山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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中国の山脈と岩石(甲骨文から漢字教材)

甲骨文:

山部: 山 丘 岳 阜 阿 啊 陵 阻 陸 陽 陰 陥 阱 隊 墜 附

石部: 石 岩 磊 小 少 砂

現代常用字

山部: 峰 峻 崩 崔 嶺 岸 島 啊 険 陳 除 階 隔 際 防 都 部 陸 限 随 崇 降

石部:砸 碰 鉱 研 破 碎 硬 確 磨 厉 礎 臼


毛沢東は「政治路線を確定後は、幹部が決定の要素路なる。」と言った。大禹が治水を成功したのは、彼の持つ超越した能力と、天地と戦闘できる英雄的気質以外にも、もう一つ重要の原因は、彼が特別強力な指導者を築き上げたことである。「一枚の籬(ませ)に三本の柱、一人の良い男に三人のすけだち」という俗話のように、大禹の良い仕事を助太刀(すけだち)した好い男は、三人に止まらなかった。

大禹の治水チームは、刑法の創造者皋陶が秩序の維持の責任を負い、商人の祖先契が人事配分を管理し、周の祖先后稷が後方支援を責任を負い、天才発明家の巧垂が先進的な生産と、工具の運輸の提供の責任者となった。また大禹の身辺にはまだ有力なサポートで、秦人の祖先の「伯益」という人がいた。

前漢の文学者劉歆は、次のような功績を記載している。「伯益は禽獣を駆逐し、山川に命名し、草木を類別し、山河を分け、四岳が補佐して、四方を周旋した。国内に五方の山を区別し、国外に八方の海を区分し、珍宝や不思議な物、異国の生産物、水土草木禽獣麟鳳に止まらず、吉祥の秘蔵、四海の外の絶域の国、異人まで記録した。禹は国土を九州に分け、土地に進貢物を作らせた。そして伯益は物の善悪のを分類を待って、『山海経』を著わした好い」。後漢の著名な学者王充も、「禹と伯益は並んで洪水に対処したが、禹は主に治水、益は主に珍しい物を記録であった。遠くはないが未踏の海外の山の表が、『山海経』に見られる」と説いた。

中国の古代典籍の中で、『山海経』は最も古いものの1分である。言及された物品の大部分は、金銀あり、銅鉱あり、玉石あり、染料あり、草木あり、鳥獣ありりと、確実に存在する自然の産物であるが、人が訪れるのも稀な奇異幻想の地から来たものである。奇異幻想の地には奇怪な山があり、奇怪な川があるだけでなく、幾ばくかの奇怪な動物や奇怪な人物もいて奇想天外の事柄を作っている。現実中の一つ一つ物体は信じることもできようが、それらの来歴は荒唐無稽で抽象的。『山海経』の中の地理知識は歴史記録、大昔の神話、巫術の怪物を含む。大禹と伯益が共同で執筆したのはこの『山海経』であり、商人、巫師、学者、探検家が共同で創作した幻想作品と科学考察報告を集めて一体とした類ない奇書である。

黄帝が我々の祖先を率いて初めて歴史舞台で頭角を表した時、彼らはほぼ四角形の土地に居住していた。この土地の南側は秦嶺山脈と淮河、西側は黄河蒸留と六盤山脈、北側は黄河中流と燕山山脈が組み合わさって一直線になっている。東側は、泰沂山区(泰山山脈、沂山山脈)と東海(山東省沿海)海岸である。この土地の総面積はおおよそ50万平方キロメートル、主要部は東部の黄淮海平原と西部の黄土高原である。土地の周囲は連綿不断の山脈に取り囲まれている。

黄帝の活動範囲に比べて、『山海経』が記録する地理範囲はずっと広い。南東は会稽、現在の浙江省南東部の武夷山区まで、南西は邛崃(きょうらい)市までで、終点は岷江源流の大雪山。北西は青海省西部の崑崙山脈と新疆中部の天山山脈に至る。東は山東省の泰山に至り、北部は内モンゴル自治区中部の陰山山脈をひと跨ぎしてシベリアに至る。

『山海経』は全部で31,000字余り。山勢を描写する『五蔵山経』は3分の2を占めるが、「五蔵」という名を持った所以は、天下を東西南北中に分けると、五つの独立した区域になっていることである。

この『山海経』の著者の胸中(きょうちゅう)では、現在の河南省北西部、洛陽付近の地域が「世界の中心であった」。そのため、「中山経」に対するこの区域の描写は決まって最も詳細で正確であった。洛陽の周囲は、西山経、南山経、東山経、北山経である。

作者の目では、サン脈は大陸の骨格で、大陸の四方は海水に囲まれている。四方の海の外側はまた陸地と国家があり、遠く辺鄙な未開人の居住する場所でもある。要するに、「天下の名山は、合計5,370山で、周囲64,560里(37,000キロメートル)」である。『山海経・五蔵山経』の作者が嘗て到達した地域差は、東は大海に至り、西は流沙を極め、南北は可能な限り遠くまで、この区域の山なみには、前部で460やも、有名な河川は、260本あった。

嘗て現代ある治療学者は、『山海経・五蔵山経』に記録された山々と河川に基づいて、書中に注釈された里程絵図を現在の山、水分布図と対照したが、著者の描写がかなり正確だったことを発見した。漢水以西、済水以東、長江以南と太行山脈以北については、著者はあまり熟知せずに、記載された山河の数は比較的少なく、曖昧でもある。

区域範疇 中山経 西山経 北山経 南山と 

                 東山経

山峦数目 208         78            88          約86

河川数目 84           56            79          約41

区域範疇 総計

山峦数目 約460

河川数目 約260

現代の地理学者たちは、『山海経』を取り巻く四千年前には、地形を測量する遠隔探査衛星もなく、飛行機の空撮写真もなかったが、古代人は自分の両足に頼って、また定規や、巻き尺などの簡素な工具を加えて、中国の山脈の方向と分布状況を科学的に総括し、整然と叙述していることに驚いている。

