山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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大禹治水(あなたの最初の漢字教材甲骨文)

第二甲骨文:

水、泉、原、源、谷、川、州、洲、瀕、沮、淵、江、河、海、洋、洪、滔 濤 洛 淮 塗 由 油 沮 渉 溺 泅 永 泳 演 派 录 渌 沁 沖 冰 況 凖 淡 洗 浴 泡 湿 滋 浸 涵 潢 沈 沈

現代常用字:

冷 净 淒 涼 況 決 滅 次 漢 濟 沫 汝 注 治 澤 澡 液 浮 波 測 潮 滚 沿 湾 洗 消 洪 汗 滑 汇 活 激 流 湯 浪 満 沒 泥 漂 汽 清 深 湿 渴 温 混 法 治 沿 淹 湯 沃 濮 濯 泊 洒

中国最古の歌曲は、漢代の王充が『論衡・感虚』に記載した『撃壌歌』がある。 

およそ4,500年前、黄帝の曽孫唐堯が帝位を継承した。唐堯は「五帝」の代四番目の帝王で、堯帝と称すが、意味は「明るく良い気立ての君主」である。堯帝は当時の首都臨汾に中国最初の天文台を建立し、日月の位置を測定する人を派遣し、暦法を制定し、農業生産を指導した。堯帝の治世の前期、風雨は順調、国民は安泰で「小康の世」と呼ばれた。ある日、堯帝は郊外へ視察に行くと、道端で50才余りの年老いた農民が「撃壌」、つまり木槌でゆったりと泥太鼓を打ちつけていた。ある観衆は鋭く(するどい)、天子が来るのを見て、「大なるかな、堯の徳や。」と大声で叫んだ。意味は我々が今日のような素晴らしい日々を過ごせることは、偉大な堯帝が賜った恩徳のお陰であるということである。そしてその泥太鼓を打った老人は気にもかけず、「吾は日の出にして作し、日の入りて息む。井を鑿て飲み、田を耕して食らう、堯は何等の力か(堯帝にどれほどの力あるのか)」と高らかに歌った。我は自分で井戸を掘り種を捲き自分を養っているので、堯帝とどんな関係があるのかと彼は言っている。この歌の歌詞は農民の生活状況を反映し、成語の「鑿飲耕食(生活の安楽な事)」の由来である。

堯帝の在位の時間は大変長く、伝説では丸々100年であった。もし天帝の恵みと、風雨の順調であったのならば、現在の中国は「小国少民、鶏や犬の声もなく、死ぬまで交渉もない」状態であったままかもしれない。
しかしこの時、全世界で殆ど同時に恐るべき大災難、空前絶後の天を衝く大洪水が勃発した。当時地球の気候は急速に温暖化し、200万年余りの「氷河期」が突然収束したのである。地表の温暖化は北極海の大氷原を紛紛に溶かして、海水の膨張を引き起こし海水面の上昇を引き起こした。この未曽有の地球温暖化は地球全体の海水面を100メートル余り上昇し、世界的な大洪水を引き起こした。ある意味で、人類の歴史はこの大洪水の来訪から開始し、序幕が開かれた。全人類のほとんどの民族の上古の伝説は、「大洪水」を起源とし、かつ内容は驚くほど相似しており、ペリシャはもちろん、インドと、ギリシャ、北欧、或いは古代のロマ、メラネシアから、北極付近のエスキモー人に至るまで、全て「世界の終末」の大洪水伝説がある。
紀元前3500年のシュメールの粘土板には、洪水の時に「其の讓許は大変恐ろしく、風泊雨龍で恐ろしく唸り(うなる)、人々はみな命からがらで、何も顧みず、山に逃げた。誰もが戦争が始まったんだと思った⋯⋯」と記す。
ヨーロッパの『バチカン市国の羊皮紙古写本』には地球上には前後4代の人類が出現したと記す。最初の世代は巨人で、彼らは飢餓で滅んだ。第二世代の人類は巨大な洪水で滅んだ。第三代の人類は猿人で、彼らは互いに殺し合って消滅した。そのあとに第四代の人類が出現したが、「太陽と水」の段階の人類で、この段階の人類の文明は巨大な波が天にも迫る大洪水で滅んだ。
西アジアの『旧約聖書』の創成期篇には「ヤハウェ(エホバ)は人間が地上での罪悪の極大であることを見て、人間を地上に作ったことを後悔し、自分が作った人間と獣、昆虫や空の鳥を全て地上から消滅しようと考えた。自分は洪水を地上に氾濫させて、天下地上の血肉があり呼吸をしている行き物を、一匹たりとも生き残ることの無いように消滅させよう。」と記している。そこで「洪水が地上に氾濫した。大淵の源泉は全て裂け、天上の窓も全て開かれた。水の勢いは地上で極めて大きく、天下の高山も全て水に沈んだ。」のあの一家以外の、アダムとイヴの子孫も、世界の最高峰の山でさえ水面した7メートルで、洪水に飲み込まれた。
ノアと彼の妻は方舟(はこぶね)に乗り、洪水の中を40日間漂い、高山の上に座礁した。大洪水が引いたかどうか探るために、ノアは連続して3回鳩(はと)を放ち、3回目の鳩がオリーブの枝を加えて帰って来たのを待ち、洪水が引いたことを知った。後世の人々は鳩とオリーブの枝を平和の象徴として使っている。
奇しくも、地球の一方の、カナダ東部のアサバスカン人にも「ノアの方舟」同様の伝説がある。「大地を覆っている雪原が溶けて、こんこんとした洪水となり、どんどん盛り上がり、終には最高の山塊までも水没してしまった。一つ一つのインディアンの老人がこの災難を予見していて、雪が解け始めた頃、この部落の人々に大きなカーヌーを刳り抜い(くりぬく)て自分達で助かろう。」しかし人々は、「もし本当の洪水が来たら、山へ逃げれば、洪水はまさか山頂を覆い尽くすことはない。」と笑った。しかし彼らは間違っており、洪水は本当に全ての山頂を水没し、彼らはみな水死し、あらゆる動物も消滅させた。この洪水の到来は、世界の終末であった。ただ洪水を予見した白髪の老人アイトスだけが生き残ったが、彼は船を作っただけでなく、各種の動物もつがいで船に乗せた。彼らは船の上で大変長時間待ったが、色々と漂流し、食べ物も次第に少なくなったが、陸地はずっと見つからず、洪水も少しも後退する様子がなかった。
中米の『ポポル・ヴフ(マヤの聖典)』には、「これは壊滅的な大破壊で⋯⋯大洪水が⋯⋯人々は天から降る糊のような大雨で溺れ死んだ。」と描写している。マヤから遠くない古代メキシコの文献には、「天地が接近して、一日で全ての人が消滅し、山まで洪水に隠された⋯⋯」という文字がある。北米のインディアンチチア(基奇埃)族の古文献にも、「大洪水が来て、天地は漆黒となり、黒い雨が、止むことがなかった。人々は命からがら逃げた⋯⋯しかし消滅した。」と言っている。
中国の古文献では、史前の洪水に関する記載は数え切れない。『淮南子·覧冥訓』は「大昔、四極は荒れ果て、九州は裂け、天は兼ねて覆わず、地は周く載せず、火は炎を誇示して消えず、水は広々として留まらず」と説く。
『尚書・堯典』には「とうとうとした洪水は正に水害を起こし、広々と山を懐(いだ)き、丘陵に押し寄せ、被害甚大である」とある。
『孟子・騰文公上』には更に詳細な記述がある:「正に堯の時、天下はまだ平穏ではなかった。大水が出て、天下に氾濫が起きた。草木は繁茂し、禽獣は繁殖、五穀は実らず、禽獣は人を圧迫した。獣の蹄と鳥の足跡が中国で交わった。ひとり堯だけがこれを憂慮し、舜を推挙して治める範囲を広げた。舜が益(えき)に火を司らせ、益が山沢を燃やすと、禽獣は逃げた。禹は九河を分流させて浚渫し、諸海に注がせた。汝水と漢水の堤防を切り、淮河と泗水を排水させて長江に注がせた。すると中国は食を得られるようになった。⋯⋯堯の時、水が逆行して中国で氾濫を起こした。蛇や龍が棲みつき、民は定住する場所がなく、下は巣を為し、上は洞穴を為した」。
書物にはこう書かれている:「洚水警余。洚水は洪水なり。禹をして之を治めしむ。禹は地を掘り、之を菹(しょ)に放つ。川は地中より行く。長江、淮河、黄河、漢水、是なり。険阻既に遠く、鳥獣を恐れる者は消ゆ。然る後、人は平穏を得て之に居る」
歴史を蔵匿(ぞうとく)している暗号でできた甲骨文中では、「昔」の字の上部は3本の曲線であり、水を表す。下部の円は太陽を表す。洪水が大規模であると、なんと太陽を水浸しにした。中国の古称は「神州」であったが、『説文解字』は「水中で住むことのできるのを州(しま)と言う」と説く。象形文字を作ると、「州」は一個の「川」と3個の小さな点から組み合わさっている。「川」の字は大水を表し、3個の小点は高く水から突き出た小島を表す。中国の漢語は非常に古い歴史を持し、「滄海桑田」という四つの字は、歴史に関する中国人の想像を無数に包含するが、大洪水がその出所である。四川盆地の三星堆文明をこの大洪水が壊滅したのではないかと推測する人もいる。北宋の科学者沈括は、太行山脈の麓で大量の貝類の殻と玉石の堆積(たいせき)層を既に発見し、次のように考えた:「これは昔の海浜だ」。
