山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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四海之内皆兄弟

近代に作られた多くの威海衛の海図を見ると、静子山という丘陵地(現在の威海市環翆区孫家疃鎮北)に「記念碑」の記号があります。これには「白色」と注記されているため、白い石碑だったことが分かります。この記念碑の記号が海図に現れたのは、威海衛がイギリスの租借地となった19世紀末以降のことです。しかし、約30年前の現代の海図からはこの記号は消えてしまいました。 日本の海図 威海衛租借管轄時期のイギリス海図

同碑は,ある海難事件と関係があります。32年間、イギリスの租借地だった威海衛で、行政長官のロックハートが事件について記録しています。

1908年11月、清の光緒帝と慈禧太后(西太后)が相次いで崩御しましたが、威海衛の住民の間では大きな動揺はありませんでした。

ところが、その同じ月に住民を震撼させる海難事件が租借地内で起こりました。

日本汽船の銀生丸が、乗客と生糸を満載して、奉天省安東(現在の遼寧省丹東)から山東省煙台(芝罘)へ向かう途中、強風に遭い、威海衛の港の西にある岩礁に衝突したのです。乗客乗員約500人が不幸にも遭難しました。

銀生丸は、排水量464トンの木製蒸気商船で、大阪市の貿易会社に所属しており、当時、船には約450人から520人の中国人の乗客と、船長の吉澤万吉ら日本人19人と林峻東ら中国人8人の乗員がいました。乗客の多くは、東北地方で出稼ぎをしていた山東省東部の農民でした。妻や家族と年末の団らんの一時を過ごすために、一年苦労して貯めた(ためた)給料を携えて故郷へ帰る途中でした。日本人と一部の中国人の乗員の名簿は残されていますが、乗客の商人や農民の名前と出身地は現在も明らかになっていません。

銀生丸が出航して間もなく、北西の風が激しくなり、風に雪が混じり、海は大荒れ状態になりました。26日未明、同行の第十三永田丸は威海衛に避難しましたが、銀生丸は煙台(芝罘)に向かって航行し続けました。

しかし、激しい風雪と高い波で視界が悪かったため、早朝の頃、銀生丸は威海衛の靖子頭(岬)の東側で暗礁に衝突してしまい、船体は瞬く間に砕け散りました。 靖子山付近海域

事故が起きたのは、冬の夜明け前で、天候が悪く、また、船が座礁した場所は人里から離れていたため、救助は行われず、乗員乗客500人あまりが全員凍死、または溺死し、誰一人も助かりませんでした。

この暴風で遭難した商船は銀生丸一隻だけではありませんでした。第八永田丸、大阪の永田三次郎が所有する排水量360トンの船でした。

25日夕方6時に大連を出発し、煙台へ向かっていました。

船には、中国人83人(商人28人、農民55人)、日本人4人の乗客と、船長の福田梅次郎ら日本人19人、中国人8人の乗員が乗船し、大豆1600袋を積んでいました。

ところが、翌26日午前4時頃、暴風が吹き荒れ、高波で船体が浸水し、煙台牟平区酒館村の北で事故を起こしました。乗客乗員113人が海で命を落とし、助かったのは僅かに1人だけでした。この暴風で起きた二つの海難は僅か10キロ海里の距離だった。二艘の日本船は跡形もなくなりました。煙台芝罘の人たちは長く待っても船は来なかった。煙台の日本領事館機関が努力した結果、29日、旅順日本海軍により高雄丸は事件海域を迎えることになった。

その同時に、海難に遭った第八永田丸の船主(オーナー)は第十三永田丸と第十永田丸に関連海域への捜索指示を出した。すると、福田船長を含めた3名の日本籍の遺体、そして銀生丸の140名あまりの遭難者遺体が見つかって、且つ、遺体の多くはバラバラになっていた。最後に銀生丸、第八永田丸、この二艘の船がそれぞれ中国威海静子島、牟平区酒館村北部の海域で沈んだことが分かった。そして、中国牟平地方政府、威海衛英国租界政府へ遭難者の遺体の措置、船上貨物の処理などについて連絡を取った。

靖子村のある高齢の住民が代々伝え聞いた話によると、銀生丸が事故を起こした後、一人の屈強な若者が崖をよじ登って上りましたが、天候が寒く、服が濡れていたため、雪の積もった靖子山を登り切れず、頂上付近の裏側の斜面で凍え死んでいたと言います。

二日後、村の住民が、若者の遺体を発見して地元の役所に知らせました。役所では、遭難船が海賊のために沈められ、住民が金品を奪うために漂着した若者を殺害したと疑い、厳しく追及しようとしました。

しかし、役人が村に来てみると、正に村人が遭難者の遺体と船の積荷を収容し、遺体に白い布を被せて岸辺に並べ、家族が引き取りに来るのを待っているところでした。

靖子村の元の名は「静子村」と言いましたが、住民の多くが漁民だったことから、「平穏無事」の意味がある「靖」に改められました。

靖子村の住民が遭難船を救助したのは、これが初めてではありませんでした。早くも光緒六年(1880年)には、漁民が、蓬莱県の商船を海で救助したことがあり、助けられた商人の趙学増から「里有仁風(里に仁風有り)」の扁額が送られています。この為、靖子村は「仁愛と正義の村」として有名になりました。

この海難事件で、遭難者の遺体を収容した靖子村住民の義挙に対する感謝を記念して、事故現場に近い靖子山(静子山)の頂上に、記念碑が建てられました。時代が古く、また、碑体が失われたため、碑文は現存せず、具体的に誰がその記念碑を建てたのかは、今のところが、どの資料にも記載されていません。

靖子村の或る老人の記憶によると、記念碑の高さは3㍍以上あり、台座は山頂の石を混ぜたセメントで築かれ、三層の階段式だったと言います。

また、碑体は上下二つの部分に分けられ、周囲は尖錐形で、白い漢白玉(白い石質の大理石と言い伝えられています)でした。

碑文には「四海之内皆兄弟」と大きな字で刻まれており、他に小さな字で石碑を建てた経緯が詳しく記されていました。昔、靖子山の山頂には、現在のように木が多くなかったため、記念碑が人目に付くようになりました。煙台の方角から来た船は,白く輝く記念碑を海上から望むことができ、「航路標識」として使われました。碑の形状の分析によると、四面尖錐形の碑体は、当時の日本の記念碑の特徴に近いことから、日本人によって建てられた可能性があります。ただ、これはあくまで推測でしかありません。

現在の靖子山の頂上では、残存する記念碑のセメントの台座を見ることができます。その傍には、石碑の下半分の部分と思われる石材が残されています。青味を帯びた白い四角形の花崗岩で、表面には、石碑の上部と結合していたセメントの跡が残っています。

海難中国人名簿

銀生丸(3人)

山東省登州府福山県 林峻東

山東省登州府蓬莱県    劉永昌

山東省登州府福山県    張老四

第八永田丸(8人)

山東省登州府寧海州神童村    曲昆坪(27歳)

山東省登州府寧海州冶頭村    楊仁禄

山東省登州府寧海州車門村     孫克忠

山東省登州府寧海州王遠子村 高雲明

山東省登州府寧海州朱柳村     孫奎仁

山東省登州府栄成県石山村     李忠玉

山東省登州府栄成県石山村      楊五

奉天省奎州厅枚城                       陳国恩

記念碑遺跡

史料整理編者:海洋人文歴史 隋東昇

日本文整理発布:中国国旅(威海)国際旅行社日本部 

歴史学者 李君