山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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円仁法師の縁地:劉村(留村)


留村は威海市石島区寧津街道西南部に位置し、東は北場、渠格村などと境界し、南は南夏家、口子両村と隣接する。日本国の円仁法師『入唐求法巡礼行記』で文登県青寧郷付近に劉村という村落があることが言及されている。分析すると、筆者は留村が唐代の劉村であると思う。



赤山

唐代の青寧郷は文登県の東南部に位置した。『入唐求法巡礼行記』に「青寧郷は南のかた海を望み莫耶島有り」。これから推断するに、青寧郷の核心区域は寧津街道である。青寧郷付近の地勢は緩やかで、河川が多く、耕転に適宜な肥沃(ひよく)な土壌である。青寧郷は古代の陸海交通の要衝で、その北は古代の龍門港に臨み、西は石島湾に臨み、港が多く、同時に境域には甲子山、朝陽山等海岸近くの山々が有り、航海通行の重要な目印であった。


新羅人の張保皋は嘗て赤山浦を唐朝の貿易基地として、物資の移送や販売に利用した。留村の南に口子村があるが、朝陽山と甲子山の間の峠道(とうげみち)により名を得ており、昔からは、この峠道は古代の東西交通の要路であると伝えている。張保皋は青寧郷沿岸で交易活動をして、その一部の貨物は必ずこの峠道を経て西へ向かい現在の斥山村一帯からさらに西へ送られた。故に「赤山浦」の範囲は現在の寧津街道の東部、南部の沿岸内の広い地域を包括する。此処の海岸は広く緩やかで、停泊上陸に大変良い場所であった。

『入唐求法巡礼行記』に(円仁は)新羅僧常寂に請うに依りて、劉村に往く。彼に到り、便ち(すなわち)白石の弥勒像の体上に土の着けるを見る。事由を問うに此に新羅王憲有りて、夜夢に一僧来る有り語りて、我は是れ文殊師利なりと云うと、答えて言え劉。古仏堂は墮懐すること積年、人の修緝することなく、仏・菩薩は土中に埋没して⋯⋯」

円仁法師は劉村付近での活動が頻繁で、その地理的位置と交通情況が密接に関係している。劉村は山と河水に取り囲まれ、農耕の肥沃な土壌のみならず、寺院造立に適合した「風水の敵良地」である。劉村は多くの「新羅村」の一つで、嘗て少なからぬ新羅人が定住し、これはまた劉村がかつて赤山浦と外界が連絡していた陸路の要衝であったことと無関係ではないです。


膠東海草房

李浩『唐代の村落と村落単位の行政(唐代的村落与村級行政)』で、唐代の村落は姓氏で命名する現象がありふれており、これは唐代の村落の家族制特徴を反映していると認識している。劉村は典型的な単位姓氏で命名された村落で、当然劉氏が創建した村であるので、劉村と称すのである。光緒『文登県誌・選挙』では、唐代の文登地区には多くの劉氏が記載されている。


『栄成市地名・留村』には、「元代至元年間、程姓の先祖である伯通が河南省洛陽から此処に移り住み、村に定住した。その為、山と川に囲まれ、美しい山々があり、此処は独特の風水の宝地であり、子孫が代々此処に住んでいたことから留村と名付けられました。

留村の村西には中華人民共和国全国重点文物(重要文化財)の「留村石墓群」があり、これは村中の程姓の先祖墓地である。石墓の流行は元時代及び明初の膠東地区で流行し、その上に石碣(丸い碑)を嵌め込み(はめこむ)、被葬者の村落、姓名、親族と生没年月等を刻字した。

その中で、「程伯通墓記」の落款年号は「元統三年(1335年)七月七日」である。墓には洛陽の痕跡はありません。洛陽は、北宋の学者である程頤と程顥の故郷です。石に刻まれた年代は、埋葬の時代を表すことしかできず、埋葬者は程姓の最初の祖先であるとは言えません。元王朝では、彼は洛陽の「ニ程」の故郷から移動して此処に落ち着いた。明らかに、この主張が説得力を持つには証拠が不十分です。

程姓がいつ劉村に移住したのか、考究するのは難しいが、元代以前であるのは確かである。しかし唐時代には既に劉村があったので、留村は程姓氏の建村ではなく、また「始祖が後裔の世代がこの地に留まること望んで、(程の留村)名を村に残したわけでもない。


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幾つかの墓記の「都村」は、共に「文登県第七都」と記している。劉志剛著『探訪中国希世民居海草房』中に留村の石碣題字をやや詳細に記録しているが、「都村」は明らかに「文登県大第七都劉村」と記している。これによって、劉村は元代後期には、文登県第七都であり、村名は依然劉村であった。

龍山寺遺跡にはまた「道光十五年重修仏殿将施銭村荘勒諸石」の石碑が残され、碑文には道光十五年に龍山寺を重修した時にお布施を出した村荘と組織者が刻まれている。碑文には全て劉邨とあり、邨は村と同じなので劉邨は劉村である。よって、元代後期から清代中期までは、留村は終始「劉村」を村名として踏襲していた。

『栄成県続志』中では留村と記し、これによって、留村中には久く劉姓がなく、劉、留は音通により留村に推移したものと理解される。

留村一帯には孟家山前で留村と改名したという伝説が残っている。伝えられるところによると、留村は古く孟家山前と呼ばれ、唐の黄巣が蜂起して四方を転戦したが、敗走して孟家山前に逃げ、程姓の姑に哀願して彼の命を救ってもらったという。程姑は親切にも黄巣を引き取って衣食を供給した。

黄巣は別れ際、やがて大軍が通り過ぎるときは、災いを避けるために門に「桃の枝」や「柳の枝」を挿しておくようにと告げた。程姑さんは、このことを村人に告げた。後黄巣の大軍が此処へ来ると、この村の家々に「桃の枝」や「柳の枝」が挿されていたので、大軍は無事だったので、孟家山前は禍を免れ、ここから留村という名がついた。

この伝説は唐代に「留村」があったことを側面から反映している。黄巣蜂起の活動の範囲は膠東地区には及んでいないが、留村と劉村には脈々と歴史の背景がある為、后人はこの伝奇譚を付会して留村の由来を説明している。黄巣蜂起の伝説の源流を辿ると、過去に民間で流行した『残唐五代史演義』及び関連戲曲と関連があり、民間文学と戲曲が知らずのうちに地名伝説に影響を及ばしことの表れである。

作者 威海 李煦