大洪水時代に、地球上にある古代文明は全て滅頂の災に遭った。ナイル川流域、ナソポタミア、インド亜大陸、中国長江流域、黄河下流域、東南沿海、東北三江平原、成都平原、及び南アメリカのメキシコ湾等の地を含めて、古代文明の国全部が滅頂の災に遭ったのだ」。
インドの抒情詩(じょじょうし)『マハーバーラタ』には、洪水の溺死(できし)の災難を免れたヴァイヴァスヴァタがある。コロンビアの神話には、山上に穴を掘り水死を免れたボチカ、古代ギリシャ神話では、アトランティス国が海底に沈んでいる。
関中盆地と泰山山頂の中国人は大洪水の中を幸い生き延び、彼らは最後に東方文明の火種となった。『山海経』では、ある「精衛海を填(うず)む」の物語があるが、実際これは一つの暗喩で、それは人々に海洋が嘗て人類にもたらした巨大な災難を喚起している。
紀元前6年に、前漢の文学者劉歆が『山海経を上(たてまつ)る表』を皇帝に書いたが、『山海経』は、唐虞の際(堯舜時代)にできたと言う。昔洪水が氾濫し、中国に蔓延し、人民は拠所を失い、山岳の険難の、樹木に巣ごもりした。それは今を去る1万年以上前の大洪水時代に、中国の地形は現在とは完全に違っていた。その当時、古渭河と古黄河は通じておらず、中間は豫西山地の龍門で隔離されていた。潼関には通水する河道がなかったので、当時の関中盆地は実際には巨大な「関中湖」であった。当時の黄河は無数の水路が縦横に交錯し、四方八方の河口があった。海水が膨張した時、今日の河北平原と黄淮平原はほとんど海水の下に沈んでしまった。雄大な泰山は、山東半島と海を隔てて相対し、今日の山東地区には、二つの孤島があるばかりであった。狩猟採集時代の中国人の祖先は、河南の嵩山、山東の泰山、華北と山西の太行山と陝西の秦嶺等のいくつかの山塊の中に分布していた。中国文明の発祥地で、炎帝の故郷の甘粛の天水は、古代の「天の川が水を注いだ」伝説に由来する。
およそ紀元前2300年頃、中国は空前絶後の大洪水に遭遇した。天から盆を反したような大雨が降り、河川は氾濫し、山津波が勃発し、家屋や家畜、耕作地がみな水没し、中国は大洋に沈み、人々は大勢のが溺死、餓死し、生き残った人は命からがら高山に登った、これが中国の歴史上最も悲惨な時代であった。4,000年以上前のこの洪水は、劉歆は『山海経序』でこのように記載している。「昔の唐・虞の際(堯舜時代)に、洪水が氾濫し、中国に蔓延し、人民は拠るを失い、丘陵の崎嶇(険難)に、樹木に巣くう。鯀は既にして功無く、而して堯は禹をしてこれを継がしむ。禹は四歳(4年)を乗(また)ぎ、山に随い木を削り、高山大川を定めた。」
司馬遷は『史記・夏本紀』の中で、経緯を書いた。「夏の禹は名を姒(じ)文命と言った。彼の父親は姒鯀(こん)、姒鯀の父親は顓頊(せんぎょく)、顓頊の父親は昌意(しょうい)、昌意の父親は黄帝である。夏禹は黄帝の玄孫であり、顓頊の孫である。夏禹の曽祖父と父親鯀は帝を称さず、天子の大臣となった」唐堯の統治後期、洪水は甚大な被害をもたらし、一面の海となって、丘を囲み、丘陵に押し寄せた。人民は皆苦悩した。唐堯は治水ができる大臣を探し求め、群臣は皆、夏集落の首長姒鯀がいて、任を堪えると説いた。唐堯はすぐに人を派遣して姒鯀を招聘し、洪水を処理させた。
姒鯀は有名な水利技術専門家であり、彼の集落は嵩山の麓、黄河の岸辺にあって、一年中水と付き合っていた。彼は小さな川の流れに対処し、人力、物資力を集中して堤防を修築することで水勢を制限した。この方法は単純、かつ即効性(そっこうせい)があるように見えた。洪水が一尺高まると、我は大堤防を2尺嵩(傘)上げし、洪水が一丈高まると我は大堤防をニ丈嵩上げした⋯⋯ところが憎たらしい洪水は、直ぐに水嵩が増して、止まることを知らなかった。大堤防の補修は更に加速したが、四面八方の洪水の嵩が増すほどではなかった。それどころか、水位がますます高まると、堤防にかかる圧力は更に増大し、油断しようものならせっかく補修した堤防を徹底的に決壊させ、更に大きな災難を起こすだろう。そのため、姒鯀の堤防はますます強固となったが、洪水の衝撃を阻止することはできず、依然として決壊が絶えなかった。姒鯀は九年改修に当たったが、洪水は引かず、苦労は向かわれなかった。庶民は路頭に迷い、更に怨嗟(えんさ)の声が世間に満ち満ちた。
この時、唐堯は既に大変な高齢で、女婿である有虞(ゆうぐ)集落の首長虞舜を帝位継承者とし、天子の職責を代行させていた。虞舜は天子の旗を掲げて、各地の諸侯が領土を守るのをあちこち巡視した。巡視する過程で、虞舜は姒鯀の治水が効果を挙げていないことを発見し、嵩山から400km離れた羽山で姒鯀を死刑に処した。虞舜は権威を確立し、姒鯀に加えて3名の大臣、三苗(さんびょう)、共工(きょうこう)、灌兜(かんとう)を連続して殺害して、彼らの罪が大きく、極悪な「四凶」であると宣伝した。しかし、夏の集落は当時唯一の水利工学技術を持った集落であり、代替できる人材がいなかった。虞舜は他に適切な人選を行うことができず、すぐに大禹に下命した。「おまえが水土を平定しに行って、この案件を首尾良く完成するよう努力するのだ」禹は跪拝叩頭し、辞退して契(せつ)、后稷(こうしょく)、皐陶(こうよう)に譲った。舜は言った:「やはりおまえが行って、負い目となっている案件を処理するのだ」。
大禹は父親の失敗の原因を検討し、「水を」疎通させる方法を主とし、水勢を低地の場所に向かわせ排泄させた。治水期間には大禹と契、伯益、后稷と共に、人民を動員して水害を整備した。
彼は水準器と墨縄、規矩(コンパスと曲尺)などの測量道具を利用し、山なみに沿って標高を測定し、樹木を切り倒して水準標識を記録し、これで高山大川の管理計画を確定した。大禹の治水は、水を疎通させる方法を採用した。大禹の治水の過程で、黄河は晋陝峡谷(きょうこく)の出口に、狭った龍門の隘路が河水の退路を塞いでいることを発見した。洪水の排水は進まず、上流に迂回して旋回し、河水が運ぶ砂泥が絶えず堆積し、川底をどんどん高くしていた。大禹は人を率いてこの山に三本の河川を開鑿(かいさく)し、それぞれ神門、鬼門、人門と命名した。閉じ込められた河水が注ぎこんで、この三本の河に従って囂囂(ごうごう)と去って行き、河水はこれで流通した。この人工的に開鑿した渓谷が、河南の三門峡である。
『史記・五帝本紀』は、大禹が三門を含む九つの山脈の峡谷の道を通したと説く。史記に記載された地名は現在のものとの多々相違するものの、山の地勢と水流方向を対照すると、現代の中国地形図の中から、大禹の足跡を探訪するのは難しくない。
「汧山(けんさん)」、岐山から真っ直ぐ荊山に到り、黄河を越える」は、即ち渭水以南の秦嶺山脈。
「壺口山(ふこうさん)、雷首山から真っ直ぐ太岳山」は、即ち汾水(ふんすい)と黄河の間の呂梁(ろりょう)山脈。「砥柱山(しちゅうさん)、析城山(きじょうさん)から真っ直ぐ王屋山(おうおくさん)は、ひっくるめて中条山、王屋山だけでなく、三門峡以東の東西に走る太行山脈を含む。
「太行山、常山から真っ直ぐ碣石山(けつせきさん)、ここより大海に進入する。太行山脈は河南省修武雲台山より北行して北岳恒山(即ち常山)に到リ、燕山山脈と交差すると、東に向かって渤海に進入する。
西傾山、朱圉山(しゅぎょさん)、鳥鼠山(ちょうそさん)から真っ直ぐ華山に到る」は、即ち渭水北岸の六盤山から黄龍山の一帯で、渭南の秦嶺と呼応して関中盆地を構成する。
「熊耳山(ゆうじさん)、外方山、桐柏山(とうはくさん)から真っ直ぐ負尾山(ふびさん)」は、即ち漢水北岸の熊耳山、伏牛山(ふくぎゅうさん)、桐柏山の一帯。
「嶓冢山(はちょうさん)を開通し、真っ直ぐ荊山」は即ち漢水西南岸の大巴山。
「内方山から真っ直ぐ大別山に到る」は即ち漢水北東岸の大別山。
