山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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北洋海軍の英雄達

嘗て中国は海洋大国で存在、明時代まで世界的な最強海洋大国である。中国明代の武将、雲南出身のイスラム教徒鄭和。永楽帝に宦官として仕え、1405年から33年まで前後七回に渡って七海に渡って南海遠征を行い、東南アジア、インド南岸、西アジア、東アフリカ海岸を訪れ、南海諸国の朝貢・通商貿易を促した。東南アジアからインド洋、アラビア海に大航海を行い。

その後、明清両朝の統治者は制海権の意識が欠乏していて、鎖国政策を採用し、中国の海上での優位性は存在せず、中国の門戸は最終的に西洋列強の鎧ばり戦艦と大砲で開かれてしまった。


一 李鴻章


アヘン戦争の後、飽くまで蹂躙を受けた清朝政府は西洋の先進技術を学習することを通して封建統治を救出しようとして、中国の近代的海上防衛の建設がこれより始まった。中央の洋務派(軍事近代化)の恭親王奕訢を代表勢力として、地方の洋務派の代表曾国藩、李鴻章、左宗棠、張之洞等が近代軍事費工業の創業を支持した。
しかし、このような艦隊一本で本当に李鴻章が希望したように、大清帝国を波風を立てずに守ることができたのであろうか。

1885年、清政権は海軍衙門を創設し、北洋海軍は優位的に発展し、李鴻章は海軍衙門の一員であり、李鴻章は海軍衙門の彼の利点を利用して、その後、北洋海軍の発展を優位に勧めた。1888年「北洋海軍章程(規約)」が公布し、北洋海軍が正式に発足した。北洋海軍の正式な軍隊結成を示している。清政府は丁汝昌の最高司令官を任命し、315人の士官を任命した。北洋海軍の士官の多くは西洋に留学し、西洋の高度な海軍教育を受けました。
李鴻章は中国清政府の政治家。洋務運動を推進し、清政府後期の外交を担い、清朝の立て直しに尽力した。中国海軍機関「海軍衙門」の一員であったが、北洋で海軍を洗練する仕事は専ら李鴻章に任せることにする。北洋艦隊を私兵化した軍閥の代表的な人物。日清戦争講和会議での清朝の全権大使。清末の「四大名臣」の一つと称される。
1884年、日本は朝鮮と清政府の従属関係を終わらせようと、クーデター(甲申事変)を企てた。親清勢力一掃を図り、日本の援助で王宮を占領し新政権を樹立したが清国軍の介入によって三日間で失敗した。その後、双方は「天津条約」に署名し、「今後、朝鮮が重要な出来事を互いに通知し合うことを前提に、双方が軍隊に派遣する権力がある」と合意し、日本が将来戦争を誘発する手を待ち伏せた。

続いて我々は戦前の日本の国防建設の情況について説明してみたいです。

1868年、明治維新後、日本は対外侵略と拡大の道を歩み、「中国を征服し、アジアを支配する」という大陸政策を立案し、慎重に準備し、計画しました。
日清戦争前、日本は大規模なスパイ機関を設立し、中国の政治、経済、軍事、文化、地理の一般化に関する情報を収集した。日清戦争前、日本は七つの近代化陸軍師団を結成し、総兵力は12万人に達し、戦争に備えた。
清政府に対する侵略計画をできるだけ早く実行に移すために、日本は近代的な海軍の建設を増やしました。天皇を中心に全国から資金を寄付して海軍を増強し、日清戦争前には日本海軍の総トン数は7万トンを超え、北洋海軍に対抗できる艦隊へと急速に発展した。北洋海軍の総トンは4万トンを超えた。
日本が精力的に軍備を増強する一方で、清政府は海軍の開発を中心し、西太后は還暦を祝う為に海軍の資金を充当し、頤和園と「三海」プロジェクトを建設しました。今日、頤和園のよく彫られた石造りの船は、昆明湖の畔に停車しています。

