山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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黄島砲台の「国旗三変」掲揚塔の旧跡を捜索する。

1898年5月19日、「HMS(イギリス海軍艦艇)ナーシサス」号が、威海湾に乗り入れたが、この艦艇の任務は中国側役員と共同で日本が占領した威海衛の防衛拠点の引き渡しする事であった。

23日、威海衛上空で3年間はためいていた日章旗が降ろされ、日本軍が撤退した威海衛に久しぶりに黄龍旗が再び威海衛の空に翻った。

24日午後1時30分、黄島砲台では、英中両国の水兵がここに並び、僅か一日存在しただけの黄龍旗が降ろされ、軍楽隊の演奏「女王陛下万歳(God Save the King)」の中で、イギリス国旗が黄島砲台に上げられ、威海衛はイギリス租借地時代に入った。僅か二日間の内に、黄島砲台で「国旗三変」の歴史が発生した黄島の、その具体の位置はいったい何処にあったのであろうか。


日清役人威海衛返還儀式の集合写真(威海衛天后宮)

黄島砲台の「国旗三変」の掲揚塔を求めるには、まず歴史上の黄島砲台の建築構造を知っておく必要かある。黄島砲台が建て初められたのは1890年の夏から秋の頃で、これは劉公島で二番目に建てられた常設海防砲台で、威海衛基地やその他の常設砲台と同様に、基台はコンクリート花崗岩で構築され、外面は土塁で防護されている。砲台の最上部は露天に砲台4基を設置し、台内には兵舎、火薬庫、弾丸庫、坑道、陣門などの建築が配置された。黄島砲台はクルップの35倍径240ミリメートルキャノン砲4基を配置し、武装配置の強度では、この砲台は島内一番であった。

日清戦争後日本が3年間占領した時期には、黄島砲台は劉公島に位置したために、日本海軍により占領され、大砲装置兵器などの物資は日本軍に解体され本国へ運び出されたが、砲台建築は大々的な破壊は受けず、島外の陸軍が占領した南北幫(隅)砲台のように瓦礫(がれき)の山となることもなかった。時は流れ現在では、黄島砲台の姿は百年的とは多く変容しい、その最たるものはイギリス租借の後、島内での建設需要により、イギリスは黄島砲台に原来有った建築の大部分を取り壊し、取り出した「石島紅」花崗岩の石材でそのほかの建築施設に改めたのである。1930年代になると、砲台の坑道を除いて、そのほかの砲台建築は殆ど無くなっていた。新中国成立後、駐留軍が黄島砲台の廃墟に海防施設を再建し、今日の黄島砲台の新しい顔となった。

近代の戦禍人災により、北洋海軍の威海衛基地と防衛施設及び附属建築に関する中国側資料(文書図面、写真)は未だに公開されず、現在知られている一部の写真や、図版資料も同様である。各時代に残された旧写真や、日本軍占領後に描かれた黄島砲台内外の平面略図を関連付けて、黄島砲台に「国旗三変」の掲揚塔の旧跡を確定することはもはや(国家機密での)問題ではないであろう。


旧写真から、黄島砲台の主要建築は北から南に向かい、威海衛やその他の砲台とは異なり、この砲台には「東、西」再びの陣門があり、陣門の平面はこの砲台の最も低い一階にあり、南側の海岸線よりはやや高く、かつ海辺に比較的近い。両陣門のあいだと東西両側には屯所壁が築かれた。砲台の最上部には自動的に西に向かい(写真では右から左に向かう)「砲座1〜4」が見られる。砲座1の東側(写真の右側)には元の清軍の旗竿二基が見られ、この旗竿は石の基礎で、「国旗三変」臨時の人事の旗竿ではない。


これはいつも見られる「国旗三変」の旧写真で、この写真の角度は西から東に撮影され(遠景の山の形を参考にすると)、内容の旗幟二基は仮設の旗竿で、元の黄島砲台の「西、東の弾薬補充口」二ヶ所での内、二基の仮設旗竿の位置は「西弾薬補充口」の東北側である。西、東の弾薬補充口は砲台の砲座位置にあり、つまり兵士が火砲を運び、発射するから層位であり、砲台の次の層位である。「東補充口」は砲座1と2の間に位置し、「西補充口」は砲座2と砲座3の間に位置する。二ヶ所の弾薬腐熟地と接する石材の「人用壁」は東から西にこの第二層の台面に文王する。石材の「人用壁」の高さは関係係資料によると6尺、約2メートルで、その最上の石材は「斜め切り」となっている。

この写真は西から東へ撮影(写真の右側の遠景の麻井船ドック周辺の建築を参照)、前の写真1と撮影点はほぼ同じで、近景のはっきりした建物は「西、東の二つの弾薬搬入口」で、石製の「人用壁」と中英の隊列兵士の、双方の兵士の隊列位置は「西の弾薬搬入口」の東西両側に集中している。

この写真の撮影個所は「砲台2」の東側で、東から西向きの角度で撮影し、写真には中英の兵士の前に旧黄島砲台の円形の砲台一基が見えるが、砲台の西側は旗掲揚場の臨時の旗竿である。旗掲揚場の二本の旗竿は砲台火器の発射面〜「砲身面」に位置しており、砲台内位置の最高層である。砲台の外部は石製の「砲身面」に位置しており、砲台内位置の最高層である。砲台の外には石製の「人用壁」が西側の「西の弾薬搬入口」の位置に伸びている。この写真は北から南向きの角度で撮影(以上の写真は中国の兵士の隊列で、写真2の内容から判るのは、写真の、中国兵士の隊列の左上角の姫垣建築が「西営門」でこれを弊害として、「西営門丈夫」に居る兵士の隊列は東南方向である。これから、双方の兵士の立ち位置の位置は西営門より高く、砲台兵舎と坑道の覆土上部に位置していたことがわかる。

以上の多くの旧写真に含まれる建物の情報を総合して、砲台平面図内の「西営門」「西弾薬搬入口」「砲座2」の三者の関係結合すると、国旗三変の旗上げ位置は、砲台2の西側で、洞筒と並行に有り、西弾薬搬入口のやや北東側の砲台の最高層位面上にあると確定できる。

イギリス租借時期の黄島砲台の兵舎や、キャンプの囲い塀は取り壊されたため、現在の黄島砲台の旧跡の地形は旧写真とは大きく変化している。幸いなことに、砲台内の坑道と弾薬庫や、砲台位は改められているが、位置に変化はない。


西坑道内の弾薬庫の位置は旧写真の西弾薬搬入入り口の下方であり、その地面の上のやや東側が即ち100年前の「国旗三変」の掲揚地旧跡の今日の位置である。


黄島砲台は、日清戦争の惨敗経て、「国旗三変」の国辱を目撃し、同時に「中国は滅びず、我は存在している」という民族覚醒(かくせい)の原点であった。