汶山の南面は真っ直ぐ衡山に到リ、九江を跨ぎ、廬山の南麓の傅陽山に到る。汶山は四川盆地の西部に汶川県に位置し、場所は岷江源流の大雪山の南麓である。この山脈は長江(揚子江)の南岸に位置し、長江と基本的に並走し、経路は最長であり、龍門山、邛崍山、大凉山に沿って、雲貴(雲南〜貴州)高原の烏蒙山と湘西の武夷山、雪峰山と合流し、南岳衡山から江西廬山に止まる。

崇山峻嶺の中の山津波の通路を通してから、大禹は平原地区に来て、九本の河道を疎通させた。

弱水は西に流れ黎山で合流し、下流は砂漠へ流入した。氾濫した弱水は祁連山の北麓に沿い、西に向かってバダイジャラン砂漠に導入している。
黒水の流れは三危山に到リ、南海へ流入する。巴山秦嶺の間の白龍江は漢水の上流に位置し、古くは「黒水」と称した。当時の人々はそれが漢水と同一の河とは知らず、その川が直接南下に流入していると誤解していた。
黄河の流れを分流して積石山を経て龍門に到リ、南は華山の北に到リ、東は砥柱山に到リ、また東に向いて孟津に到達し、東で雒水を経て折れ曲がり、大邳山に到達し、更に北へ向かい降水を経て、大陸沢に到達し、更に北へ向かい九本の河流に分散する。当時、黄河花流の九本の河道はそれぞれ海に河口があった。これらの河流は海水が逆流して「逆河」を形成して、河北平原で氾濫を繰り返し、やがて大海に流入した。
嶓冢山を開通し漢水へ導いて、更に東へ流し蒼浪水となり、三澨水を過ぎ、大別山地区に流入し、南へ向かい長江に流れ込み、東に向かい合流して彭蠡沢に溜まり、再び東流して北江となり、大海に注ぎ込んだ。
汶山が開通し長江が疎通すると、東に支流が分岐し沱江となり、また東に流れ醴水に到り、九江を流れ、東陵に到達し東流し、また北に曲がって流れ、彭蠡(ほうれい)湖に合流し、東に流れ中江となり、最後は大海に注ぎ込んだ。
沇水を疎通して、東に向かって流れ済水となり、黄河に注ぎ込み、溢れて滎沢湖となり、陶丘北側から東ヘ流れ、更に東に向かい荷水に到リ、また東北に向かい汶水に合流し、また東北に向かい大海に流入する。
桐柏山を開通して、淮河ヘ疎通し、東ヘ流し泗水、沂水と合流し、東ヘ向かい大海ヘ注ぐ。
鳥鼠山を開通して渭水ヘ疎通し、東ヘ向かい灃水と合流し東北へ向かい涇水に到リ、東流して漆、沮を経て黄河に注入した。
熊耳山を開通して雒水へ疎通し、東北へ流し、澗水と瀍水と合流し、また東流して伊水と合流して、東北へ向かい黄河へ注ぎこむ。
大禹の努力で中国の九州全土は全て治り、域内の四方は全て安定し、九州の山脈は皆樹木を切り出して通行の標識を作り、九州に所在する河川は皆疎通し、九州の沼沢(しょうたく)の場所は堤防を修造し、天下は統一した。
大禹は各地で管理を任命し地方整備に従事させ、所有の領土は全て土地の肥瘦(ひそう)の程度を根拠に、人工と収入と課税の徴収を査定(さてい)した。こうして、東は大海まで、西は砂漠まで、北方と南方は到達最遠の場所まで、文明の種子を九州全土に撒いて、天子の威厳と教化は視界に遍く及んだ。論功行賞で、舜帝は大禹へ黒色の圭玉を賜い、天下へ治水の成功を宣告した。天下はこれより大変良く治るようになった。
当時の中国は、鋭利(えいり)な鉄器はまだ出現しておらず、山を開き洞を穿つ(うがつ)には全て岩石を焼き切り、水を撒いて砕く原始的な方法で、困難の重大きさは推して知るべしである。聞くところによれば、大禹は治水の命令を受けた時には、「結婚して僅か四日であり、これ以来妻を顧みる事もなく治水のために、四方であくせくとして、やきもきと気を配り、家の外で13年間を過ごし、家の前を三度も通ったが、治水の成功まで、入ることはなかった。
『荘子・天下』には「禹は親しく自ら鎬耜を操り(あやつる)、天下の川を九雑し、腓(もも)に胈(あぶら)も無く、脛(すね)に毛も無く、甚だしき雨を沐して、疾風に櫛けずり、万国を置けり。禹は大聖なり、而(しか)も形の天下に労する此の如きなり。」と記されている。
此の段話の意味は、大禹の治水期間に自ら土を掘りもっこを背負い、天下の九本の大川の水流を貫通させた。そして苦労も辞さず、ふくらはぎや、膝頭の毛も擦れ切ってしまった。大禹は自分の身なりを整える時間も無く、雨に髪を洗い、風のままに髪をとかして、怨みも悔やみもなく、天下を奔走した。禹は、大聖人であり、どこであってもこのように心を尽くしていた。
「櫛」はしつけ櫛や、すき櫛類の髪をとかす工具である。「櫛風沐雨」は風で髪をすき、頭で頭をあらうことを言い、奔走する苦労を形容している。大禹は民衆の推戴(すいたい)を獲得した。人々は「天平らにして地成る」と形容して、大禹の治水の成功を形容した。言っていることは地はその動静を正し、天は時に順って、万事が妥当に手配され、天下が太平なことである。
大禹は治水に13年の時間を費やしたが、大禹が治水したのは、次の九本の大河であった:弱水、黒水、黄河、渭水、洛水、済水、淮河、漢水、長江(揚子江)。大河は全て水でできているので、「水」は古代には江河の通称であった。また「江」は古代には長江を指し、「河」は黄河を指した、古代人はただ「水」を使用して江と河を指した。長江と、黄河以外のその他の七本の川の称号は、全て「水」である。
大禹が治めた九本の河川の内、八本の河流は20世紀にも依然存在するが、済水だけは19世紀半ばにに黄河に飲み込まれ、黄河の下流の河道となりました。済水はもうありませんが、済水の南岸の山東省の省都の名字は「河南」とは改められず、「済南」のままであった。ただ済南城の東北で、済水は名残があるだけで、小清河と改名されている。
大洪水が終結後、『山海経』時代の人類は山地から肥沃(ひよく)な沖積(ちゅうせき)平野ヘ向かった。農耕時代の到来に伴い、人類の黎明期はこのように始まった。人々は村落を建設し、火で食べ物を煮炊きし陶器を焼いて、動物を飼いならし始めた。この大災害後に生まれた新人類は洋々とした海水が分割した異なった陸地に存在して、ある陸は小さく、孤立してこまごまとした島嶼(とうしょ)を形成した。大陸と島嶼の間には、「長江、黄河、済水、淮河、漢水等の大河が分割した華北平原の湖沼地帯を形成したが、つまりこれが大禹が洪水を疎通してできた「九州」である。
現代中国人が習慣で言う「大江、大河」は地図帳では、どこを江と呼び、どこを河と呼ぶのであろう。
実はだいぶ込み入っている。一般的な状況下、中国国境内では内海、或いは湖の河川は「河」と呼ばれる。例えば、黄河、遼河は中国の内海である渤海に注ぐので、どちらも「河」と呼ぶ。タリム河、孔雀河(くじゃくが=コンチェ・ダリア河)はロプ湖に注ぎ、また「河」と呼ばれる。しかし外海、あるいは大洋に注ぐ河川は「江」と呼ばれる。例えば、長江は黄海に注ぎ、珠江は南シナ海に注ぎ、黒龍江はオホーツク海に注ぐが、どれも「江」と呼ばれる。その他の河川、閩江、錢塘江、ウスリー江(川)、怒江(どこう)、ヤルンツァンポ江(川)⋯⋯を見てみよう。当然例外的な状況はあるが、習慣上どうかと言うと、中国の島嶼上の河川は、無論どこに注ごうと河、あるいは渓と呼ばれる。例えば海南島の万泉河、台湾の濁水溪、大甲渓である。
外国の河川は、無論幾ら長くても、内海、湖に注ごうと外海、大洋を注ごうと、「河(日本では川と訳す)」としか呼ばれない。例えばナイル河(川)、アマゾン河(川)、ミシシッピ河(川)、レナ河(川)、エニセイ河(川)、オビ河(川)、セント・ローレンス河(川)、ラプラタ河(川)⋯⋯太平洋のような大洋に注ぐが、依然として「河(日本では川)」である。
この種の呼称区別は中国古代の一種の伝統観念に由来するかも知れない。世界の中心は中国であり、中国が正統であり、面積最大且つ最富裕、そしてその他の国は異邦、蛮夷であり、取るに足りないという観念である。この観念が人々に、外国の河川は短く、小さな湖、あるいは内海に注ぐと思わせる原因となっていたが、当然これは古代中国の対世界観を表すのであり、現代中国人の観点を表すものではない。
人々は常々「名山大川」と並列するが、このことは、古代人が河川の上流と下流の区別を早くも認識していたことを説明する。一般的には、川は山間部の切り立った狭くて浅い急流であり、河は平原の広々とした地域を幅広でゆったりと流れる水流であると言われる。また、川は比較的小さな河であって、河の上流に位置する、河は比較的大きな川であり、下流に位置するとも言われる。河川に対して中国で初めて分類が行われたのは、春秋時代斉国の宰相管仲が執筆した『管子・度地篇』である。管仲は河川の水源と大小、遠近、及び流入に基づいて江、河、湖、海の区別を行い、「流れる水」を経水、枝水、谷水、川水、淵水の五類型に分けた。