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1885年、醇親王を総理海軍事務に任命する。全ての沿海海軍は醇親王により指揮命令が統括される。慶親王奕劻と大学士・直隷総督李鴻章に協力して処理させ⋯⋯。醇親王は光緒帝の父親でもあった。新設された海軍機関「海軍衙門」においてドイツの影響力が優位、占めることを懸念していた。
1886年3月にイギリス人ラングは大清帝国海軍衙門から提督に任命され、直ちに李鴻章の委任により北洋海軍艦隊の総教官となった。もちろん北洋艦隊には既に提督の丁汝昌がいた。
北洋海軍衙門が正式に発足初期の頃、イギリス海軍のラング大佐を帝国海軍衙門に雇い、北洋海軍提督丁汝昌を支援し、艦隊の管理と訓練を担当しました。彼は、1890年まで北洋海軍訓練システムを監督した。彼が帝国の指令を託されること、訓練システムは英国式であること。外国人の専門家である。1890年、偶然な出来事で、ラングは退職した。中国では1890年にラングを失ったことは重要である。直接の結果は英国海軍から中国人学生が排除されたことである。更に、ラングの離脱後、訓練が退歩したという証拠がある。
更に、1892年醇親王が死去し、海軍衙門はより経験不足の人物の元に置かれた。醇親王は一方で謙虚に振る舞い西太后や保守派だけでなく、光緒帝の側近翁同龢ら革新派とも親交を結んでいたことは緩衝地帯として両方の衝突を防いでいたが、醇親王の死により対立は避けられなくなり、日清戦争の敗北で両派の対立は決定となり以後の政争に繋がった。
1885年9月、戸部(財政省)の指令は地方官僚が戸部と海軍衙門の承認を経ずに海軍物資を購買することを禁じた。
日清戦争の約3ヶ月前に李鴻章が朝廷に上奏文をした。上奏文には「次のように書かれています「北洋艦隊の艦船が初めて建造された時、西洋の船舶技術はそれほど発達していなかった。北洋海軍の中の定遠、鎮遠を含む全ての艦船は既に立ち遅れてた。近年、戸部は艦船及び武器の購買を停止する決定を行った。1888年以来、北洋艦隊に一隻の艦船も加えていない。新しい艦砲を買い揃えなければならない、所用金は銀613040両であります。」しかし、この合理的な提案は海軍衙門と戸部(革新派)を拒否した。李鴻章は彼の最大の軍艦の為に21門の雑多なクルップ製速射砲を購入することを望ますけれど、失敗して終わった。
1894年5月、李鴻章は北海海軍の演習を振り返り「熟慮の上では継続は難しい」とため息をつき、その2ヵ月後、日清戦争月勃発した。

日清戦争後、清軍の度重なる敗戦により、国内の主戦派は戦いへの自信を失いました。清朝政府は平和交渉のために李鴻章を日本に派遣することを余儀なくされ、1895年5月17日、中国と日本は馬関の春帆楼で「馬関条約」に調印した。正式名称は日清講和条約。賠償金2億テールを支払うこと(当時の日本の国家予算の四倍以上)。
「馬関条約」はアヘン戦争以来、割譲された土地の量と巨額の賠償金の記録を作りました。

二 丁汝昌


丁汝昌は安徽省廬江の人である。初めは太平天国の乱に反乱側として参加したが。清朝に帰順してから李鴻章の下で働き、後に北洋艦隊の提督(司令官)になった。1882年、朝鮮で壬午事変が勃発すると丁汝昌は北洋艦隊を率いて朝鮮に赴き大院君(国王の父親)を捕まえて帰国して来た。これによって朝鮮には親清政権が復帰し、旧来の宗主国としての存在感のアピールと朝鮮への日本の進出を阻止することが出来た。1888年に北洋艦隊が正式に発足すると提督に任命された。丁汝昌は北洋艦隊主力艦を組織し度々朝鮮、日本、ロシア等の国を訪問し、至る所で当地の中国人を奮起させた。1891年7月から8月にかけて艦隊を率いて日本を訪問した。1891年以降、清朝海軍予算が大幅に削減される。これは海軍費用を頤和園の建設費に流用したから、清政府の主力海軍だった北洋艦隊は10年間の更新ができず、艦隊の追加購入も不可能になり、日清戦争における敗北の遠因になった。
1894年に日清戦争が勃発、当初李鴻章は艦隊を温存しつつ、陸上戦を中心に日本を撃破することを考えていた。日本が連合艦隊を組織して陸上部隊の輸送支援などに参加すると、清側に「北洋艦隊は何故出ないのか」という世論が高まる。8月10日に日本連合艦隊が黄海に侵入すると、光緒帝までもが李鴻章に向かって「丁汝昌は日本海軍を怖がっているのか」と叱責する。此処に至って已むなく李鴻章は北洋艦隊に出動命令を出す。


