中国の上下五千年の歴史で、嘗て無数の統治者が出現したが、しかし本当に皇帝と呼べれる人は、秦の始皇帝以後から数え始めなければいけない。
秦の始皇帝
歴史家たちの統計によると、最後の皇帝溥儀が退位するまでに、中国には494名の皇帝が有り、彼らの中には、政務に務め国を大切にした明君もあれば、酒色におぼれ非道な暗君もあった。
ただしその中でも最も自堕落(じだらく)な皇帝は、自分の愛妃を丸裸で横たわらせ、しばしば大臣たちに大金を払わせチケットを買って観賞させたことがある。
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このような事情がもし現在でもあれば、人に言論や文章で批判され、彼本人さえも相応の法的責任も請け負わなければいけない。ただし封建社会では、規範は全て皇帝一人が勝手に決め、当然反論する人もいなかった。
この事情のため、帰って馬鹿げた名言〜玉体横陳(貴人の横たえ)という名言が出現したが、この皇帝がつまり北斉の第五代皇帝で、北斉の後主高緯であった。
中国の波瀾怒濤の歴史の中で、北斉の後主高緯は大した波乱を起こしていないが、しかしもし暗君の選評展開するとすれば、高緯は合格である。
内から長城破壊
西暦565年3月、異象が天空に現れた。そんな様子を見た大史官は、北斉の第4代皇帝高湛に急遽報告した。
この高湛は実際には堕落した無能な王でしたが、この件でも高湛は確信しており、これは北斉の新しい皇帝に対する神の要求であるとさえ考えていました。
この目的のために、高湛はすぐに自分の皇太子に皇位を譲るように命じた。多くの人々の想像では、この時の高湛は非常に年をとっているかもしれませんし、人生初ののほとんどを皇帝であることにうんざりしているかもしれません。しかし、歴史的な記録によると、実際には僅か28歳であり、歴史上の皇太子のほとんどはこの年齢であるか、皇太子だけです。
高湛は2列目に退却した後、全ての政府業務を息子の高緯に引き渡した。高湛は、内から万里の長城の自己破壊の問題で、高緯が「青は青よりも優れている」と言えるとは思っていませんでした。裏切りの者が任命、放蕩と無知、功臣謀殺、自然と理性の害などは、教師なしの独学と呼ぶことが出来ます。
功臣の謀殺を以て例とすると、蘭陵王の物語は誰もが聞いたことがあると思う。北斉の肘股となる大切な補佐役として、北斉後期の北周との数回の大戦の中で、北周を連続して撃退しただけでなく、さらに邙山の戦いでは金墉城の包囲を解いた。
五百騎で十五万の大軍を破ると言う、どの王朝でも称賛する奇跡的な戦いとして知られている。
かくのごとき忠誠を尽くしかつ能力が人並み外れた蘭陵王は、小人の讒言と高緯の嫉妬のために、最後は僅か33歳の蘭陵王は高緯の根も葉もない罪名により死を賜った。
もし蘭陵王高長恭がまだ生きていたら、北周がどうして北斉を攻め落とす機会があったのか、そして彼の人生の履歴がどれほど豊かであったのかは、想像を絶っしている。
玉体横陳
蘭陵王高長恭を殺害すると、高緯はまた多くの自分の行為に対して脅威を生み出す大臣を連続して誅殺した。それしこれで北周の侵攻に抵抗する方法をなくした。
ただ当時の人は、北周の鉄騎馬が北斉の都城に攻め入って来た時に、高緯が意外にも十分したい放題な事情を組織したことはどうしても想像できなかった。
もともと当時の高緯は辺境戦争には全く無関心で、如何に享楽を貪る(むだぼる)かを一身に考えていた。都合よく宮中によく歌い踊りの上手くまた容貌の優れた馮小憐がいて、二人は一日中共に過ごし、不自由なく生活していた。
ただ時間が経つと、高緯は何か間違っていると感じたが、心中では嫌になったとは言え出せなかった。
ある夜になるまで、愚妹な高緯は、自分の妃がこのように美しいのに、大臣たちは根本的に分かっておらず、なるほど自分の会得(えとく)が受け難いのも、本来快楽を分かち合っていないことが原因だと思い当った。
このことを考え付いた高緯は上機嫌で、すぐさま宮城中の大人たちに馮小憐の美貌を観賞しに来るように命じた。
ただごくごく普通の外観がどんなに見た目が良くても、高緯は馮小憐に身に付けた衣服を全部脱ぎ、丸裸で朝堂(皇帝の政務所)で横たわり、大臣たちに見に来るべしとしたい放題の要求をした。
当然、馮小憐の体を見ようとすれば、それはただでは済まず、各大臣は皆一定数の金額を治めて行われた。
邪悪な臣下はお別格(おべっか)を使って楽しんだが、まだ認識ある臣下は皇帝の命に背い(そむく)ても高緯に同調して悪事を働くことを拒んだ。
ただしこの時点で、心中では全く甘んじることなくとも、高緯は強制的に皇宮に引き込み、金銭的に至っては、直接の堂々と強奪(ごうだつ)すれば良く、いずれ自分が皇帝であるからには、誰がまた何か言うことができるのであろう。
ところが高緯と所属の大臣たちが一度に集まった時、都城外で耳をつんざくばかりの喧騒(けんそう)が聞こえてきた。
北周の鉄騎兵が城門を突破し皇宮へ駆け込む寸前に、ここで何が起こっていたのか想像もつかなかった。北斉のこの王朝は、この一度の狼藉(ろうぜき)の声の中に、永遠に消失してしまった。
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