水には大きさ又 遠近の距離があります。山から出て行く海に流れる水は「経水」と言われます
他の水域の水を引き入り、大水と海に入るのは「枝水」と呼ばれます。
山の溝では、水のあるものと水のないのは、「谷水」と呼ばれます。
地面から出て大水と海に流れ込む水を「川水」と言います。
流れずに地面から出てくるものは「淵水」と呼ばれます。
甲骨文の「水」    、  、  は、縦書きと横書きの二種類あります。縦に書かれた水は、ゴツゴツした岩壁    の両側から流れ落ちる泉水      、  、  のようです。横書きの水      は、平野が浸水し、荒れていることを洪水に意味します。篆書の水は    を書く。隷書の水は    を書く。
石垣に跳ねる(はねる)山泉を「水」と呼び、水源を「泉」と呼び、山泉が寄せ集めで作った水の流れを「澗」と呼び、「澗」が地面で寄せ集めで作った水の流れを「渓」と呼び、多くの川が作った水の流れは「川」と呼ばれ、多くの川が作った巨流は「河」と呼ばれ中国最大の河は「江」と呼ばれます。
樹木に根あり、水に源あり。甲骨文の「水源」と「平原、高原」の字形    、  、  は、どちらも「原(厡)」であり、原野を表すことができ、また水源を表すことができた。金文の原は    、  を書く。篆書の原は    を書く。隷書の原は    を書く。この文字の中には、「切り立った山の崖があり、またサラサラと流れる泉水もあって、現れるイメージは、誰が何と言おうと、どちらも山清水秀、風景優美である。
『詩経・衛風・竹竿』には「泉源在左、淇水(きすい)在右」という詩がある。その意味は「商朝の都城の位置に立って北を見ると、泉源が自分の左にあり、淇水は右側の身辺から流れた」である。
泉は出水の最初の場所であり、早期甲骨文の    「泉」は石洞    でポタポタ細々と垂れる水滴    を象る。晩期甲骨文の「泉」は   を書く。金文の「泉」   は甲骨文の泉の字体   が継承されています。篆書の「泉」   は甲骨文の字体    が継承されています。隷書の     は    と   の組み合わせである。造字の本義は、出水の石洞、水流の源であって、源の小石洞から水が垂れる様子を象る。
長江黄河、遡源せば、終に一つの泉あり。広さ尺に満たず、深さ数寸ばかり、ただ「濫觴(らんしょう)」、酒杯(しゅはい)一つ浮かぶるのみ。
『説文解字』では、「泉、水の原なり。水が流れ出て川となる姿を象る」許慎は、原は泉と解釈した。原はさて何であろうか?彼は「原、水の本なり。泉より出でて厂を下る。」「厂」は即ち岸、山の岸を指す。山岸の下にある泉もやはり原という。「泉」と「原」は元々区別がなく、平地にあるか山岸にあるかの違いに過ぎない。後になって「原」の字は字義を借りて平原となったが、泉の原字は三水を加えて源にはなれなかった。
「原」の字は、現代中国語の応用が特別広範である。原因、原来(=もともと)、原始、原理、原則、原型、厳装(=輸入完成品)、原配(=最初に娶った妻)、原告、原籍、原子等等、いずれも長江、黄河の源から流れ出た泉水が、時と共に新しい語彙を組成したもので、応用は限りない。
晩期の甲骨文の「泉」   は本来の「水柱」   を直接方向の「下」   に書き、山中の源泉が「直接滴り落ちる」特徴を強調している。
甲骨文の「谷」   は、「水」と「口」の組み合わせである。上部の「仌」   は、「水」   の変形、谷の水が山の両斜面から滴り落ちることを表している。下部の  は、通路、山口を表している。金文の「谷」  、篆書の     は甲骨文の字体が継承されています。造字の本義は山の間の水の流れが集まる窪地。『説文解字』に谷は、泉水が隙間から、河川に流れ込むことで、山間の粋を地形を「谷」と称し、字形は河川が見え隠れして山の入り口に流れ出す様子。
川は、早期の甲骨文の「川」   は、「水」   と字形が相似しているが構成は相反している。両側の折れ線    は岸壁が屹立する両岸を表し、中間の点線    は急激な水流を表している。造字の本義は渓流と谷間のせせらぎが作る激流の川。『説文解字』の解釈を見ると、「川は、貫穿(かんせん)して流水を通すなり。」である。意味は、「川は、山塊を貫き通り流れる河川」である。後期の甲骨文    の中間の点線   は実戦    で書かれている。ある甲骨文「川」   は「川」   の中に頭を下に向けた「人」   があり、「川」は古代の山岳民の交通に必要な道であり、人々はここから流れに従って下り降りたことを示している。金文の   、篆書の    は甲骨文の      が継承されています。
泉水が山谷から流出して、自然に地上で集まり「川」を作っている。川は予めうまく掘られた水路で泉水が流れることを待っているのではない。ただ自然の法則に従って、地形の高い所から低い所へ流れるだけである。こうして、川がある。川には「従順」な意味があるので、頭と顔を表す「頁」を加えて「順」が作られたが、これは人の顔に従順な表情が現れていることである。「順」が「川」に従うことが解れば、篆書の「流れ」の構造の、右の旁「㐬」が表す意味が、「水が転倒している子供の頭髪から滴り落ちること」を示していることが解る。
字形から見ると、後期の甲骨文の「川」は、曲がりくねった大河が、滔々と流れる様子である。「水」と比べて、明らかに幅が広く、「水を集めて流れる」形を象徴している。『説文解字』より更に古い典籍『虞書』は、「川に距(いた)る」とは、深き水の会して川と為るを言うなり」と解釈している。意味は、水流が河道を更に深く、広く浸食する事が「川」であると言う。
河川の水面は一般的に海岸よりも低い。河川の水面は平坦であり、山間あるいは高原上の低くて平坦な地域という派生義が生じた。『楽府詩集・新歌謡辞・敕勅歌』に「敕勒川、陰山の下、ゲルに似て、籠で四野を蓋したり。天は蒼々、野は茫々、風は吹きたり草低く、牛と羊の見ゆるところ」と唱われる。歌中で賛美された「敕勒川」は河川ではなく、陰山山脈南斜面にある水草の豊かで美しい牧場である。位置は現在の内モンゴル自治区敕勒区。
「川」は「四川省」の略称である。四川は元々「巴蜀」という名であり、長江三峡は、古くは「川峡」と呼ばれた。元朝は巴蜀を川峡東路、川峡西路、川峡南路、川峡北路に分割したが、この四つの行政区は川峡四路と総称される。元朝は此処に省級行政機構「四川行中書省」を設立し、四川と略称した。四川省の由来は此処にあるのであって、省内に四つの川があるからではない。もちろん、四川盆地には岷江、沱江、烏江、嘉陵江がある。『管子』の命名規則によると、これら4本の流れは当地の河川を経て流れるので、「枝江」に属し、「川水」ではない。大禹は九本の大河を治水したが、三本は「枝水」に属し、やはり大江大河の「支流」である。渭水、洛水はどちらも黄河の支流であり、漢水は長江の最も重要な支流である。
渭河(渭水)は甘粛省渭源県の鳥鼠山を源として、全長818キロメートルで、東向して黄河に注ぎ込んでいる。その河流は肥沃な関中盆地であり、これは中国古代文明の重要な発祥地の一つである。中国最強の四つの王朝である、周、秦、前漢、大唐は、皆渭河河畔の長安に建都し、二千年の長きにわたり継続した。渭水には涇河(涇水)という支流があり、六盤山に源流があり涇渭の二河川は西安の東北で合流している。二河川が合流する所は、一種奇妙な現象が発生しており、即ち川面が二つに分かれ、涇水の泥砂(でいさ)が少なく、流れも速いので、涇水の川水が北岸に沿って下に潜り込み、突然平原に進入するが、かえってやや澄んでいるが、泥砂の多い渭水は、河水が南岸に沿って、速度も緩やかで、大変濁って見える。中国には「涇渭分明」という四字熟語があるが、この自然現象を根拠に、二種がはっきりと異なる事象で、混在しても各自の特徴を保持しているを比喩している。
