32歳の高湛(北斉武成帝)は皇帝になったばかりで、兄嫁の愛情を求めて、もし従わなければ、お前の子を殺すと、後宮に突入した
西暦561年、32歳の高湛は皇帝になったばかりで、矢も楯も堪らず後宮に行き、兄嫁の愛情を求めた。兄嫁は満面驚愕し、激しくもがいたが、かえって高湛の口から出た一言が、怖くて動けず、高湛の好きなままにさせた。
皇帝の兄嫁の李祖娥は、高湛の兄高洋の皇后であり、北斉の開国皇帝の妃(きさき)でもある。
高洋が亡くなると、李祖娥の子高殷が嫡男で長男の身分で、皇位を継承した。しかし、彼は皇帝として1年足らずで、叔父の高演に殺害された。
開国皇帝の妃として、新たな上位に立った高演は彼女に対して大変尊重し、基本的に彼女の生活に迷惑をかけることはなかった。
そして、高演は自分が甥っ子を殺害したことに対しては、ずっと気にかけていて、心を解放できず、大変自責したので、後期には彼はいつも恍惚状態となり、落馬して重傷した。
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臨終の際、あるいは贖罪(しょくざい)のためか、彼は皇位を子供に譲らず、弟の高湛に譲った。
彼はまた「君は私のようなやり方をするな」と繰り返し言いつけた。
高演の言わんとする所は、あるいは弟高湛に、また甥を殺して名ならないと、一線を引いて勧告したのかもしれない。
残念ながら、高湛は陰険であくどい人物で、即位して皇帝を称すると、彼はやはり兄高演の子供を虐殺した。
真実の歴史では、高湛は政治に精を出す一面、残逆無道の一面があり、しかも、彼は痴情とは全く無関係であった。
高湛は北西第4代の皇帝として、義姉に必要な尊敬を払うべきであったが、高湛はそうはしなかった。
彼はこの絶世の美女の兄嫁にずっと垂涎(すいぜん)しており、今がチャンスとばかりに、初めに彼女の寝室に闖入(ちんにゅう)して、良い香りの女性と睦まじく(むつまじい)したいと思った。
李祖娥は怯えきった。
彼女はこの種の事件を経験したことがなかった。
彼女は趙郡李家、北方の代々の名家の生まれで、小さい頃から父親の可愛がった掌中の玉であった。十数歳の頃は傾国傾城(驚くほど美しい)の容貌で、高洋に嫁いでからは、寵愛を独占した。
高洋は性格が残忍で、しかも妃嬪(第二・第三夫人)を殴打するのが好きであったが、自分の妻李祖娥に対しては大変尊重した。
高湛が彼女の寝室に闖入するまで、彼女の経歴に何の波乱もなかったと言える。
慌てふためいた李祖娥は、猛烈に反抗したが、彼女の教育にはこの種の事を受け入れる方法がなく、高湛の一言で、彼女は完全に呆気に取られ、まったく抵抗しなかった。
高湛は「お前がもし従わなければ、私はお前の子高紹徳を殺す」と言った。
李祖娥の二人しかいない子の、嫡男の高殷は、皇位が元で叔父に殺され、今また、彼女は幼子を危険にさらすわけにはいかなかった。
最後に、彼女は涙を浮かべて全ての屈辱に耐えたのである。
歴史上の本当の高湛は、男女の事情に於いて、少しも収まりがなかった。
最初に上手くいくと、高湛はいつも李祖娥のもとに通ったが、間もなく李祖娥は妊娠した。
この種の事情は上手くごまかして、将来的に正当な理由を見つけ、李祖娥に考えを切り替えさせ、自分の妃嬪(ひひん)にするのが妥当である。
しかし高湛はそうしなかった。
彼は世の中誰もが李祖娥義姉であることを知っていて、しかも李祖娥の子高紹徳と芝居を見に来ていたことが許せなかった。
李祖娥はずっとこのことが受け入れられず、また自分の妊娠にも耐えられなかった。
お腹がますます大きくなるのを見ると、門を閉ざして閉じこもり、決してほかのものをその宮殿に近寄ることさえ許さないほどだった。
息子に対しても、李祖娥はごまかし続けて、自分のこんな姿を見られたくないと思っていた。
ことここに至り、高湛は自らその障子を破ろうと試みた。
そして高紹徳には母のことが理解できず、宮殿に入って母に会おうとしたが、衛兵に邪魔され、怒って門の外で大声で罵った(ののしる)。「息子が知らないとでも思っていらっしゃるんですか。母上はお腹が大きくなったので、会いたくないんですね」。
李祖娥はそれを聞いて、ますます悩んだが、でも息子に面会することはなかった。
後に李祖娥は娘を出産した後。史書に曰く、その娘は「生而不挙」、すなわちおそらく生後間もなく李祖娥に首を絞められたのだろう。
高湛はその知らせに接すると、激怒のあまり、李祖娥の目前に高紹徳を呼びつけて、怒鳴りつけた。「そちはわしの娘を殺した。わたしそちの息子を亡き者にしてくれよう!」喚起ながら、高紹徳を生きながら殴り殺した。
李祖娥は泣きながら、情を請うたが、遂に息子の生命を救うことはできなかった。
激怒した高湛は、李祖娥が悲嘆にくれ死を望むような様子に、怒りが頂点に達し、自ら命じて李祖娥の服を剥ぎ取り(はぎとる)、馬の鞭(むち)でもって、ひどく打たせた。李祖娥は血と肉が分からないほど打たれて、地面に倒れた。
それから、怒りの治まらない高湛は、李祖娥を絹の袋に押し込み、どぶ川に遺棄させた。
運の強さからだろう。あれほどひどく打たれ、絹の袋に押し込まれ捨てられても、李祖娥はまだ生き延びていた。
目覚めた時絹袋は鮮血(せんけつ)に深紅に染まっていた。
幸い鮮血淋漓は平素優しい人柄だったため、宮女達は李祖娥が目覚めたのを見て、密かに薬を飲ませ、それから牛車で宮廷から送り出した。
後に李祖娥は妙勝寺で出家し尼となった。
隋朝成立を待って、李祖娥は故郷の趙郡に帰ることが許され、その後史書には李祖娥に関する記述はない。
「成熟」この言葉をふと思う。意味すると頃は泰然自若(たいぜんじじゃく)としてにおける波乱を受け止めることである。
願わくば、故郷に帰った李祖娥が真の意味で平穏な日々を過ごしていたことを願う。
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