山脈は、起伏の連続で、眼に見える峰々の系統を指す。甲骨文の「山」   (            ) は、孤立した峰ではなく、遥かに見える起伏の連続の峰々を線描(せんびょう)したもので、三つの峰で「山脈」を描写しているか。金文の「山」       は甲骨文字体が継承されています。篆書の「山」   は峰の形象が保留されています。隷書の山は    を書く。『説文解字』の解釈は、山は、宜しく地気を発す。高山は地の気を、うまく発生して、司法に発散し、万物の生育を促成し、岸壁で高く聳えるものである。高山が連綿する姿を象徴している。山脈を示す、迫真的な図画である。『山海経』の描写を根拠にすると、中国の山脈は西北から東南に至る、4系統に分けられる。

第一の山脈は、黄河の北岸に位置する。天山に始まり、隴東と陝西省北部の渭水の北岸に沿って黄土高原を横に貫き、壺口から黄河を飛び越え、太岳、砥柱、王屋、太行に到り、北に向かい、恒山に到り直線で東に向かい、碣石山から海に入る。

中国の歴史書で最も古く、描写の多い山脈は太行山である。それは北京の西北を起点として、北から南へ向かい黄土高原の東縁をに横たわり、河南省と、山西省の境界で王屋山に合流する。山脈は南北に長さ400キロメートル余り、標高の平均は1,500〜2000mで、主峰は小五台山で海抜2,882メートルである。地質学者は、太行山の東は、一万年前には大海で、北京、天津などの都市が所在する地域は、当時はみな海底であった。西暦1074年に、北宋の科学者沈括は命令奉り北方の宋、遼の辺境防衛線を視察し、太行山の東斜面に一本の長い貝殻堤を見ている:

私は華北に使者として、太行山に沿って北上すると、山崖に、所々巻貝やカラスガイの貝殻と卵のような石ころが、岸壁に横たわって帯のようであった。これは昔の海浜であるが、現在では海から千里も離れている。いわゆる大陸ではどの濁流(だくりゅう)も隠滅している。およそ、漳水、滹沱(こだ)河、涿水、桑乾河などの大河は、みな抱く龍である。今の関陝以西(陝西省)でも河水は、百尺余り(35メートル)も地面を削って流れているか。その泥は長年逗留して、「当時の海に注いで)全て大陸軍の土屋となったが、この理屈は必然的なものであった。

陸、甲骨文の「陸」    の左は「阜」   で、山の石段で、登山を表す。右側の二つの「六」   は「喬(高い)」   ではなく、「盧(草屋)」   である。「」は茅葺(かやぶき)の屋根を表しており、造字の本義は、古代には大量の住居が山中に分布したこと。金文の「陸」   はこの字の下に「土」   を加えており、洪水が引いてから、濁流の砂泥が堆積して、新しい陸地を作ったことを表す。隷書の    は    が省略されています。隷書の陸は    を書く。人民の居住範囲もこれによって山中から平原へ拡大していった。『説文解字』には、高所で、平たく、開けた地形とある。


太行山脈

太行山より東は、唐代以前は「山東」と言った。唐代の詩人王維の『九月九日に山東の兄弟を憶う』詩に、「独り異郷に在りて異客と為る、佳節に逢う事に倍親を思う。遥かに知る兄弟高きに登る処、遍く茱萸(ぐみ)を挿して一人を少なくを。」という。詩中の「高きに登る処」とは、河南省修武県の雲台山である。雲台山の主峰は「茱萸峰」と言い、太行山の奥地に位置する。この山頂はゴシュユ(カラスサンショウ)が蔓延(はびこる)っている。16世紀に南米産の唐辛子(とうがらし)が中国に伝来する前には、この木の葉は中国の主要な香辛料であった。

太行山は、東の華北平野と西の山西高原(黄土高原の最東端)の間に、北東から南西へ400kmに渡り伸びる山脈です。太行山以東は平均高度の1,000mの黄土高原である。太行山の平均標高は1500mで、山勢は非常に険しく、至る所に垂直高度数百メートルの絶壁があります。戦乱が起こるたびに、太行山は華北平野の戦火が山西省へ広がないように阻んでくれました。

そのため、山西省は戦乱時代に難民たちの避難所となりました。太行山は南北に800km以上も長く、華北平野と黄土高原の間の交通要衝である8つの狭い峡谷しかありませんでした。これらを「太行八陘」と呼びました。有名な関口には紫荊関(シケイカン)、平型関(へいけいかん)、娘子関(ジョウシカン)などがあります。これらの関口は「一人が守れば万人も通れない」と言われるほど形勢が険しいものでした。

金文「防」    は、高い山や危険な場所(阜)    、国境を守る者(方)、土を固めて作った城壁(土)      から成り立っています。造字の本義は:国境に危険な場所を利用して関を作り、外敵の侵入を防いで領土主権を守ることです。

太行山脈の最北端は、張家口付近の野狐嶺(やこれい)である。民国時代の文学家王国維が校註した道教の大家丘處機の旅遊記『長春真人西遊記』に、

「北のかた野狐嶺に渡り、高きに登り南望し、伏して太行諸山を視れば、青嵐愛しむべし。北のかた但だ寒煙衰草を顧みれば、中原の風、此れ自り隔絶せり。」

野狐嶺以西は内モンゴルの陰山山脈である。この山脈は黄河の「几」の字形の北岸に横たわる。即ち河套の北、延々600km、海抜1,000〜2,000メートルの間である。ここに農耕民と遊牧民族の自然分界線がある。陰山山脈の北は、雨量が希少な上に風砂が浸食して、食料となる植物を栽培する方法がないので、麓にへばりついた武川県でやっとジャガイモを生産できるだけである。昔から農民が駐屯開墾するのは陰山山脈の南に限定されている。彼らが最も希望するのは、遊牧民族がここに来て歩みを止め、「牧馬」の名目で南下掠奪しようとしないことである。そこで唐朝の詩人王昌齢は『出塞』を書いた。

秦時の明月漢の関、万里の長征人未だ還らず。但だ龍城の飛将をして在らしめば、胡馬をして陰山を渡らしめず。」この歌は将軍たちを偉大な功績を挙げた理想的標準として称揚している。


