山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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丁戊奇荒(清末超大規模飢饉)と言われる「人心を収拾する計画」

1867年〜1878年、清帝国の北部は稀に見る干魃被害に遭遇した。災害地区は山西、直隷、河南、陝西、山東五省に渉った。災害民は積算1億6千万から2億人前後に達し、飢饉と疫病で亡くなった人は千万人であり、被害区域外に逃散して生き延びた災害民は二千万人を数える。災害が最悪であった1877年と1878年は旧暦の丁丑と戊寅年であったので、この惨劇を歴史上「丁戊奇荒」という。


イギリスの宣教師ティモシー・リチャード(李提摩太)は災害地区に入り込み、日記にこの飢饉の惨状を記録した。此処にはその中から二例を紹介する。(1)1878年2月1日、リチャードは山西太原の南450里の某所で。彼は「半日の内に6体の遺体を見て、その内4体は女性であった。⋯⋯また浮体の17〜8歳の若い人と、手に杖(つえ)を持ったふらついて歩む、見たところ90歳余りの老人に出会った。別の若者は、〜もう歩く気力もなくなった母親を背負っており、私を見つけた彼らの、若い人は私に救助を求めたが、これは私が太原を離れてから初めて私に物乞いをした人であった。

(2)1878年2月2日、リーチャドは太原の南530里にいて、日記に次のように書いています。次の都市は私が見た最も恐ろしい光景です。朝、私は城門に付いた、片側には裸の男性の死体の山があり、食肉処理場の豚のように積み上げられていました。城門の反対側にも同様の死体の山があり、全て女性でした。彼らの服は食べ物のために剥ぎ取られていました。馬車が死体を大きな穴のそばに運んでいました。人々は男性の死体を一つの穴に、女性の死体をもう一つの穴に投げ入れました。

飢饉と疫病は非常に深刻で、既に清政府の救援能力を遥かに超えていました。幸いなことに、この時点で既に清政府は世界と密接に連絡を取り合っており、災害のニュースは中国の宣教師、欧米の政財界の人々、様々な業界の人々を通じて、瞬く間に世界中に広まりました。支援が続きました。例えば「巫来由国王(マレーシア)」は1,000元の銀を寄付し、香港の英国総督は5,000元の銀を寄付し、香港や南洋(東南アジア諸国)などの華僑は30,000両以上の銀を寄付しました。シンガポールと小呂宋など所の中国商人は30,000両以上の銀を寄付しました。天津の英国領事館は、欧米諸国の人々が資金を集めて銀50,000両以上を寄付したと述べました。日本ビジネスマンは竹添進一を代表して、米4,540石以上、小麦1,700石以上、大銭1,000串以上を寄付しました⋯⋯。


しかし、この援助に直面し、河南の教育行政の瞿秋鸿𧝞は1878年に清朝に『外患を防止する根本を以て請願する上奏文』を呈上した。内部では、外国人がこのように清帝国の被災民の救済に気前よく出資するのは、善行のように見えるが、実は魂胆は計りがたく、清国と民心を争奪しようとし、機会に乗じて大清の実態を探ろうとしており、その意図は計り知れない。彼はもう京畿などの省が、天災苦難が大変で、人民は大変苦境に在りるのを知っていて、隙間に乗じて人心を収集するため、虚実を探り、私に厳しい取り立てを欲しいままにするのである。

瞿鴻𧝞の意見によれば、清朝は西洋人の援助を拒絶すべきであるということで、西洋人には銀と物資を持ち河南、山西などの被災地に向かっている人もいるので、地方政府へ綿密にその行為に注意してその救援行為を制止する手立てを講じるように命じるべきである。