9月17日、鴨緑江河口沖で日本連合艦隊と遭遇し黄海海戦が行われる。丁汝昌は艦隊司令官として旗艦「定遠」の艦橋で指揮を執っていたが、主砲発射時の事故で艦橋が破壊された際に負傷してしまう。此処で北洋艦隊に問題が生じる。旗艦指揮不能状態に陥った際の権限委譲の手順を決めていなかった。北洋艦隊の各艦が個別に戦闘を始めた。結局約5時間にも及ぶこの戦闘の結果、北洋艦隊は主力12籍の内5隻(英国製)を失った。

北洋艦隊旗艦定遠艦
この後、丁汝昌は李鴻章の命令で残った北洋艦隊を本拠地の威海衛に移し坐礁艦を「鎮遠」に換えてひたすら防備を固める。丁汝昌として威海衛を防衛する陸上部隊を戦力に不安を感じたのだが、陸上の砲台は北洋艦隊の管轄ではないため、結局この不安は改善されなかった。
日本軍(陸軍と海軍)が劉公島に閉じ込められた後、威海衛基地最高文官である牛昶昞は降伏を企て洋人教官と共謀し、丁汝昌に拒否された。一部のならず者や兵隊くずれが刀を手にして丁汝昌の投稿を迫ったが、投降を拒絶した丁汝昌は外部に援助兵がなく、内部には投降した将兵しかないという状況が絶体絶命の中で、1895年2月12日の未明にアヘン水を呑んで自殺して国に命を捧げた。享年60歳であった。
丁汝昌の自殺後、牛昶昞などは提督印を盗用して投降文書を起草し降伏を主導した。3月17日、日本軍は劉公島を占領し、北洋海軍は壊滅した。牛昶昞は北洋海軍の11隻の軍艦と全ての軍用物資を無条件に日本軍に引き渡し。戦後、彼は真実を隠したとして、降伏の罪は死んだ丁汝昌に押し付けた。丁汝昌の名誉が回復されたのは15年の後のことである。牛昶昞は軽微な解雇の罪で処分しました。
アメリカ海軍雑誌『世紀』の戦争追憶記事で、「国の為に身体を捧げた幾人かの中で、第一に挙げられるのは丁汝昌である。彼は勇敢な戦士で真の紳士である。彼は内部に背反により、敵衆中に身一つとなった。彼は最後の行動は彼の手下の士官達の生命の安全を図ることで、自己の生命を救うことを潔しとしなかった⋯⋯夜半に、この高齢で傷ついた英雄は服毒して遂に安眠したが、それはある種とても苦しみであった。」と記している。

三 林泰曽



清朝の北洋海軍の高級将校であり、北洋水師の左翼総兵と、北洋艦隊では当時最新類の鎮遠の艦長を兼ねていた。
林泰曽の祖父は林則徐(欽差大臣、アヘン戦争の民族英雄)の弟であり、林則徐の娘を妻として沈葆楨(総理船政大臣及び南洋通商大臣)は遠縁にあった。
1867年、林泰曽は沈葆楨が作った福建船政学堂に第一期生として入学し、此処で船の操縦方法を学んだ。1888年に正式に北洋海軍が成立すると、林泰曽は左翼総兵の提督となった。1894年に日清戦争が勃発すると、林泰曽は鎮遠の艦長として従軍した。黄海海戦では鎮遠と旗艦定遠は北洋海軍の主力として日本軍の連合艦隊の集中砲火を受け、多数の被弾によって林泰曽は巴図魯(満州語勇士)称号を与えられた。この戦いの後、北洋艦隊はその方針を開戦当初のに切り替え、残った艦隊を威海衛に集中して軽々に出撃しなくなった。
1894年の冬、近海を巡回して威海衛に帰港しようとした鎮遠が港口でした。船体の亀裂は10米ほどに渡り、応急修理によって沈没の危険こそなくなったものの、以前のような高速航行はできなくなった。本格修理を行おうにも旅順のドックは既に日本軍の手に落ちており、北洋艦隊の戦力は大幅に減少した。林泰曽はこの責任をとって服毒自殺した。