崑崙山山脈

第二の山脈は、天山以南の、黄河南岸に位置する。崑崙山を起点として、祁連山山脈を経て渭水の水源鳥鼠山に達し、その後秦嶺に沿って華山、崤山に到り、また熊耳山から東南に折れて向かい、豫西の伏牛山を経て、桐柏山から嵩山に到り、最後は魯南の泰沂山地に転入して止まる。

崑崙山の西の起点はパミール高原である。世界最高の山脈たちで、ヒマラヤ山、崑崙山、天山、ヒンドゥークシュ山脈は、全てここから生まれている。この四つの巨大な山脈は膨大な山系の宗主(そうしゅ)であり、祖先を示している。

篆書の「崇」     は山      と宗      の組み合わせで、造字の本義は、山の祖宗で、山系の最高に聳え立つ山脈を比喩している。パミール高原は、アジア大陸の「万山の祖宗」である。

崑崙山は2,500キロメートルも連綿とし、平均海抜の高さは5,000〜7,000の間にある。崑崙山の北側は、僅かな海抜1,000メートルのタリム盆地があり、南側はヒマラヤ山脈と横断する山脈とともに、「世界の屋根骨」のチベット高原を形成している。

ヒマラヤ山脈は弓型に中国とインド、ネパールなどの辺境に分布し、2,400千メートル連綿し、平均海抜は6,000メートルで、世界最大、最も雄大な山脈である。主峰のチョモランマ(エベレスト山)は海抜8,844メートルで、世界最高峰である。ヒマラヤは中国とインドの間の交通を隔離してきた。18世紀にイギリスがインドを征服してから、インドを基地として野心満々と中国のチベットを占領しようと企んでいたが、ヒマラヤの危険な山岳路と希薄(きはく)な空気に阻まれ、ニの足を踏むしかなかった。

崑崙山は中国神話最古の神仙の山である。神話では、山上に仙術最強の美形の仙女がいて、名を西王母と言い、後に玉皇大帝と結ばれ、皇太后なったという。紀元前20世紀に、彼女は不老不死の仙薬を夏王朝の勇士后羿に贈呈したが、後に后羿の妻にに飲まれてしまった。そこで(妻の)嫦娥は仙女となって静かな月宮に舞い上がった。彼女と日夜相伴して、ただひたすら石臼に向かって薬をついた玉兎であった。

1969年、アメリカの「アポロ」号宇宙船が初めて月に到着した時、宇宙管制センターの人員は宇宙飛行士に「月についたら、そこに4,000年余り住んでいる、美しい中国の娘を見つけなさい。その反面が彼女のバックには一匹の大きな白兎が一緒だ。」と言い始めたという。伝説では紀元前10世紀に、周朝の第五代国王周穆王も彼の「運転士」造父が八匹立の神馬の引く馬車に乗って、当時の首都鎬京を出発して、一夜にして3,000キロメートルを飛んで崑崙山に到着し、西王母と出会ったという。


祁連山山脈

祁連山は新疆玉門関と甘粛省蘭州が出会う所まで、1,000キロメートル連綿とし、平均海抜は4,000メートル以上。紀元前3世紀から、祁連山に居住した勇敢な匈奴人は、ここの原住民「大月氏」を追い出しただけでなく、大月氏の首領の頭を切り落として、その頭蓋骨で酒を振る舞ったという。匈奴が住んでいた山北一帯は、水と草が豊かで、河西走廊と称され匈奴の人には最も肥沃な冬季の牧場であった。甘粛省永昌県の胭脂山は祁連山群峰の一つに属し、高級化粧品の水白粉や臙脂紅を産出する。紀元前2世紀に、前漢の名将霍去病は匈奴人を打ち破り、河西走廊を略取したが、匈奴人は、「我が胭脂山を奪い、我が婦女に顔色無からしむ。我が祁連山を失い、我が六畜を養息せざらしむ。」と悲しみを歌った。匈奴の汗国は衰退に転向した。


秦嶺山脈

秦嶺山脈は古都西安の南で、渭河と平行に横たわる。秦嶺の主脈は東西700キロメートル、平均標高2,500メートル、主峰太行山の海抜は3,767メートル。秦嶺の東端は淮河の源流と相呼応し、連なって中国の南北気候境界を形成する。秦嶺、淮河以北は降水が少なく、農民は畑を耕し、小麦を食べる。古人は一言で両者の区別を概括するのに、「鉄馬に秋風が塞北、あんず花に春雨が江南」を用いた。


秦嶺古桟道

秦嶺山脈の北斜面は万仭の壁となって屹立していて、山深いところから危険な現象が次々と起こる。李白は「蜀への道、天に昇るよりも難し」と詠嘆した。秦嶺の奥深くで、古代中国でもっとも有名な「桟道」工事が行われた。断崖絶壁の上に穴を穿っ(うがつ)て棒を差し込み、木板を敷いて、山脈を通り抜ける道路を作る工事であった。20世紀60年代に宝鶏から成都への鉄道が開通する前、桟道は四川から山西に抜ける交通の要路だった。前漢の名将韓信の「明らかに桟道を修め、暗(ひそか)に陳倉に渡る。」三国時代諸葛亮の「中原を北伐する祁山に出ること六度(たび)」の故事は、どちらも秦嶺桟道を故事の背景としている。

長安城の南の秦嶺山脈中部には、終南山があり、また太乙山、周南山と言い、南山とも略す。対聯の詩句の「福は東海の長流水の如く、寿は南山の不老松に比す。」の南山は、ここを指している。終南山は中国道教の発祥地の一つで、それは陝西眉県に起こり、東は陝西の藍田に至り、もとより「仙都」や「洞天の冠」「天下第一の福地」の美称がある。また詩歌の『終南山』がある。唐代の詩人賈島の『隠者を訪ねて遇せず』の物語が終南山が舞台である。「松下に童子に問う、師は采薬に行く。只だ此の山中に在りて、雲深く知らざる処なり。」