清朝廷は瞿鴻禨の上奏文に接して大変重視し、すぐさま総理役所と地方知事が、西洋人の救済活動を綿密に注意するように、勅令が下された。

勅諭では、日本の大使森有礼が総理衙門(役所)「日本人から救済物資を援助するものがある」という、総理衙門の王大臣から「山西からの転送が難しいので制止したい」とやんわり拒絶した。勅諭は外国人の援助に着目している。「外国の捐助は名を善挙と為すが、実は即ち流弊滋(ますま)す多し」、山西巡撫曾国荃、河南巡撫の涂宗瀛に災害援助を謀る西洋人のティモシーリチャードらを注意深く追跡するように求めた。「心を悉くして度を酌み、婉(すなお)に開導を為し、勧阻を説法する(制止を講じる)」。勅諭の背後の決定のロジック(理論)は、(1)多くの被災民を救済するよりも、朝廷は西洋人が救済を「遠方の人を懐柔」することを憂するのは、これは清帝国にだけ資格がある事情であった。(2)多くの被災民を救済することに比べ、朝廷は西洋人が救済を借りて清帝国の民衆を改変するイメージを憂慮した。清帝国の政府方宣伝では、西洋人は邪悪で、洋務運動の究極の目的は「甲申の変(英仏連合軍の北京城陥落)」の巨大な恥辱を雪辱することであった。欧米各国と正式な外交関係を建立していても、清朝の中枢が秘匿(ひとく)した政治的立場は各国を仇敵を見做していることである。

そこで、山西で救援活動をしようとしたリチャードが山西省巡撫衙門(役所)で曾国荃に面会を求めたが、彼はもてなしもなく、不穏分子として扱われた。「彼の秘書の一人が〜私がまず合わなければならなかった〜私に、巡撫(知事)は私が原因で大変怒っていると言った⋯⋯。彼は私が来たのは人心を買収して、民衆を政府から離反させたと考えていた。」

しかし、山西の被災状況は重大であったので、曾国荃は結局朝廷の趣旨には従ってリチャードを拒絶反応することはなかった。総理衙門(内閣役所)への報告で、曾国荃はリチャードを賛揚し、彼は銀塊を持って山西に到着すると、地方政府と大変協力して、まず陽曲徐溝等の地で救援し、「波乱なく」何事の騒動もなく済んだ。その後災害の深刻であった山西南部へ向かい、平陽府などの地で銀子を放出し、作業もきっちりしていた。曾国荃はリチャードの救済こういうに「寛容」であったので、民心が外国人に集中することはなかった。平陽府の被災民はリチャードに写真を求めたり、彼に祖廟の供養を頼んだりしたが、平陽府の役人紳士や学者が出資して建立した『平陽記災碑文』には、リチャードが「前後共に実銀五万を放過した」と実際に記載しているが、山西の紳士民間人にはリチャードという西洋人が救済に来たのは、「聖朝の徳沢涵濡の深く且つ久しくして能く感召すること是の如し(朝廷の恩沢は永久に感化する)」のが原因であったので、〜その中の聖人的要素を濾過(ろか)しているのであって、実際に政府が啓蒙すればえる所が多かったのである。

山西省の状況と同様に、日本の商人が寄贈した食糧は、最終的に直隷大臣(知事)である李鴻章の啓蒙により、飢えた人々に分配されました。残念ながら、この穀物は災害が最悪だった山西省に送られる予定であったことですが、総理衙門(内閣府)は既に遠距離を拒否の口実として挙げていたいため、李鴻章は反対できませんでした。これらの穀物は、天津一帯お粥小屋を作って、直隷地域の被災者を救済するために使用され、各お粥小屋は70,000人以上の難民を収容しました。李鴻章は、外国人からの援助を受け入れることが、外国人の「人心を収拾する計画」に足を踏み入れることであるとは感じていないようでした。彼は日本の商人から全ての食べ物を受け入れただけでなく、朝廷に要請する上奏文を書きました。これらの援助を褒賞してくれるよう朝廷に要請しました。彼らの親切に報いために、李鴻章は「巫来由(マレーシア)の王」に対して『楽善好施(親切で慈善的である)」という匾額を返還することを提案し、ロンドンの商民への寄付について、李鴻章は、駐英公使の郭嵩焘が英国政府に謝意を表し、そして総理衙門王大臣が英国公使に書簡を送り感謝の気持ちを伝えました。

残念な事には、災害が同様に重大であった河南では、李鴻章、曽国荃のような賢明な官僚が欠けていて、瞿鴻禨の勢力を得ており、外部世界からの援助は徹底的中排斥に遭遇した。宣教師の花国香(G.W.クラーク)と馬亨利(ヘンリーM.Taylor)が開封へ到着するなり、地方政府に退去の強制命令を出されたが、開封城内の紳士や学者たちは、「寧ろ夷肉を食すべく、夷粟を食べすべからず」のスローガンを、壁新聞に張り巡らせていた。

河南の紳士達のこの種の「気概」は、河南の被災民が「丁戊大荒災(1875ー1878)」の期間に、殆ど外部世界の援助を受けなかったことが直接影響している。


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