洛水は堯の都臨汾と、舜の都永済、禹の都陽城とは遠くない距離で、この支流に長くなく、水量もなく、大きな動向もなく、有害な河川とはみなされていない。それが人に印象深いのは、行軍(こうぐん)儀丈の軍隊が反復してここを通過したことである。初期の甲骨文の「洛」は、川を簡略した「」、行軍の逆字「止」と、河水を表示した「」の組み合わせであり、造字の本義は、兵士が河川を突破し、敵陣の城郭に進入する事である。後期の甲骨文「洛」は「各」を「止」に代えて、「侵略」の意味を明確にしている。「洛」が「河川を渉って侵入する」本義が消失すると、この字は河川名の「洛水」と地名の「洛陽」だけに使われるようになった。
漢は、金文では鳥が籠に捕らえられ、苦しみを受ける「難」と下面の一本の川の流れで構成されており、造字の本義は、長江の最大の支流で、はるか昔の政府が政治犯を放逐にした場所である。晩期の金文「漢」は河川の流れ「」と枷で繋がれた受刑者「」の組み合わせで、漢水流域が古代の政治犯の受刑殉難の地であることを強調している。『説文解字』は、漢水、またの名は漾水、下流の東段は「滄浪の水」と称作されると言う。中国の主要な民族は「漢族」と称されるが、これは漢朝に因む。秦朝が転覆されると、漢の高祖劉邦は西楚の覇者項羽を「漢王」とし、王府の所在地南鄭は、現在の地名は安康である。ここは北は秦嶺に拠り、南は巴山に依り、地勢は険要で、山は高く傾斜があり、三国時代の曹操は当地を「天獄」と例えた。多くの流刑者がここで生きながら瀕死となり、一生這い出す(はいだす)こともできなかった。
難と「灘」は同じで、艱難な事、簡単でないことを表す。篆書の「灘」は河水と艱難の組み合わせでできており、造字の本義は河川は水が急で岩も多く、操船が困難な河川の事。『説文解字』に、灘は河川の水が浅くして干涸した河の段。水が険灘に入ると泡沫(うたかた)が広く発生するが、篆書の「沫」は河水と「末」の組み合わせであり、造字の本義は、川面に浮かぶ泡沫を比喩したもので、また長江の注ぐ小さな支流雅礱江をも指す。『説文解字』に沫は、河川なり。水源は蜀地の西南部の未開地から出ており、蜀地の東南で長江に流入している。
しげしげとこの「川」を眺めると、孔子の名言「逝く者は斯くの如きか。昼夜舍(やま)ず」の理解の助けと為る。この言葉は、凝縮して四字熟語の「川流不息(川の流れは息まず)」となっている。時間が止まらず流れていくことを指し、また川の流れも絶え間ないことを指すことができる。河路は塞ことができず、疎通させるだけである。一旦閉塞(へいそく)して「堰止め湖」を形成すると、必然的に水位が上がり、位置エネルギーが蓄積される。ストレスが限界点を超えると、堤防は必然的に崩壊するが、大災害を導く。
「経水」は「径水」とも言い、大海に向かう河道の本流である。この「百川を大海に帰す」主要河川は、その形状が植物の中心の「茎」や、人の首から出ている「頸(頚)」、太腿の「脛(胫)」のような形をしている。黄河、長江、淮河、済水は、みな「経水」の範囲に属する。
「江」の、甲骨文の意味は「最大の川」である。古代中国語では、「工」には工作、精巧の意味があり、多くの時間を「巨大」と表す。大河は「江」とし、大穴を「空」とし、大きい動物「龍」を「虹」とし、大きな貝殻を「貢」、大きな棍棒を「杠」、大饔を「缸」、大力を「扛」と表す。
甲骨文は「江」の、造字の本義は、中国最大の河川である。長江はチベット高原のタンラ山脈を淵源として、途中中国の11ヶ所の省、自治区、直轄市を通過して流れ、最終的に東シナ海に流入する。明朝以前には、人々は長江は岷江を源流と考えていた。そのため『説文解字』の解釈は、江は、南方の大河なり。源は蜀の湔氐(せんてい)の徼外(境外)崏(岷)山に出でて、下遊して海に入るである。明代の有名な冒険家徐霞客は実地観察して、最終的に長江の正しい源流は金沙江であり、岷江は実際には長江の位置支流であることを確認した。
長江は全長6,380キロメートル、流域面積は180万平方キロメートルである。中国第一位、世界第三位である。この川は、愛でたく温和で、美しく肥沃な大河であり、およそ河流の持つべき利益の、灌漑や船運、水力発電など、無いものがないほど、あらゆるものが揃っていた。
だが歴史的には、長江流域の開発は遅々として緩やかであった。石器時代の工具では、南方の森林の天のも届く大樹を揺るがすことはなかった。そのため、8,000年前には、揚子江下流には河姆渡文化が出現したものの、全体的な開発水準は大変低かった。黄河流域は既に文明社会に侵入していた時に、長江流域の大部分は、一片の荒れ地であった。
地理学的な境界線で、現代中国では秦嶺〜淮河を南北の境界線としている。だが歴史的には、習慣的に長江以北を「北方」とし、長江以南を「南方」としている。東晋、南宋など本来北方に都を建てた王朝は、一旦万里の長城の草原や、砂漠地帯の遊牧民族の攻撃を受けて、抵抗に失敗すると、往々に南方に逃亡し、長江の保護の下でかろうじて生きながらえた(いきながらえる)。遊牧民族は馬上での技術には詳しかったが、滔々とした長江に面して途方に暮れた。江南に逃亡した残余政権は、殆どが安全の地に満足する無能の人間で、国土の南東半分の山川を死守することに甘んじて、努力することがなかった。東晋、南北朝の時代には、中国は300年余り分裂した。南朝は、北国と江河を隔てて統治し、この「江」が、つまり長江であった。

河、初期の甲骨文の字形は、中華民族の母なる河〜黄河である。

この字の象形記号は、上図の黄河の壷口瀑布の姿が大変似ていて、激流する大川の激流が盛んな情景が強調されている。字の左上には、一本足で水辺に佇み(たやずむ)、川を渡る準備をしているが、激流に行く道を立ち阻まれている様子である。それで、「河」の造字の本義は、船舶でなければ渡れない大河であり、つまり「黄河」である。

晩期の甲骨文の「河」は水と角(丂)の組み合わせで、旅人が岸を挟んで角笛を吹き、雰囲気を呼んで渉ことを示している。『説文解字』に、河は、北方を大川である。水源は敦煌郊外の崑崙山で、西北に水源を発し、東南で大海に注入する。
黄河は中国の二番目の大河であり、その長さと流域面積は長江に劣る(おとる)だけである。チベット高原のタングラ山脈、格拉丹東雪山に源を発し、中国第二の長河であり、また中華民族にとって母なる川でもある。遺憾ながら、この偉大なる母は、時として本当に悪くて命懸けな所があって、愛憎こもごもな思いをさせる。
李白の有名な詩「君見ずや、黄河の水の天上より来たりて、奔流して海に到り復た回(かえ)らざるを」は、黄河の気勢をとことん表現している。古人は、黄河が崑崙山に源を発すると認識していた。崑崙山が西王母の「瑶池仙境」であるからには、黄河の水が当然天上から来るではないか!夏が来る度に高山の雪は融け、数え切れない川となって羅布泊(ロプノル湖)に流れ込むが、これを「塩沢」と言う。この大沼沢(しょうたく)は飲むばっかりで吐かない。こんなに多くの水が流れ込んでどこに行ってしまうのだろうか?古人は「もしかしたら幾つかの地下水脈が黄河上流の星宿海に向かっているのではないか。黄河の水はここから湧出し、一挙に千里も流してしまう勢いで滔々と流れ、人民に福沢をもたらし、災難をもたらす」と推測した。毛沢東の詩『念奴嬌·崑崙』は「長江も黄河も氾濫すると、人がスッポンみたいに食べられることもある。千秋の功罪、誰か嘗て共に評論したるや?」と評価した。
黄河は全長5,464キロメートルで、流域面積は75万平方キロメートル、これは中国史上最も重要な河川で古代中国の文明はこの流域で発生し成長し、殆どの歴史がこの流域で繰り広げられた。東へ向かい渤海に注ぐ。世界上の河川は、殆ど、航行や、漁業、灌漑と言った幾つかの恩恵を備えている。だが黄河だけは、その両岸の居住民にとって、少しの役立ちと大変な被害があった。歴史上の役割は、むら気のある巨龍が、逆巻き湧きたつようで、いつも恐るべき災難を作り出していた。紀元前23世紀から、紀元20世紀初頭までの4,000年余りに、1,500回余りの小決壊と8回の大規模河道改変があった。