秦嶺山脈と黄河の合流点は、崤山である。中国の地形は西高東低で、三段階になっている。最高で一番なのは青海チベット高原であり、第二段は内モンゴルの高原で、黄土高原、関中盆地、四川盆地と雲貴高原であり、第三段階は東北平原、華北平原、長江の中・下流の平原である。「関中」の語源は、崤山の函谷関にある。函谷関は大変狭く、荷車は交替できず馬も並列できないほどであった。

2,500年前、東周の国家図書館の館長で、哲学の大家李耳(老子)は、大青牛に乗って道教を伝えに西に向かったが、関所の役人尹喜に心尽くしの歓待を受け、彼に著作を残すよう求められた。そこで、老子は5,000字余りの道教の経典『道徳経』を書き残し、飄然と去って行った。後漢になると道教が興隆し、老子を祖師爺として奉った。ある道教の大家の話によれば、老子は西遊してから、「一気に三清と化し」変化して「太清」の太上老君(道徳天尊=老子)、「玉清」の元始天尊(大元)、「上清」の通天教主(霊宝天尊=道)となった。しかし厳粛の神話学者の意見では、この時間には少々矛盾があり、3,000年前に戦乱と封神を行ったのは元始天尊の学生姜子牙(太公望)であった。その時代は、老子が生まれる500年も前であった。

巴山山脈

第三の山脈は、漢水右岸に位置する。陝西省南部の大巴山を始まりとして、荊山(巫山)に沿って鄂西(湖北西部)神農架に到り、その後漢水を超え大巴山に到る。大巴山と秦嶺の間に、大きくもない漢中平野がある。ここは漢水の上流で、また漢語、漢字、漢王朝の発祥の地である。巴山山脈の最重要の関所で、歴史的に「天下一の関」と呼ばれる剣門関である。まだ火薬兵器の無かった頃、ここは超えられない天下の険であった。

巫山は古くは「荊山」と言い、ここの原住民が楚の人であり、古くは「荊蛮」と称していたためである。巫山には神女がいて、嘗て楚王と恋仲となったと言う。1956年、毛沢東はここで『水調歌頭・遊泳』という詞を書き、「一橋南北に飛架し、天塹(渓谷)は通途に変わる。更に西江の石壁に立てば、巫山の雲雨を截断し、高峽平湖に出ず。神女応に恙がなくすべく、当に世界の殊にすべし」と偉大な計画を出している。」50年後、願いは現実と化している。現在の長江は、既に十数本の渡河の大橋が建設されている。長江三峡も世界最大の水利発電所が建設された。孫文の言葉を借りれば、この発電所の完成には、「中国人民のために働く24億人の労働者に相当する。」という。

河南、安徽、湖北三省の境界にある大別山は、事実上秦嶺山脈の延長である。ここで山峰、台地、渓谷が入り組み、淮河と長江の間に横たわる。春秋時代が始まってから、ここは中原に鹿を逐うの兵家必争の地であった。

北方遊牧民が華北平原に侵入する時、大別山は農耕民族の江北最後の防衛戦であった。この山脈が越えればこそ、蛮族の鉄騎は長驅直入し、長江の辺(ほとり)で馬に水を飲ませる(=江南を蹂躙する)ことができた。東晋十六国の大分裂時代、前秦の苻堅は嘗て大別山の淝水の戦いでの遭遇戦で惨敗を喫したしたが、「風聲鶴唳 草木皆兵」の活劇が演じられた。金国と南宋が対抗した時代、長江の南に退却した南宋王朝は、大別山を頼って抗金前線とした。解放戦争の期間、劉伯承、鄧小平率いる「劉鄧大軍」は1947年に大別山に千里躍進し、解放軍戦略反攻一番槍の勝ち鬨を響かせた。


岷山山脈


南嶺山脈

第四の山脈は、岷江以西、長江以南に位置する。積雪千年変化せずの岷江を起点に、邛崃山(きょうらいさん)、大凉山を経て横断山脈に転入し、雲南から長江上流の金沙江を横断、貴州の烏蒙山、湖南の雪峰山を経ると南嶺にはもうすぐである。

『山海経』の岷山に対する記述は、墨を金の如く謂うべしであって、「草木なし、冬夏雪あり!」と単刀直入である。岷山の足元では、戦国時代秦国の蜀郡太守李冰とその息子李二郎は、中国古代で最も成功した水利事業「都江堰」を建設した。中国古代には、故宮、長城、都江堰、大運河と四大事業がある。都江堰完成後、一千万畝(666.7平方キロメートル)もの多収量耕地の灌漑が可能になった。千秋万歳福をもたらす都江堰の造営があって、四川盆地はとりわけ恵まれた「天府の国」となった。民間の伝説によると、李冰は玉皇大帝の妹を妻に娶り、息子を産んだ。幼名二郎、渾名は「二郎神」である。二郎神は神通力が広範で、七十三変でき、孫悟空に比べて一変多かった上に、とても有能な弟分が7人いて、無敵の7人組を成した。この一党の地位は特別高く、玉皇大帝との関係は「宣を聴けど調を聴かず」であった。おじさんたる玉皇大帝は、孫悟空に対処するために、外孫たる彼に助けを求めても良いが、指揮したり、動員をかけたりする権利はないというような困難な役割を必要とした。こんな生意気な息子がいたからこそ、李太守の水利事業竣工は朝飯前であったのだ。

中国南西の山脈に対する『山海経』の記述は模糊(もこ)としているが、これは驚くに当たらない。20世紀の30年代に至るまで、この路線が言及する地域は、依然として人跡稀な荒れ山と危険な川だったからである。雪山と草地の道がすこぶる進みにくいので、敵も来ようとは思わず、実際来なかったことは辻褄(つじつま)が合う。紅軍二万五千里の長征となった所以である。毛沢東の『七律・長征』は上手く、「紅軍遠征難きを怖れず、万水千山ただ等闲。五嶺逶迤に細浪を騰こし、烏蒙磅礡として泥丸を走らす。金沙水拍ち雲崖暖かく、大渡す橋は鉄索寒く横たわる。更に喜ばしきは岷山千里の雪、三軍走り過ぎるに尽(ことごと)と顔を開(ほころ)ばす」と書いている。この山脈と紅軍長征行路の重なり具合は、民間の風水学者の解釈によると、「長征で通過したのは本物の龍脉であり、紅軍は千辛万苦の経歴の末やって来て、二次世界大戦の最前線に身を投げた。これは国にとって、国民にとって壮挙である。威武の師である。古より民心を得るは天下を得るなり」とのことである。

