青島労山海印寺遺址
明万暦十一年、明代四大高僧の一人、憨山大師は山西省五台山に修行、『華厳経』の記録には「東海には那羅延窟と呼ばれる菩薩の集落がある」と書かれており、どうしても労山へ行きたくなります。聖慈太后はこのことを知り、寺を建てるために銀3000両を授けたが、当時労山は食料危機にあり、憨山大師はこれを危惧し、被災民の救済のために使用した。
憨山大師自身は華厳寺の西にある那羅延窟で二年余り座禅修行をしていた。元々洞窟の傍らに寺を建てようとしたが、建築材料の輸送、施工が難しい等等、増築の為に地理の制限により棚上げとなった。
2年後、即ち万暦13年に、彼は太清宮にやってきて、茅草でできた住まいを作って寺を建てる為の資金を集め始めた。
万暦14年、皇帝に子供が生まれて、15部の仏教経典を名山の古寺に授けた。聖慈太后は特に労山に対して1部の経典を与え、後宮の女官にお布施をさせて、憨山大師は寺を建立した。合わせてこの寺に「海印」という名前をつけた。
憨山大師は遂に万暦十八年に海印寺を建て、建てた後に、お参りの線香や蝋燭の火が大いに栄えた。
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その後太清宮の道士は憨山大師がここに仏教寺院を建てた行為は甚だ恥知らずだと思って、先には劉真湖等の人は憨山大師と廟跡地を争奪し、後から、道士の耿義蘭が逐次上訴して、憨山大師は当時の地位と権力により、上皇太后の後楯で、誰も敢えて反感を持たれることはなく、孔義蘭は誣告した罪を収めて、全身傷だけになりました。
孔義蘭は不服がある様子で、上京して告訴して、都の白雲観に住み、白雲観道長の張国祥を通じて、皇帝の眼前に寵愛されている鄭貴妃の関係に託し、訴状を皇帝の眼前に送った。
万暦二十八年、皇帝は御諭しを下し、私的に寺院を営むの罪名を以て、憨山を雷州に流罪して、寺を壊して宮を建造し、道蔵5485巻を下賜し、道場を長らく従わせた。此処が即ち海印寺の遺跡となった。
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