黄河の最後の河道変更は、1938年6月に発生した。災難の根源は天災ではなく、人災であった。当時、日本軍が大挙して侵攻してくるのを阻止し、国民党軍が西に敗走するのを援護するため、国民政府は、人民の生命財産の安否を顧みることなく、鄭州市花園口黄河大堤防を決壊さることを強硬に下命した。人民は虚を突かれ、この天から降ってきた災難を前にして呆然となった。洪水は肉親を飲み込み、家屋を薙ぎ倒し(なぎたおす)、家畜と財産を巻き込んで押し流しては、大地を水没させた。当時の河南省周口地区の地方誌には、「中牟以北では、水深4丈(13メートル)、避難民は数千人となった。豫東(河南省東部)、皖北(安徽省北部)、蘇北(江蘇省北部)の44の県と市、面積は約5.4平方キロメートルの土地が水浸し(むずびたし)となり、被災者1,250万人、離郷者390万人で、89万人の人が非業(ひごう)の死を告げた⋯⋯。この人災で中原中央は、ペンペン草も生えない不毛の地が千里にも広がった。これ以来中国大陸には苦難と貧困の代名詞〜黄泛区が出現した。
黄河の毎回の河道改変は、みな恐怖の殺戮があった。また河道改変の災難に次ぐ小規模氾濫も、毎回人畜に恐ろしい犠牲を出させたので、黄河は世界でも生命財産を呑み込むことが最多の河川でもあった。その半分以上は黄土高原を通過して、削り取った黄土と北方から来る砂漠軍の砂塵で良いそのため中流域を流れることには大変濁ったようになる。人々ははいつも黄河は「水一駄、泥六斗」というが、黄河の水の砂泥含有量の大きさを言っている。
晋陝(山西省、陝西省)の境界で、黄河は大峡谷に沿って真っ直ぐ南方へ向かう。河南の三門峡の入り口に達すると、突然両岸の山々の中から、勾配のない平原へ、雷鳴が轟くような勢いで押し寄せている。瞬時にして、川面は突然に広げられ、水流は緩やかになり、河水が運んできた60%以上の大量の砂泥を沈殿(ちんでん)させ始める。洛陽から渤海へ至る間に、河床(かわどこ)は次第に高さを益し、最後は地面の高さを超え、人口修築した堤防の制限に頼るしかなくなる。済南の20階建てのビルの上の住民が、もし窓を開けて北を眺望すれば、きっと驚くであろう。それは黄河の大堤防の背後を、頭上10メートルの高さで、刻々滾々と東へ流れる黄河の水が彼の頭上に懸けられているからである。毎年春の融雪とまた夏秋の間の雨量横溢の頃は、黄河の大堤防が決壊する危険な季節なのである。夏に僅か数百メートル幅の水面が、急激に拡張し、南岸からは北岸が見えず、ただ一望際限のない逆巻く黄色の怒涛が見えるだけである。堤防がもし衝撃に耐えられず、決壊すれば、大悲劇が発生してしまう。黄河は下を望む高い所に在り、それが決壊すれば巨大なダムが突然崩壊するように、10キロメートル先でも一万の馬が奔走する爆音が聞こえるようである。決壊した所の新河道の無数の住民は、特別幸運なものを除いては、夢から覚めて、巣穴に水を注がれたように洪水に飲み込まれるということは滅多に無くなった。黄河に対して、20世紀まで、中国人民は運命の悪さにため息をつくばかりで、他に対策がなかった。
新中国の成立初期に、毛沢東は黄河、淮河、海河を視察し、三種の曲詞を残した。海河に与えた題詞は「きっと海河を根治せねばならない」、淮河に与えた題詞は「きっと淮河を補修せねばならない」、黄河に与えた題詞は「黄河の事情を知らねばならない」であった。
この三つの題詞の口ぶりから、黄河の事情がいかに多難であるかを知ることができるであろう。
淮は、甲骨文は飛鳥(隹)と河川「氵」の組み合わせで、「鳥でなければ飛び越すことのできない大河」である。古代人は鳥もたどり着けない高山を「崔」と言い、鳥も超え難い大河を「淮」と呼んだ。淮河は全長1,000キロメートル余り、河南省に水源を発し洪沢湖、高郵湖を経て大運河に入り、最終的に長江へ合流する。淮河がこのような奇妙な河道を持っていて、直接海の注がないのは、12世紀に、黄河が河道を南北二本に改め、その内の南側の流れが淮河に入ったためである。100年後、黄河はまた河道を改め、南北の二本が全て淮河に注ぐようになった。淮河は現在の済水と同様に、黄河の本流となり黄河の砂泥も淮河の下流で(溜まり)天井河川となった。
19世紀中葉になると、黄河はまた暴れた(あばれる)。この時、黄河は淮河(淮水)を棄てて済水(の河道)を奪い、北へ向けて渤海に注ぎ込んだ。淮河は復活したが、もともとの河道はどこも傷んでいた。その流れの河床には砂泥が堆積していたが、淮河の水量には限りがあり洗い流す力はなかった。(上下の)両端が高く、中央が低いでたらめな河道を前にして、淮河の水は行き先を失い、南に向かって大運河を進み、一緒に長江へ合流した。このしばしば隣人に蹂躙された河川は、これから暴れる蟒蛇(うわばみ)のように、豫南(河南省南部)、皖北(安徽省中部)、蘇北(江蘇省北部)をのたうち回って、本来豊富な魚米の土地を「大雨大災、小雨小災、無雨旱災」の不毛な窮土に絞り上げてしまった。一旦上流の降雨が少し多くなるとそれは逆巻き飛び跳ね、平原を水没させた。1938年、蒋介石が花園口の大堤防を爆発してから、黄河は再び毎年16億トンの砂泥を淮河にもたらし、淮河流域は泣きっ面にハチで、水害は更にひどくなった。現在に至るまで、雨季になる毎に「洪水」警報が鳴り響いて、淮河隆起はしばしば大敵に向かうように、誰も敢えて軽々しく対処しないのである。
淮河、黄河、海河は、中国の歴史上、三大洪水冠水災害と称される。黄河や、淮河と違って、海河の本流は多大な脅威はない。永定河、子牙河、衛河、潮白河、独流減河等の支流は天津に至って海河に合流し、本流は天津の三岔口から塘沽の大沽口に到る、僅か52キロメートルで渤海に注いでいる。本当に華北平原に水害をもたらすのは、それらの弟分達で、とりわけ北京の永定河である。永定河の上流は桑乾河で、全長650キロメートル、源を山西北部的管涔山に発す。それは黄河と同様に、河水に黄土高原の大量の砂泥を含有して、含有量は38パーセントに達する。河水は太行山脈を出たあと、その川底は地面より10数メートル隆起しているため、黄河同様に絶えず決壊し、絶えず流道を変えている。中国人は感慨してそれを小黄河と呼び、また「無定河(暴れ川)」と呼んでいる。8世紀に、この一帯は辺境に近く、唐朝と北方の突厥、契丹は絶えず戦争を発生し、唐の詩人には、「憐れむく無定河辺の骨、猶お是れ深閨夢裏の人」と言う、国のために身命を捧げた英雄武将を哀悼した、悲愴な詩句がある。18世紀になると、清の康熙皇帝が「無定河」を「永定河」と改め、波瀾の起こらないように期待して、堅固な堤防を建造することを命じた。永定河は北京の西南を経由する河川で、ここは蘆(芦)葦(あし)が生い茂っていたので、「蘆溝」とも呼び、後に「盧溝」とも書いた。12世紀に、金国は盧溝川に有名な石橋「盧溝橋」を建設した。
甲骨文の「齋(斉)」は、本来畑の種が同時に発芽(はつが)する形象で、動作の一致、リズムの相当を表す。金文の「濟(済)」の本義は群衆が船上でラッパを吹くことで、リズムを整え力を出し、漕ぎ手(こぎて)を揃え、激流を強引にわたるものである。『説文解字』の解釈は、済は、河川名で、常山県の賛皇山を源とし、東へ向かい大海に流入するとある。
『管子』が分類する五種の水で、最後の一種は「淵」であり、甲骨文の「囦(淵)」の字形は、四岸の中のよどんだ水「川」を象り、水流によどむ深い渕を表す。『説文解字』に、淵は、廻流する水の潭(ふち)である。字形の左右両側は岸辺を象り、中間派流水の様子を象る。南宋の哲学者朱熹に、「なぜこのように清いかと池に問えば、源泉があり流水が来る」と言う詩がある。「淵」のために流水を提供する川は、内陸の湖沼に向かい、大海には流れることがない。そのため、大禹が西北に向かって管理した弱水と黒水は、皆「淵水」であった。
甲骨文字では、羊は「祥」と同義である。古代は羊を祭神や先祖のための犠牲としたので、「羊」には「利益、吉祥」の意味がある。
甲骨文の洋の中の「」は、水の象形記号で、水中に沈んでいる二匹の羊が、温和、平静を表し、造字の本義は、水面が広大で、穏やかな事。古代人は広々として静かな水面を「湖」と言い、広々として果てしない大湖を「海」と言い、大海を「洋」と言った。「羊」は漢字では通常「祥(さち)」の意味がある。神官や巫女が祭祀の時に神に向かって巨細漏らさずありのままを言上することを「詳(くわしい)」、水面が広く穏やかなことを「洋(なだ)」、鳳凰が青空が穏やかに滑空(かっくう)する事を「翔(あまかける)」という。
古代人は「長江、淮河、黄河、済水」を、まとめて「四瀆」と言った。「瀆」の本義は、洪水の氾濫で災害をなすことである。
