アルート氏:清朝で最も悲哀な皇后で、たった一言で慈禧(西太后)の怒りを買い、自滅の道を歩むことを迫られた。
「私は大清の門から担ぎ上げられた皇后だよ、よくも私に触れたな。」
嘉順皇后(アルート氏)は、自分のこの一言の口論が、結局姑(しゅうとめ)の慈禧太后に殺戮心を起こさせるとは、全く考えていなかった。
同治皇帝が生存していた頃、速やかに嘉順皇后て恩愛を加え、彼女の為に生母慈禧太后と疎遠になることまでになった、この二十歳余の皇后の素性(すじょう)はどうであったのか。
嘉順皇后の出身はアルート氏で、父親の崇綺は清朝が中国へ入国して以来、清代二百年余りの科挙中で唯一一位となった満州族の科挙首席で、従兄弟の叔母は咸豊皇帝の正妻慈安で、あらゆる点で慈禧一頭を威圧し、地位の高貴さは見るべきものであった。
同治皇帝
このような家庭の背景を得て、アルート氏を同治皇帝が妃に選んだ時、慈安太后(東太后)の推薦を獲得し、慈禧太后の推薦した人に圧力をかけ、同治皇帝の皇后となった。
しかし正にこの勝利が、彼女に慈禧太后の心中に棘を突き刺した。
皇后となってからの日々は、嘉順皇后は夫の同治皇帝の寵愛を深く受けたが、これで慈禧太后は頗る面白くなくなり、悉く皇帝と皇后の愛情生活に干渉したので、母子関係、嫁姑の関係は全く円満とは言い難くなった。
1874年、既に衰退していた清朝の皇室は、年僅か19歳の同治皇帝は天然痘に罹り、寝たきりとなり、再度重大な衝撃を受けた。
天然痘は伝染性が極めて強く、二人の皇太后は侍医と相談して、同治帝を養心殿の東暖閣に遷して静養させ、傍で誰も面会は許されなかったえ
妻として嘉順皇后は同治皇帝が罹患(りかん)の間じりじりと焦っており、再三に面会を求めたが、ことごとく慈禧太后に却下され、長年積み重なった嫁姑の関係が終に爆発した。
今回の衝突で、慈禧太后は激怒して、皇后を廃する考えに到った。
しかし、嘉順皇后は少しも引き上がらず、衆前で「私は大清の門中一族に選ばれた皇后で、例えあなたが太后であっても私を勝手にすることはできないのです。」と言い放った。
嘉順皇后は口にした大清門中とは、清代の紫禁城の「国家の門中」として、地位は非凡であった。
清朝皇室の先祖代々の訓令によれば、女性として、皇帝の結婚式の日にのみ、新皇后として大清門から紫禁城に入ることができ、これは皇室の女性一族にとって最高の栄誉であった。
皆が良く知っているように、慈禧は後半生で大きな権力を握ったが、生前は皇后になることはなく、死後追贈を得ているが、これは慈禧の終生の遺憾となった。
嘉順皇后のこの言葉は、疑いもなく慈禧の心中の最も忌避されている痛い所に突き刺さった。
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今回の衝突後、この横断な嫁に、慈禧も徹底的に堪忍袋の緒が切れた。
同地帝が病没すると、跡継ぎを残さなかったなかので、新しい皇帝を立てなければならなかった。
嘉順皇后が朝政を逃げる太后になることを避けるために、慈禧は名に溥字を持つ子孫の支持を諦め、自分の血統外の甥の載湉私総領継承者に選んだ。
嘉順皇后にとって言えば、慈禧のこの手出しは殺人しても血を見せないというべきであった。新皇帝の光緒帝は同治皇帝とは同世代で、将来の大婚する皇后はアルート氏皇后の義妹として、「皇后」の名を冠して宮中に生活するに何の意味があるのであろうか。
言い換えれば、慈禧太后のこの挙動で嘉順皇后に残されたものは、ただ死路だけであった。
同治皇帝が亡くなってから僅か二ヶ月で、嘉順皇后は金を呑んで自殺し、亡夫の後を追った。
このキナ臭い嫁姑の大戦で、慈禧は兵でもって流血することもなく、100%の勝利を獲得した。手腕の老獪(ろうかい)さは、本当に肝を冷やすものである。
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