四 劉歩蟾


劉歩蟾は福建省の出身で、北洋艦隊の右翼総兵に務め、戦艦「定遠」の艦長も兼任した。近代中国最初にヨーロッパへ行った留学生の一人です。日清戦争における威海衛の戦いで、定遠は、日本海軍の魚雷攻撃を受けて擱座。砲台として戦闘を継続したが、陸上からの攻撃を受け損傷。日本軍による捕獲を避けるために船を沈めよう命じ、自身は国のために命を捧げ自決した。
嘗て、劉歩蟾に対する中国の史学界の評価は低く、映画「甲午風雲」では、白旗を掲げて投降した人物として描かれました。
しかし、それは、北洋艦隊の軍事顧問テイラーによる、事実とは異なる記録に基づくものでした。劉歩蟾の名誉が回復されたのは1977年になってからのことです。
総兵: 武官名 提督を補佐する。総兵の定員は2名。

五 鄧世昌


鄧世昌は広東番禺の人で、黄海海戦の中に、鄧世昌は「致遠」艦が傷害を受けた時、近くの日本艦「吉野」へフル馬力で突っ込むように命令したが、不幸なことに日本軍の魚雷が命中して沈没した。鄧世昌が落水してから三回救助の機会があり、最初彼の付随の武将が救命胴衣を譲ろうとした時、彼は受け取りを拒否した。次に彼の愛犬が力限り泳いできて彼の腕を咬み運ぼうとしたが、彼に押しやられた。三度目は彼の愛犬が彼の弁髪を加えようと戻ってきた時、この時鄧世昌は戦艦と存亡を共にして、彼は愛犬の頭部を押さえつけながら、愛犬と共に波濤の中に沈んでいった。やはり偶然かもしれないが、鄧世昌が犠牲となったこの日は彼の誕生日の旧暦8月18日で、年僅か45歳であった。

六 陳京莹


士官 陳京莹の家書:「軍人は、国を護ることを与えられた使命とします。古くから、国への忠義と親への孝行、この二つは両立のできないものです。ただ親への孝行を国への忠義に変え、国の為に尽くすだけです。」彼が父親に宛てた手紙を書き終わった二ヶ月後、大戦が勃発し、彼は軍人としての務めを果たすべく、戦場へ馳せ参じ、戦いに身を投じた。享年僅か32歳であった。
国の為に奉仕する為に、忠誠を誓うことしか出来ない。

七 マクギフィン



北洋海軍

黄海海戦
アメリカペンシルベニア州ワシントンタウンの公共墓地には、特殊な墓碑があり、上面には「謹んでこの碑をを自己の祖国を深く愛する一方で、生命を黄龍旗(清国国旗)に捧げた勇士の為に建立す」と刻む。この墓銘はフィロ・ノートン・マクギフィンに捧げられたもので、それは簡略な言葉でこの勇士の一生を概括している。マクギフィンは北洋海軍威海衛水師学堂総教習(校長に相当)として招かれた。日清戦争に鎮遠号戦艦の副艦長に任命され、日清戦争の最も凄惨な黄海海戦に参加した。

北洋艦隊が敗北した後、海戦で重傷を負ったマクギフィンは帰国した。1897年2月11日、マクギフィンが世に去った。この将官の一生は一面の黄龍旗を捧げたアメリカ人、死後は「ネイビーブルーの軍服の、袖口に金色釦の袖章のある」斬新な北洋艦隊の軍服に身を包んだ。彼の遺言に従い、その棺に覆ったのは、彼が嘗て国家の為に身を尽くした清朝北洋海軍軍旗「黄龍旗」であった。