洪水の半ばのものを、甲骨文では「氷(冰)」と書き、それは静止して流れない水で、意味は液体の水が個体の氷(冰)に凍ることである。金文の「冰」は、会意文字で、二つの部分の組み合わせで、左が水で、水が凍って冰になったことをことを示す。右はの「二点の水」の、意味は増長で、それは水が凝結すると、体積が増大することで、元は滑らかな表面がアーチ形に変形する事。後に氷と関係のある文字は、冷、凌、凍、准、次、冲、决などで、これらは冰の形勢と多かれ少なかれ関係がある。
『説文解字・水部』は、「水、准(準)なり」と解釈する。「准」は「水平面」という意味であり、普(あまね)く天の下、静止した水面よりも更に平坦なものは何もない。水準面は鏡のように平らなので、そこから「平ら」という意味が生まれた。古代人が物体の平坦さを観測するのに「水」を常用した所以である。
「冲」と「决」は「冰(氷)」という字に関係があるのは、河套平原特有の「凌洪」に由来する。地図で見ると、黄河の本流は巨大な「几」の字に似ている。毎年初春になると、河套平原の上流にあたる蘭州付近で、黄河はもう解凍している。これと同じ時、「几「の字の頂点である勅勒川付近は、相変わらず一面氷結していて、万里雪漂という北国風景である。上流で破砕(はさい)した浮き氷はここに到着し、硬い厚氷に遮られて堆積し、程なく分厚い氷堰を形成し、水位上昇をもたらし、最終的に堤防を決壊(潰决冲垮)させる。
甲骨文の「冲」は、河川を表す「水」と方位を表す「中」から構成される。造字本義は、「中央にある激流がちょうど猛烈に河道を浸食している」である。『説文解字』では、「冲、水の逆巻いて揺れ動くなり」。
甲骨文の「况」は、洪水を表す「水」とちょうど跪座して話をしてる「兄」が組み合わさったもので、造字の本義は「地方役人が上級指導者に出向いて状況を報告し、洪水の増水期の水位状況を述べる」である。
「溢」の本字は甲骨文の「益」であり、水が入れ物から溢れ出る様子に似ている。「益」の「いっぱいになって溢れる。」という本紀が失われた後、篆文は「水」を追加して「溢」を別に作って代替とした。造字本紀は「入れ物が液体を満たし、更に中から溢れ出てきた」である。
甲骨文の「涵」は、水流と矢筒(やづつ」が組み合わさったものである。「函」は矢を詰め込んだ竹筒であり、「詰め込む」「盛る」「容れる」という動作を表す。「涵」の造字本義は「水を蓄える、水流を容れる」である。『説文解字』は「涵、水の色もきらきらと」水分豊富」である。『詩経』は「身のほど知らず潤沢に発す」と詩句を載せる。その意味は「潤沢が先にあって、機嫌を損ねるが後、先ず礼で兵は後」である。
洪水氾濫を一字で最も良く描写するのに甲骨文の「衍」に如くはない。この字は水流の「川」と四方八方に通じた十字路「行」を組み合わせであり、洪水が都市に迫って来て、大通りに沿ってあらゆる方向に溢れ出すことを表す。
周知のように、黄河が氾濫して災害になることは、代々の中国人にとってずっと身に染みていた悪夢であった。戦国時代以前はなおさらで、黄河下流の両岸には洪水を阻止する洪水防止堤防が築かれていなかった。黄河の水が三門峡を突進してからの15分ばかりの間に起きることは、檻から出て突進する猛虎にそっくりである。行きたいところに行き、流れたいところに流れるとうわけである。平穏無事な一都市が、突然やって来た大洪水に飲み込まれるのは日常茶飯事であった。この「衍」という字が描写するのは、やはり洪水がやって来たときの光景である。本来人に通行を提供する十字路が一瞬の内に洪水に飲み込まれるとは、恐怖そのものだ!
沉は、甲骨文で「沈」と同一の字であるが、甲骨文「沉」は氾濫最中の河川と、角を下ろした牛頭を組み合わせたものである。造字本義は、「牛や羊、家畜を川や湖に投入して祭りを行い、水害から免れることを求める」である。
治の金文は「辞」を借用する。字の主体は「乱」であり、両手が同時に物品を引き裂くことを表し、また、2人が丁々発止(ちょうちょうはっし)とやり合い、互いに反論するのを表すこともある。右上角の「司」は、主宰者、責任部門を表す。「治」の本義は、「政府部門が公道を維持し、混乱を鎮めて正常に戻す」である。篆文が別に作った会意文字の「治」は、主体が水と台(臺)であるが、土石が堆積した河道堤防を表す。造字本義は、「水道を開削し、堤防を修築し、水を引き入れて洪水を防ぐ」である。
河水が隠し持つ泥砂は水中で堆積し、小島を形成する。これを「洲」と呼ぶ。現代の世界地図上には、アジア洲(=州、以下同じ)、アフリカ洲、欧洲、オーストラリア洲、アメリカ洲があり、合わせて「五大洲」と呼ぶ。しかしながら古文の中の「洲」が指すのは、河川・湖水の間の小島であって、当今の世界の五大洲と同一ではない。
甲骨文中にある「洲」の本字は「州」であり、水偏(氵)がない。「川」と共有するのは、どちらも3本の湾曲した水流を持つことである。川の両岸は河岸を表し、中央の一画は水流である。中央の水流が指事符号丸を一つ加えると、河道中央の沖積砂州を表す。
篆文の「州」は、「川」の三画一つ一つの上に小さな丸を加えるとは、川の中央の小島、砂州を強調する。隷書の「州」は篆文の三つの小さな丸を三つの点に書き換えて、現在のような形に変成した。州が行政区画や地名専用の文字に変化し、「川の真ん中の砂州」という本義が失われると、篆文は原字に「水」偏を加えて「洲」の字を別に作り、川の真ん中の砂州を表すようにした。
おおよそ紀元前2103年、大禹は治水に成功して世の中の人の全力の推戴を得たために天子となった。大禹が治水に成功し、帝として即位した後、彼が行った第一の案件は諸侯との会盟であり、水域に従って管掌範囲を分割することであった。彼は各大水系の流れる方向に従って、天下の多数の方国と諸侯国を九つの行政区域、即ち冀、青、兖、徐、豫、雍、梁、荊、揚に分割した。それぞれの州は、中央派出の政府官吏により、各地の諸侯国を管理した。
演の三つの甲骨文と金文、小篆、隷書の演変
河川が源遠流長(源が遠ければ流れも長くなる)であることから「演」という字が生み出された。『説文解字』は、「演、長流なり」と説く。甲骨文の「演」の字を見ると、水偏に矢が一本であり、描かれた矢柄の符号は、川がこの前から流れてきて、遠方に流れゆくことを表す。篆文は矢柄の符号をねじ曲げて変形し、「寅」に改造した。古籍の中では、「寅」の字形は矢柄から継承しているが、このように「演」はもう「長流」という意味を持っている。一つのテーマを中心として話を展開することは、演説と呼ぶ。筋の長々とした話を選択することは芝居と呼ぶ。猿が数百万年かかって進化して人になるのは「演化(進化)」と呼ぶ。河川が大海に向かう途中の形態が絶えず変化することは、「演変(変転)」と呼ぶ。
水を手がかりとすると、永、脉(脈)、泳、派等の一連の漢字を引き出すことができるかもしれない。
「永」は「泳」の本字であり、その後「永」が「永久」の「永」となると、遊泳(水泳)の「泳」は、左辺に「水」偏を加えて表されるようになった。
初期の甲骨文「永」は中間が人で、四方は水で囲まれており、傍らに記事記号の「彳」で、「行進」の意味があり人が川の中で、流れに乗り遊泳していることを示している。古代人は水の流れの方向に向かって泳ぐと大変力が省け、遠くまで泳げることを発見していた。このため、「永」は「持続し続けることができる」の意味を派生している。
『六書故・地理三』には、「永は、水中を潜行する、これを永と謂う。」と言い、『説文解字』の永に、永は河水の長い流れで、「永遠」を代表する。その字形はまるで竪向きの河水同様に水源が遠く流れがあるようである。『詩経・周南・漢広』に詩句がある、「江の永きや、方(まさ)に思うべからず。」という。意味は、「長江は長い流れで、滔々と果てなく、小舟を漕い(こぐ)でも渡り切れなく、漢水は広く永く想像もつかない。」ことである。その意味は、「漢水はこんなに広く、泳ぐだけでは渡り切れないのである」。永字は「水流れ長い」から「深く長い」や、「久しく遠い」意味が派生し、今まで使われている。「永」の「流れに従って泳ぐ」という本来の意味が消失すると、甲骨文にはまた「水」偏を加えて、「泳」を作り本来の意義に代替した。