南嶺の「五嶺」と呼ばれる所以は、祁連山にも秦嶺にも似ていれず、東から西まで欠けたところのない大山脈だからである。南嶺には相互に独立した山脈が五つあり、湖南、江西と広西、広東の四省が境界を接する所に、西から東へと断続的に連綿1,000kmに渡って上弦の新月のように順を追って並ぶ。南嶺西端の山脈は広西の越城嶺(えつじょうれい)であり、西から東に、湖南の都龐嶺(とほうれい)、萌諸嶺(ほうしょれい)、騎田嶺(きでんれい)の順に並び、東端は江西の大庾嶺(だいゆれい)である。それらの山脈は紊乱(びんらん)に向かう山系を形成し、長江流域と珠江流域の間の境界石碑であり、中国南嶺地域と長江流域の間の境界石碑であり、中国南嶺地域と長江流域の間の最大交通障碍(しょうがい)となってもいる。秦の始皇帝は30万の大軍を派遣して南征させ、更には大庾嶺上に「梅関」という名の山道を開削し、越城嶺に著名な水利施設事業「霊渠」を築いて湘江を漓江と繋げた。これにより、長江流域の船舶が漓江で西江に進入し、直接南海の珠江口に達せるようになった。

古代中国の探検者達が作り出した「山」という字は、群山の連綿と起伏のある典型的特徴をしっかり捉えている。衆峰相連なり、秩序正しく並ぶー群の山峰。故に、ここの山、一列の山脈を指す、というわけである。

「夆」は「鋒」の本字で、本来刃物の切っ先を表した。篆書の刃先「夆」     の上に「山」を加えて、「峯(峰)」が作られた。造字の本義は、刃先同様の高く聳えた山頂を比喩している。聳え立った雪山の頂上で、青空を突き指すような尖った(とがる)峰が、雪山で最高に美しい所である。


大雪山の尖峰

篆書の「崔」は高山と飛ぶ鳥の「隹」の組み合わせである。造字の本義は、山の峰があまりに高く、飛ぶ鳥だけがようやく山頂に到達できること。山西の朔州には、高山の頂上に雁門関がある。渡り鳥の季節は、往々にしてマガンが関所の門洞を飛んで行く。この雁門関を俯瞰する峰が「崔」である。

江南の丘

甲骨文の「丘」   、  、  は孤立した峰が呼応する二つの小山で、周囲が隆起して中央がくぼんでいる地形を表す。金文の「丘」は     、  を書く。甲骨文と比べて、西周の大篆(籀文、ちゅうぶん)の「丘」はやはり二つの峰が連続する小山を表しているが、山頂が風雨を受けて、山容は丸く緩やかとなり、「丘陵」の特徴が明確となっている。

岳は、山脈の中の特殊な峰を指す。甲骨文の「岳」の字は、下に山があり、高山の上にまた峰がある様子で、崇山峻嶺、重なる山々、山また山を表す。大篆「岳」の「山」は連綿と続く丘陵を背景した、山脈の峰々の中の独立した高い主峰を示す。遠古の先住民は一個の山を描いて「山」を表し、二個の山を描いて「丘」を表し、三個の山で「岳」を示した。考えれば高山頂上には雲霧があるので、古文の岳は「丘」と「山」の間には空白があり山頂が雲間に覆われていることを暗示している。

中国の歴史上には五つの重要な山岳、東岳泰山、西岳華山、北岳恒山、南岳衡山、中岳嵩山があり、五岳と称した。

神話では五岳は巨人盤古の頭部と手足四肢の変化したものである。四時熟語の開天闢地(天地開闢)は『隋書・音楽志』の「開天闢地、峻岳夷海(山海に天地を開く)」から出て、前人未到の大事業を譬えている。この熟語は晋時代の徐整の『三五歴記』の「天地混沌として鶏子(卵)の如く、盤古其の中に生まれ、万八千歳にして、天地開闢し、陽清を天と為し、陰濁を地と為し、盤古其の中に在り。」に由来する:天地開闢の前、宇宙は混沌とした一団の気体に過ぎなかったと言われる。中には光がなく、音がなかった。この時、盤古氏が出現し、大斧でこの一団の気体を割った。軽い気体は浮かんでいって天となり、重い気体は沈んでいって地となった。以後、毎日天は一丈高くなり、地は毎日一丈厚みを加えた。盤古自身は毎日一丈背が高くなった。このように一万八千年が過ぎると、天はとても高くなり、地はとても厚くなった。盤古氏は当然頂点に立つ巨人となった。その後盤古氏は死んだ。彼の目は太陽と月に変わり、身体は大地に変わり、毛髪は草木に変わった。盤古氏の頭部と四肢は、五岳に変わった。

泰山は古くは東岳と呼ばれ、山東省泰安市に位置する。伝説では、この山岳は盤古氏の頭部が変化してできたという。「五岳の首」と呼ばれる所以である。泰山の主峰玉皇頂は海抜1,524メートルである。この高さは確かに大したことはないが、周囲がそっくり平原なので、たちまち泰山を目立って特別突出な存在たらしめた。

泰山は中国古代の歴史上極めて重要な位置の役割を果たし、古典でも絶えず泰山に言及し、また初めから王室の最大の行事「封禅」の舞台を担当した。「封」は天を祭り、「禅」も地を祭祀である。儒者は、皇帝が天を祭る時、天の恵みを受けるために、必ず泰山の最高頂点に至る必要があった。古代の帝王にとって最も嬉しく、最も光栄なことは、国家泰平と人民の平安を、泰山に報告することに勝るものはなかった。泰山のふもとの岱廟は歴代の皇帝が儀式を挙行し、泰山神と祭祀し居住する場所であり、これと北京の故宮、曲阜の孔廟は共に中国の三大宮殿建築群であった。

