミシェル・ブノワを推薦するほか仕方なかった。


実は、ミシェル・ブノワにも噴水を作った経験はない。カスティリオーネ(郎世寧)が彼を推薦したのは、北京の宣教師の中でミシェル・ブノワの科学素養が高く、カスティリオーネはブノワの青年時代に多くの数学と天文を集中して研究したからである。

乾隆皇帝に謁見した時、ブノワはこのような工事をしたことはないが、「書物の助けを借りて」職人達を指導して噴水を作ることができるだろうと答えた。それで、宣教師で、数学と天文の専門家ブノワは、1747年に水利機械士へ転身した。

学習には時間が必要で、試行錯誤(さくご)があった。清帝国では何ら参考になる資料が供されず、ブノワは人に頼んでヨーロッパから情報を捜索し、自身で噴水の構造と原理を理解し、その後これを宮廷の工房の職人に伝授したが、- -指導の便利のために、ブノワの当時の職務を、「造弁処通行」と呼んだ。このような運びで、乾隆皇帝が欧風の噴水に大変興味を寄せてから10年目の、1757年になると、ブノワは終に「新築水利装置様式一件」の設計を正式に完成した。皇帝は設計を見て、「同様の造作を許可する」と命じた。


更に2年後の1759年、噴水が終に完成しました。

噴水は12の干支の石獣で12の時間を表しています。造弁処は、各の石獣に銅の頭を鋳造し、12の銅首の最初のラウンドは、それぞれ一つの時間を流しました。正午に、全ての石獣首は壮観なシーンでプールに水を噴霧するために集合的に開始した。西洋版画のより一般的な人体彫刻の代わりに干支の石獣首を使用して、それは清帝国の「礼教」が人間の美しさを受け入れることができないのであった。

ミシェル・ブノワは清帝国に持ち物を持ち出したいのは噴水ではない。


1760年、乾隆五十寿の前夜、ブノワは球状投影法(とうえいほう)を用いて、皇帝に贈られた「坤輿全図」というタイトルの新世界地図を精巧に描きました。その後、彼は1767年まで地図を改訂し、増絵(塗装)しました。ブノワは、この地図を使って、ヨーロッパ地理学を発見後の全く新しい「世界」を中国人、特に乾隆皇帝に紹介したいと考えている。

世界地図を描き、中華帝国に外部世界の多様性を意識させ、文明の多様性を認識させることは、中国へ来た宣教師全てが地からを注いだしごとであった。利玛窦(マテオ・リッチ)は明朝の万暦時代にこの事を成して、南懐仁(フェルビースト)は康熙時代に、やはり清帝国のために世界地図も描いた。

前世代の宣教師の作品と比較して、ブノワの描いた世界地図はより正確で、より多くの情報が含まれています。まず、ブノワは、16〜18世紀の東西の地理的調査や発見の主な結果を含む多くの資料を参照しました。これは「当時の最新の世界地図」と言えた。ブノワは新たに発見された多くの国を追加し、多くの元は存在すると思っていたが実際には存在しなかった国を削除しました。第二に、ブノワの「坤輿全図」には、主に天文図や天文内容を中心に、多くの付図や説明文があった。ブノワはこれを使ってコペルニクスの地動説を中国人に紹介しようとした。

ブノワによって示された新しい世界は確かに乾隆皇帝の興味を一時的に引き起こしました。ブノワの友人への手紙によると、乾隆皇帝は地図を見た後、ブノワに「ヨーロッパには幾つの国があり、各国の君主は何人の軍隊を武装させることができるか」と尋ねた。ブノワは、英国、フランス、ドイツ(プロイセン)、オランダ、そのほかの国々の状況を乾隆皇帝に紹介しました。

乾隆帝は地図上のニュースペイン、ニューホランド、ニューフランスの名前に戸惑い(とまどう)、ブノワにこれらの名前の意味を尋ねました。そこで、ブノワは乾隆帝にヨーロッパ諸国の海外植民地活動と植民地と宗主国との関係を紹介しました。

ブノワはまた、乾隆帝を啓蒙し、文法、哲学、数学、天文学、地理学、そのほか多くの分野を含むヨーロッパの現代知識システムを彼に知らせようとしました。清帝国が非常に重視した絵画の芸術と職人技は、この壮大な知識システムの些かな部分に過ぎませんでしたら。彼は乾隆帝にヨーロッパから持ち込まれた最先端の望遠鏡を体験させ、また気圧や相対的な静けさなどの科学理論を紹介しました。