甲骨文で、「司と后」の関係のように、「派と永」はもとは同一の字であった。「永」を反体に書いたものが「派」で、意味は河川が多くの支流を分岐していることで、不連続を表す。「派」が「」に進化して単純な部首となると、篆書の派は更に「水」を加えて「派」をつくり代替した。従って、正当派、党派、派別、中間派、反動派、維新派等の言葉は、みな水流の分流から出ている同一の源である。
毛沢東は1927年に『菩薩蛮・黄鶴楼』を書いたが、その初めは「茫々たる九派 中国を流れ、沈沈たる一線 南北を穿つ(うがつ)。煙雨蒼々と奔(ほとばし)リ、亀蛇大江に鎖(つらな)る。」である。詩中に出てくる「九派」は、長江が湖南、湖北、江西を経て流れる九本の支流である。1959年、ある銭学坤という同士が毛沢東に手紙を書き、「九派」は、湘(湖南省)、鄂(湖北省)、贛(江西省)参照の九本の大河であり、究極どの九本かは、説も異なり、掘り下げる必要はない。」と回答した。
甲骨文では、「水」と関係のある文字はまだまだ多くがある、例えば:
「瀕」字の、右側は「頁」で、人頭を表す。左側は一筋の川で、中間には両足がある。いくつかを合わせて、人間が川辺を歩き、どのように渡るかを思案している様子である。
沮、甲骨文の「沮」の、左の「且」は、「阻」を省略した書き方で、「阻止」することを表し、右側の水は、河川を表す。造字の本義は、大河が前進する道路を塞いでいて、人をがっかりさせていることである。
渉、甲骨文の「渉」は渓流の両岸に足(止)をかける様子で、造字の本義は、水に濡れながら川を渡ることである。古代には徒歩で山を登るを「歴」と言い、徒歩で河を渡ることを「渉」と言った。
泅、初期の甲骨文の「汓(泅)」は「水」と子供「子」の組み合わせで、子供が河水の中を浮遊することを象る。造字の本義は、子供が河川で遊泳する事。後期の甲骨文「汓(泅)」は「水」を「川」と書いている。篆書の「汓(泅)は「子」を「囚(縄で縛られる)」に置き換え、遊泳を覚える時に、子供を浮遊物の上に縛り付けることを表している。
溺、甲骨文「溺」は泳げない「人」が、呑み込んだ「水」で咽せ込む(むせこむ)様子で、造字の本義は、水にはまって溺れ死ぬこと。初期の篆書「溺」は甲骨文文字の形を継承している。晩期の篆書「㲻(溺)」は「弱」(水に強くない)を「人」に代えて、水が苦手なために溺れ死ぬことを表す。
涂、甲骨文の「涂」の「水」は河川を表し、「余」は「途」の略書で、旅行を表す。造字の本義は、旅で水路を歩くことで、また水辺の泥土も指す。
「濤」と「滔」はもと同一の文字で、甲骨文の「濤」には怒濤が逆巻く形象がある。前面の「水」は、広く河海を指し、背面の「壽」は、長寿(壽)は、長命長寿、栄え続けることを表す。造字の本義は、広大な水域の無駄に大きい波の比喩。「濤」は、驚濤駭浪(波乱万丈)のような名詞となり、「滔」は、罪悪天に滔く=大罪)のような動詞となる。
耑は、音符であり意符でもある。「耑」の甲骨文は老人が杖を突いて気を付けて川を渡る様子である。「耑」の篆書は老人の長髪と、立派な鬚を強調し、歩く人が、慎重に河を渡る老人であること指している。造字の本義は、杖を突いて慎重に急流を渉ることである。「耑」を単純の文字としてから、篆書には「心」偏を加えて、「惴」に作り、小心不安を強調している。「水」偏を加えて、「湍」に作り、激流を表した。
洒、甲骨文の「洒」は「水」と「西」の組み合わせである。この「西」の字は、紐縄で編んだ網袋を表す。造字の本義は、古代人が地面を掃除する時に塵灰が舞い上がらないように、丸めた布に水を吸わせ、布を振り回して、地上に満遍なく水を振り落としたこと。古代人は、雨水が盆を傾けたように降ること(大雨)を「瀟」、雨水が優美に降ることを「洒」と言った。
尞は、本来森林の大火を表している。潦は、甲骨文の「潦」の、「水」は降雨を表し、「尞」は森林の大火を表す。造字の本義は、突然の土砂降りの雨が森林の大火を鎮火したこと。
彔、甲骨文「彔」の上部は井戸に架けられた滑車(かっしゃ)と水桶(みずおけ)を象り、水桶の中の一点は水桶に水があることを示し、下の三点は桶底から滴り落ちる水を象る。造字の本義は、水を汲む動作を表し、井戸に架けられた滑車を使って井戸の水を汲むことを表す。また井戸の水を汲む時、桶底にしっとりと、水がついていることを指している。「彔」の「水を滴らす(したたらす)」の本義がなくなると、篆書「淥」には「水」を加えて「淥」を作り代替し、「湿った物体の滴る水」を表した。
心は、動物の核心の内臓器官を表す。沁の、甲骨文は「」の下に二点の「氷」を加え、「心」を「胃」に代えて、胃で氷冷を感じる泉水を表している。ある甲骨文「」では「水の一部分」で氷に代えて、水流の小さい山泉を表している。造字の本義は、泉水は冬温かく夏は冷たく、夏は凉泉を飲むと、心中冷たく、大変心地が良いこと。
淡、甲骨文の「淡」は舌の味覚(みかく)ではなく、食品の温度を表している。それは冷たいことを表す「水」と、熱さを表す「炎」を合わせていて、造字の本義は、冷たくもなく熱くもなく、ちょうど良いこと。中和無味の、塩分が少ない食物や飲料の意味を派生している。
浴、甲骨文の「浴」は人間が水盤で、水しぶきを浴びる様子で、金文の「浴」は、「水」と「谷(渓谷)」の組み合わせで、谷川で水浴びすることを表す。
洗、甲骨文の「洗」は「止(足)」の周囲に四つの指事記号を加えて、足の指を水に漬けていることを表す。篆書の「洗」は「人」を加えて、「水」と「先」の組み合わせに書いている。造字の本義は、足を水盤の中で洗うことである。隷書の「洗」は篆書の「水」を「氵」と書いている。古代人は体を洗うことを「浴」、頭を洗うことを「沐」、水を洗うことを「澡」、手洗いことを「盥」、足を洗うことを「洗」と言った。
湿、甲骨文の「湿」は水を使って物干し台に架けた絹織物を染めることで、金文の「溼(湿)」は物干しを略し、「土」を加え、染糸とを地上に晒すことを表している。初期の篆書「溼」は金文の字形を継続し、晩期の篆書「濕」は「土」を取り「日」を加え、「糸を晒す」主題を強調している。
滋、甲骨文の「滋」は水溜り「淵」と絹織物「絲」の組み合わせで、造字の本義は、絹織物を染色池の色水に入れてゆっくり染める。金文は甲骨文の「淵」を「水」に書いていて、字形は「湿」と似ている。篆書の「滋」は基本的に金文の字形を継承している。隷書の「滋」は糸を連結して「」と書き、篆書の水を「氵」に書いている。絹織物を染めることを「滋」と言い、色のある絹織物に色を加えることを「潤」という。
「由」は「油」の本字である。甲骨文の「由」は油壺に油を注ぐことを象り、「」は油壺を象り、「」は油滴を象る。造字の本義は、動植物の脂肪組織や鉱物から精錬された黏滑質で、食用または燃焼用の混合液体である。篆書の「由」は変形が大きく、甲骨文の字形の油滴りを「十」に代えている。「由」の「油を注ぐ」本義が消失すると、篆書の油には「水(液体)」を加えて「油」を別造して代替した。
潢、甲骨文の「潢」は「水」と黄色の「黄」の組み合わせで、造字の本義は、黄色に発色した。溜まり水のこと。後に黄色の溜まり水で、絹の染色をする事を指した。これが「裝潢(裝璜)」の元の意味である。
浸、甲骨文「浸」は鞭を手にして牛を追いする様子で、牛の体の三点の指事記号は水しぶきを表している。造字の本義は、牛を追って川で水浴びさせる事である。
聒は、音符であり意符でもあり騒がしいことを表す。活、篆書の「活」は水流と騒々しい人を表す「聒」の組み合わせで、造字の本義は、水流が発出する音声で、山中で「ザーザー」と流れる谷水が、滔々と絶えることなく響いていることである。
干は、音符であり意符でもあり、狩猟器具で、体力活動を表す。汗、金文の「汗」は体液の「水」と体力労働を表す「干」と、田畑を表す「土」の組み合わせである。造字の本義は、体力活動で皮膚腺体が毛穴(けあな)を排出する塩分を含んだ体液である。
渇は、初期の金文の「渇」は「水」、「匃(袋)」、「口」の組み合わせで、造字の本義は、戸外労働の時に袋に備えた水を飲むことである。
「曷」は「喝」の本字である。曷、金文の「曷」は「曰(喋る)」、「人、哨兵」、「亡、つまり『氓』、流民」の組み合わせで、関所の役人が流出する人に尋問を進行することを表す。「曷」が単純な文字となると、晩期の篆書「喝」は「口」を加えて別に「喝」を作り代替した。造字の本義は、大声で尋問あるいは命令することである。