泰山での封禅の儀式は大変厳粛な様子で、複雑を極めた儀式であったが、荘重な儀式の目的は、皇帝がこの儀式で彼の意向を示すことに在った。祭祀の後に、皇帝は、大いに官を封じて、皇恩を広く示した。泰山には丈人峰があり、唐代玄宗の開元年間に、ある徳も才能もない小役人が特に三位の官に昇給し、同僚を大変驚かすことがあった。ある事情通が「これは、丈人(妻の父親)のお陰なのだ。」と秘密を洩らした。この犬のくそを踏んだように運の付いた男には裏事情があった。彼の義父は、皇帝身辺の大書記官の「泰山封禅使」であり密かに報酬名簿に加えて、挙手の労を省いたのであった。この原因によって、中国の古今東西の義父達が泰山の栄光に染まって、威風堂々とした「岳父(妻の父)」に収まっているのである。

中岳嵩山は河南省登封市に位置し、  高さ1,440メートル、主峰は三座あり、中峰は峻極峰、東峰は太室山、西峰は少室山である。商王の卜辞に「年(みのり)を河に求む」の記載があり、また「年を岳に求む」の記載もある。河は黄河を指し、岳は中岳嵩山を指し、みな殷商王朝の聖地の所在地である。そのため商王は黄河と嵩山に農業の豊作を祈願した。


嵩山

嵩山の名勝と古跡は大変多く、中でも有名なのは少室山の麓には武僧が集まる、少林寺という寺院がある。伝説では南北朝時代に、インドの王子の出身の高僧達摩が嵩山少林寺に到来し、天下に有名な少林拳法を創始したという。紀元6世紀、達摩は少室山のある石壁に向かって、9年間瞑想して座禅した。達摩祖師がなくなっても、彼の影姿が石壁の上に写っている。周恩来が少年の時に嘗て「面壁」の典故を引用して、「大江 東のかたさり東へ掉頭(振り返る)す、邃密なる群科世の窮まるを済う。面壁十年 壁を破らんと図り、酬い難し海を踏むも亦た英雄。」と気概高邁な詩を書いた。しかし嵩山と少林寺を全国的に有名にしたのは、やはり映画の『少林寺』と武俠(武術と義理の人)小説の宣伝である。武俠小説で、少林寺の和尚と武当山の道士は武術界人物の代表である。少林寺武僧の拳法は神業の域に達しており、「天下の武功は少林に出る」と称されている。


華山

西岳華山は陝西省華陰市に位置し、高さ1,997メートルである。中峰蓮花峰、東峰仙人掌峰、西峰落雁峰である。他に、例えば雲台峰、公主峰、毛女峰などの無数の小峰があり、「諸峰は子や孫のように並んで」、咲き乱れる蓮華の花びらのようである。

「華」は甲骨文は       と書き、花が枝に満開の様子を象る。後に花の枝が変形して、 「 」と 「 」書いた。篆書の華は     、  を書く。隷書の華は    を書く。楷書の華は    、  を書く。華の本来の意味は樹木に花が咲くことで、「華而不実(華咲くも実らず=見掛け倒し)」「春華秋実(花に花が咲き、秋に実がなります。学習の成果、文徳)」などの四字熟語によく使われます。その後、「華」字は牡丹の花の美しさを「雍容華貴(ゆったりとして気品がある)」、灯火の輝きを「華燈初上(灯りの点るたそがれ)」、世間に並ぶもののないような、女性の容姿や風格が極めて優れている場合には、「風華絶代(絶世の美女)」と言います。

西岳華山は峻険で雄大であり、「華山天下雄」「自古華山一条路」と言われています。その山容は、人々を圧倒させます。『山海経・西山経』は、僅かな筆数で、華山の壁が千仞も立ち上がっているという最も重要な特徴を果敢に描写し、華山の地理的な様子を形象的に表現しています。「太華之山、削成四方、其高五千仞、其廣十里、鳥獸莫居。という文言があります。

9世紀に、唐代の文豪韓愈は勇気を鼓舞して華山の蒼龍峰に登ったが、来た道を振り返ると、鳥しか通わない山道が空に懸かり、めまいがして、降りる勇気もないことに気がついて、山上で死んでしまうしかないと、大声で泣き叫ぶばかりであった。その後、華陰県の役人は酒壜を人に背負わせて山に登り、韓愈を酔わせて、縄で彼を縛って峰から一段一段吊るし下げた。

韓愈の下山のこの様子は、篆書の「峻」の描写を充分表現している。山頂の「山」と、高山の「阜」、また幼児が歩みを学ぶよちよちとした動作の「夋」の組み合わせである。造字の本義は、山が高く険しく、登ることが難しいので、ゆっくりつかまりながら這い上るしかないこと。韓愈は酔わされ吊るされ降りたので、「峻」以上にさんざんであった。

商周時代には、帝王の祭天は、泰山ではなく、通常は華山が選ばれた。古文献には、紀元前1766年、商朝の開国王の商湯王は華山に至り天を祭った。600年余り後、見込みのない子孫の商紂王が国土を失ってから、周王朝の創始者姬発(武王)も華山に来て天を祭った。その後、姬発は首都鎬京に戻り、「刀槍を庫に入れ、馬を南山に放す」ことを宣言し、天下太平を示した。姬発後馬を放った「南山」は、秦嶺の終南山を指す。


天峰嶺

北岳恒山は山西省渾源郡に位置し、海抜は2,017メートル。主峰の天峰嶺は、飛びたいと思って羽ばたく大鷹(おおたか)に似ている。北岳恒山は、仏教の「文殊菩薩」がお出ましになる五台山から遠くなく、廟宇は山中に広く散らばっているが、ここの最も奇異な観光スポットは、北朝の時に建てられた懸空寺である。懸空寺は30メートルの断崖絶壁の上に建立されたが、道教八仙の一人呂洞賓(どうひん)が嘗て此処で琴を弾き、碁を打ったと言われる。八仙のもう一人張果老も嘗て此処で隠棲修錬した。