残念ながら、この情報は乾隆帝の頭に浮かびましたが、彼の知識構造には組み込まれていませんでした。イギリス人マッカートニーが1793年に北京への使節団を率いた時、乾隆帝はイギリスがどこにあったかを長いあいだ忘れていました。彼は使節団に尋ねた:「英国はロシアからどれくらい離れていますか?彼らの関係は友好的ですか?イタリアとポルトガルはイギリスからそう遠くないですか?イギリスへの朝貢しますか?」皇帝は悟りを開くことを拒否しました。彼の知識構造は非常に一貫性があり、彼が構築した情報繭は非常に快適であると感じました。誰も反対しない繭の中で、彼だけが異議を唱えました。彼は素晴らしく、戦略家であり、世界の全ての情報を習得して、真理を掌握しました。

乾隆帝の死後、ブノワが注意深く描いた「坤輿全図」は、禁中の奥深くに静かに眠っており、再び見るものはいない。1840年、第一阿片戦争の時、イギリス軍は国境の関所を叩き、打たれた道光帝は、依然として人々にイギリスがどこの地方にあるかを捕虜に尋ねるように命じました。

皇帝は自らを世界と結び付けようとせず、近代的な知識体系に興味を示さなかったのだから、下の知識人が風向きを読めば当然そうなる。ブノワはヨーロッパに手紙を書き、地動説について大清の欽天監の殆どのものが、「彼らは結果は利用するが、原理は受け入れない。」と異を唱えていることを友人に訴えた。欽天監が地動説を受け入れるかどうかは、乾隆帝の態度いかんである。乾隆帝が態度を示さなければ、彼らは日々の仕事の中で地動説の原理から派生した諸成果を用いながら、地動説を認めることを拒否するしかなかった。欽天監のほか、乾嘉学派の能大昕や弟子李銳なども地動説に反対し、李銳はこの理論を「上下が位を変え、道静が逆さになる」と言ったが、正に「経判道を離れて、訓と為すべからず」であった。

ブノワが宣教師になることを志し、乾隆帝のために膨大なエネルギーと長い時間をかけて噴水を作ることを厭わなかった(いとう)のは、彼と郎世寧(ジュゼッペ・カスティリオーネ)が、清帝国では「些かなことでも迫害を引き起こす。⋯⋯しかし、皇帝が私達をどうすることもできなかった。」大噴水を作って皇帝を喜ばせたのは、皇帝の保護のためであった。彼は大噴水を作るよりも、最先端の地理的・科学的知識を清国に輸入して、外の世界の本当の姿を理解し、世界の文明体系の中での自らの位置をより正確に把握することを望んでいた。また、清朝のことをもっと世の中に知ってもらいたいと思い、『書経』や『孟子』をラテン語に訳そうとした。

実際、説法に比べれば、現代知識の輸入はまだ次善の策である。そのため、ブノワは「仕事をしていない」と言う自責(じせき)の念を常に抱いていた。「自らの教えや説法とは全く別のことをさせられるのは、いつも苦痛なある」と、友人のバビヨン・ダウでロシュ氏に手紙を書いている。

1774年、ブノワには59歳で死去し、北京西郊彰化村正福寺に埋葬された。乾隆帝はこの知らせを聞いて銀百両を賞した。この時の清帝国は、ブノワが三十年前に北京に来た時と殆ど変わっていなかった。皇帝は天下の夢に耽け(ふける)ており、底辺の人々は日夜貧しさに苦しみ、生きること以外を考える気力もなかった。その豪華な円明園にだけ、皇帝の娯楽のためのヨーロッパ式の精巧な「水法」が幾つもあった。

ブノワが亡くなると、これらの「水法」も故障してすぐに動かなくなった。円明園には機械の仕組みを理解できるものがいなかったため、噴水の修理もできず、長い間放置されることになった。皇帝が庭園に来た時だけ、急遽(きゅうきょ)宦官を派遣して人工的に水を汲んで池を満たし、更に水門を開けて青銅の獣に水を吐かせたのである。清帝国に入ろうとしたブノワの近代文明の光は、噴水の作動原理と共に、塵に埋もれてしまった。

それから200年余り、同じ土地の人々は歴史の深淵から12の形象的な青銅の獣の頭を熱心に引き上げた。ブノワの話はと言うと、時宜に適しないために、すっかり忘れられてしまった。