エディス:胡適の外国籍の初恋を、逃してから一生結婚せず、胡適が晩年に病没すると、(外国籍の)写真はその恐妻に棺桶に入れられて一緒に葬られた。
1962年、胡適が台北で病没すると、元々夫と女子の交流を嫌っていた江冬秀であるが、意外にも埋葬物の中に自ら一枚の女性の写真を添えた。
この写真はアメリカから来た白人女性で、エディスという名で、胡適と50年もの愛情の束縛(そくばく)の中で、彼女も終始感情の貞節を保ち、一生他人に嫁がなかった。
1914年、胡適は単身海を渡り、アメリカのコーネル大学へ留学したが、地質学教授の娘エディスはすぐ彼の世界に落ち入った。
当時の胡適にとって、エディスは、太陽のような眩しい西洋の若い女性の典型であった。
彼女のショートカットは颯爽(さっそう)とし、読書家で、高貴の出でも驕ることもなく、これは胡適が東方世界では未だであったことのない少女で、すぐさま恋に落ちた。
正に胡蘭成が、張愛玲と一緒にいると何でも見通されるようだと何度も言ったように、エディスは胡適に対して、やはり同様の意味を言っている。
始め来たばかりの胡適は馴染まなかったが、エディスが彼のナビゲーターとなったことで、ようやく胡適は自分の思考の壁を取り払い、開化した世界に接触し、またより拘束の無い思想を持ち、胡適のその後の中国での口語文学の開拓の基礎を開いた。
しかし、将に胡適とエディスの愛情が熱を帯びて来た時、遠い故郷の冷水が、胡適の真っ向から浴びせ掛けられた。
元々、胡適と外国籍の女性との恋愛の噂が噂を呼ぶもう安徽の旧家に伝わっていたのである。
母親が胡適のために選んだ妻の江冬秀は扱いづらい人で、この事を知ると沸騰(ふっとう)して、母の住んでいる近郊で顔を出せないほど騒がしたので、ようやく胡適を捕まえて帰国するように電報を送った。
このような大変な情況に面し、胡適は何の解決方法もなかったが、かえってエディスは条理をわきまえ、全力で胡適を宥めて、大きい心で胡適を帰国させた。
この分かれが、二人が再び相愛を継続する方法がなかったことを、エディスはまだ知らなかった。
しかし彼女は胡適を両難の境地に陥れたくなかったので、自ら撤退し、胡適を自由にするしかなかった。
帰国当初、胡適とエディスは依然親密な文通を継続しており、ラブレターだけでも百通に上る。
しかし日が経ち、これに加えて江冬秀の厳しい管理もあり、胡適がアメリカに贈る手紙は二年に一通となったが、ただアメリカから来る手紙は雪のような頻度を保持していた。
20年後、胡適は大使となりアメリカに派遣され、エディスは旧交の身分で、胡適夫妻を家中に招いて住まわせ、江冬秀とも何でも話せる友人となった。
胡適の現在の円満な家庭を目にして、エディスはもう胡適に昔の夢の様な幻想も抱くことも亡くなり、彼女も自分の身分を徹底的に変換し、「精神の恋人」から正式に胡適の支持者に転変した。
1959年、既に古希70歳になったエディスは自分の家を売り払い、自分の貯蓄を纏めて、全額で胡適基金会を設立し、胡適の作品を翻訳出版し、自身はトタンのガレージに引越し、苦行僧同様の生活を過ごした。
3年後、胡適が台北で病死すると、元々夫が他の女性と繋がりがあるのを好まなかった江冬秀は、破天荒にも夫の棺桶に一枚の女性の写真を添えたが、その顔は正に太平洋の彼方のエディスであった。
この行動について、江冬秀は「胡適の生命には彼女の存在があり、人生の終点も彼女の参与があってこそ、完璧なのよ。」とぶっきらぼうに言った。
遺憾に満ちた愛情は、最終的にこの種の方法で終了を迎え、またある意味円満でもあった。
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