衡山

南岳衡山は湖南省衡陽に位置し、海抜は1,290メートル。海抜は高くはないが、山勢は延々と続いて複雑怪奇、72の巨峰が入り乱れて分布し、見るからに気勢非凡である。衡山の主峰は古代火神に因んで命名された祝融峰(しゅくゆうほう)であり、他に紫蓋峰(しがいほう)、雲密峰(うんみつほう)、石廪峰(せきりんほう)、天柱峰(てんちゅうほう)もある。72峰中最も南の峰は回雁峰(かいがんほう)という名である。秋に北の雁が南に飛んだが、此処に至って終わりとしてまい、南に向かうのを再開しはなかった。詩人が最も好む詩才による呼称である。衡山は寺院が最多であるが、祝融峰下の最も古い上封寺は、道教聖地の一つ。衡山麓の南岳廟は、9,800平方メートルの面積を占め、五岳寺廟の中で規模の最大、全体的な配置が最も完成度の高い古建築群である。

この南岳衡山は7世紀以後の産物であり、7世紀以前の衡山は、湖南ではなく安徽にあった。安徽省霍山県の天柱山は、海抜1,774メートルで、大別山脈に属する。秦始皇帝が嶺南に向かって大幅に広がった。天柱山は、商周年代には辺境だったものの、もう中原内地と化してしまい、「南岳」の資格を失っていた。このため隋煬帝は、「南岳」の名を600キロメートルあまり南に引っ越し、現在の位置に移すよう命令した。従って、中国史前半の南岳と衡山が指すのは、どちらも安徽省霍山の天柱山である。

唐朝の詩仙李白には、「天下名山、僧多くを占むる」という詩がある。「どこに行っても和尚が出現し、寺院が出現する」という意味である。言下の意味は、「この僅かな出家者が天下の名山である好風景を占領してしまっているが、出家者以外はどう過ごしたら良いのか?」。

中国の四大仏教名山は、山西五台山、四川峨眉山、安徽九華山、浙江普沱山である。浙江省にある普沱山は、中国の四大仏教名山の一つである。仏教の伝説化によると、普沱山は観音菩薩が経典を講釈した地方だそうである。九華山は安徽省地内に在り、地蔵菩薩の道場である。峨眉山は四川地内に在り、普賢菩薩が伝道した場所と伝えられ、山上の寺院の殆どが普賢菩薩を供養している。五台山は山西省地内に位置し、中国の四大仏教名山の一つで、文殊菩薩の道場である。

しかし現実の風景は神仏に奪われて、文字さえも例外ではない。山と関係ある漢字の部首は「山」意外にも、「阜」がある。およそ文字の左にある「阝」はこの「阜」の字を来源としている。甲骨文では、「阜」は神霊が上下する梯子(梯子)である。

甲骨文の「阜」には、 「 」 「 」二種の書き方があるが、全て高山に登る石段(   、  )を象っている。『説文解字』に、阜 「 」は、石の無い大きな土山である。 「 」は、何層も連なり、続く石段を示している。造字の本義は、一歩一歩登るつづら折りの道である。篆書の「阜」   は          の組み合わせたものである。隷書の    は          の組み合わせたものである。

天帝と疎通する関連の文字には、阿、陰(隂)、陽、陟、降、除、隱、際、隙、隔、限、陋、隊、墜、防、陳、隘、陵等が含まれる。神に幸福を請う卜占儀式と密接な関連があるので、この系列の文字は、甲骨文の中では出現率が相当に高い。

陰(隂)、陽の本義は、もともと光明と暗黒を表している。甲骨文の「陽」    は山地    「阜」と日光の照射「昜」   の組み合わせである。造字の本義は、山間の光り輝く陽光を受ける南斜面である。『説文解字』の解釈は、「陽は、高く亮(あか)るい。」である。金文の    は    (光影)➕    (陽光照射)  (阜)の組み合わせたものである。篆書の「陽」    は金文の字形が継承されています。隷書の   、楷書の    は篆書の字形が継承されています。

「侌」は「陰」の本字であり、「陽」と相対するのが「陰」である。甲骨文字の形は 「 」である。上半部の  「 」は今で、「含」であり、包含を表す。下半部の 「 」、層雲の形象であり、「遮蔽」を表す。籀文の「侌」は    を書く。篆書の「侌」    は甲骨文字体が継承されています。ある金文の    は    を加えて陰を作りました。篆書の    は金文の字形が継承されています。隷書の陰 は    を書く。 は造字の本義は、天空に雲が多く、陽光がないことである。陰坡(日陰斜面)とは、川の南側、山の北側であり、陽坡(日向け斜面)は川の北側、山の南側である。

甲骨文の卜辞で、陰と陽は常に神の梯子の前で招魂を進行する儀式を表し、それらが代表する意味は大変広範で、使用する場所も特別多い。自然界では、男が陽であり、女が陰である。気質性格では、剛直なのが陽であり、柔軟なのが陰である。他の意義も色々ある:

陽  太陽 光明 熱 干 乾 左 上 奇 水 北 山南  主動

陰  月亮 黑暗 冷 湿 坤 右 下 偶 水 南 山北  被動

古代人は登山での感嘆を「阿」と言い、川での感嘆を「呵」と言い、共に感嘆の声を表した。

阿は啊の本字であり、甲骨文の字形     は三つの部分の組成で、左上の「  」は阜であり、大山を表す。右上の「」は、感嘆を表す。下部は土で、土地を表す。造字の本義は人々が高山に登り感嘆し、ヤッホーと言うこと。「阿」が「登山の感嘆」の本意を焼失してから、「口」を加えて「啊」を作り、「啊(ああ)、なんて高い山だ」などと代替した。

陵、甲骨文の「陵」はつづら折りの石段「阜」、山を歩いて登る人「大」、進行すること「止」の組み合わせである。増長の本紀は、階段を上がって、高山に登ることである。

古代人は常に「陵」で、「墳墓」を表したが、帝王の墳墓は大変高大であったので、直接「陵」と呼んでいた。しかしはるか昔の、古代人の送葬の方法は墓を掘って埋葬する土葬ではなく、懸崖から投げ落としたので、「拋葬(ほうそう=風葬)」と呼んだ。

甲骨文では、遺体を深い谷に投げ捨てることを「壑」と呼んでいました。戦国時代には、ある「水利の専門家」が、自分は大した才能を持っていると自称しましたが、孟子の一言であっさりと打ち砕かれました。「隣を壑とすることで、治水になるとでも思っているのか?」と。

甲骨文では、遺体を深い谷に投げ捨てることを「隊(墜)」と呼んでいました。「隊」は「墜」の本字です。「隊」は、甲骨文「隊」    は 「 」と   「古(上下逆さまの子)を組み合わせである。山から転落した赤ちゃんを表しています。ある甲骨文「隊」    また、左側「人」   が上下逆さまで、右側「阜(石段([山崖]を表している)」   の別の書き方もあり、大人も山から転落したことを表しています。造字の本義は、遠古の山岳民の葬儀儀式で、早逝した赤ちゃんや亡くなった大人を山から深い谷に投げ捨てるというものでした。

隊は、甲骨文は「墜」と同じで、字形の 「 」は頭を下に向け崖から墜落する人体の組み合わせで、拋葬を表す。「隊」の「拋葬」の本義が消失すると、金文「墜」   、  には     土を加えて「墜」を別造して代替した。ただし金文文字「墜」   の中の「人」は包まれ、縛られ(包まれた死体)を象り、古代後期に先住民たちは拋葬から土葬に発展し、金文の字形には「土」  を加えて、土葬の意味を強調している。造字の本義は、古代人は遺体を包み、縛っていたものを拋葬あるいは土葬に進展したこと。

「臽」は「陥」の本字である。「臽」は、甲骨文の「臽」は人「」を坑「」の中に落とすことである。造字の本義は、不注意で敵人や狩人が予め作った穴に落ちること。金文の「臽」は人「」に身体に一環の指事符号を加えており、人が穴に落ちると予め設けられた縄に自動的に縛られることを表している。金文の「臽」は同時に落とし穴「」を「臼」と書き、落とし穴に致命的な刺𣏾がたくさんあることを意味している。

「臽」単純な文字として使われると、篆書には「阜(石段)」を加えて「陥」を作り代替し、山野に掘削した敵陣を待ち受けたり野獣を捕捉する穴を用いた。『説文解字』に陥は高き処より阱坑に陥ること。

付    (          )とは、小さな土山を意味する本意であり、甲骨文では「附」の本字で書かれます。篆書の付は    を書く。『説文解字』によれば、「附」とは、附娄、小土山を意味するとされています。『春秋伝』には、「附娄には松柏が生えない」という記述があり、小さな土山には原始林のような大木は生えないことを意味しています。

「付」の本義は「物を別人に与えること」を表す。金文の「附」   は提出の「付」   と「臣」   の組み合わせである。「付」は大きく書いて、戦勝者が意気揚々と歩くことで、「臣」を小さく書くのは、敗戦者が頭を下げて臣下になったことを意味する。隷書 書の附は    を書く 。造字の本義は、敗戦者が土地を譲って賠償し、属国となって強国に臣下を称することである。篆書    は金文の「臣、臣服」    と「阜」   を代替して、石段の山道で、国土の範囲を示し、土地の割譲を強調している。

石、甲骨文の「石」   は懸崖「厂」   と崖下の石ころ「口」    の組み合わせである。石ころが崖の下のある様子で、四角の「口」は、石ころの象形である。金文の    、篆書の    は甲骨文字体が継承されています。ある  (石)    は    (禾)       の組み合わせたもので、古代穀物の重量標準を表示しています

磊、甲骨文の「磊」    の意味は多くの石ころが積み重なることである。

岩、甲骨文の「喦(岩)」   は山    に三つ(多くの意味)の石ころ     が一緒にあることを象る。篆書の    は甲骨文の字形が継承されています。篆書の    は         を組み合わせたものである。造字の本義は、山の表面のごつごつとした石塊を突出していること。

小、甲骨文 「 」及び 「 」はどれも三つの小さな点が一緒になり、「たくさんの小さな物」がある意味である。金文の    は甲骨文の字形が継承されています。造字の本義は、微細な砂粒で、物体が細かいことの特徴を指している。「小」の「砂粒」の本義が消失すると、篆書には「水」を加えて、「沙」を別造して代替した。

「小」と「少」は同源で、後に分化した。「少」、甲骨文「少」は指事文字「小(粒)」に更に一点指事符号を加えている。造字の本義は、規模が小さく、数量が多くないこと。

朋は、音符であり意符でもあり、連なりを示す。

崩は、大篆の「阜」と「朋」の組み合わせである。造字の本義は、山体が連鎖的に滑り落ちて、土石流を形成すること。古代の皇帝が亡くなることを「崩御」と言った。

礪、篆書の「礪」の左の偏旁は石ころ「石」であり、刀を研ぐ(とぐ)ことを表す。右側の偏旁「厲」は威力を顕示する文字で、本来崖下の毒蠍(さそり)を指している。「厲」字には「萬(万)」が含まれ、そこには一万尾の恐ろしい蠍が潜むことを表している。造字の本義は、十分鋭利に磨かれた刀は、威力が十分なこと。

礎、篆書の「礎」は「石」と「楚」の組み合わせである。「楚」は古代の地名であり、今日の湖北、湖南両省に相当する。古代人は家屋の基礎(夯土)のたたきを「基」を呼び、柱を支える石塊を「礎」と言った。礎の造字の本義は、古代に家屋を建設する時に、家の柱を支える石鼓の大石を使用したこと。

臼、金文の「臼」はU字形の石器で、内壁には歯型の溝が嵌め込まれて、臼突きする時の摩擦力を増加している。造字の本義は、穀物を臼突きする溝模様の付いた石器である。『説文解字』に、臼は舂づきの具である。古代人は地面を掘って臼としたが、後世の人々は木や石を穿って臼とした。