山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

中国山東省旅行、野球友好交流旅行、ゴルフ旅行、中華文化、歴史故事、中国野球、健康。

ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
当社の日本語WECHAT ID:18660355510。当社の日本語対応WECHAT IDを追加し、チャットでお問い合わせも可能です。

近戦冷兵器、接近戦の無火薬兵器(あなたの最初の漢字教材甲骨文)

甲骨文:

闘 争 兵 双 干 不 戈 戎 戒 専 搏 亡 父 斧 斤 欣 折 析 斫 祈 対 戉 戊 戌 咸 成 甲 冑 免 異 卒

現代常用漢字

匚 匠 戦 占 械 鬧 市 警 盾 矛 戟 冒 帽 冕 冠 兜 貌 佩 戴 誓 戚


戦争とは何か。
戦争とは、人類が掌握している一切の手段で、各種の武器を操作して敵対する防御態勢を殺傷、破壊を侵攻する過程である。
正しく第二次世界大戦のアメリカ軍の名将パットンは「永遠不変の戦術の原則はただ一つで、それは、最短の時間で敵に最大の損害を与えるために、可能な限りの一切の手段を尽くすことである。」と言っている。
戦という字は金文の「戰」に初めて見えて、左は「單(単)」で、弾弓(パチンコ)を指し、遠距離を射撃する武器である。右の「戈(か)」は、近距離の刺殺武器で、射撃、刺殺を表す。造字の本義は、古代の兵士は、弾弓(パチンコ)や、盾と戈を武器として命がけで戦った。篆書の「戰」は金文の字形を形象している。占は「佔」の省略で、占有、占領を表し、それで「戰(戦)」には武力で侵略し、武力で占有する意味がある。『説文解字』に、戦は、闘うなり。最も原始的な二人の戦いが、いかに展開したのかを想像すれば、素手(すで)での取っ組み合いであるが、これが甲骨文の「鬥(闘)である。甲骨文の「鬥」は二人の人間が向かい合って打撃し、左側の人は手を右に向け、右の人は手を左に向け、二人が対面して拳闘している様子である。篆書の「闘」は甲骨文の「」「」から「」「」と書いている。隷書の「闘」は篆書の「」「」分別から「」「」と書いて、両扉の門に似て、両手で格闘する様子は弱まっている。『説文解字』は「鬭(闘)」は、両士相対し、兵杖后に在り、斗の形に象る。」この中に出ている「兵杖后に在り」は、「斗」の上級版の「鬭」を指し、二人の間の「亞」は人口が集居している市村で、「斤」は格闘する人が手にする石斧である。
甲骨文の「爭(争)」は、対立してる二本の手の間に縦線(丨)を加えて、両手で物品を争奪していることを示す。造字の本義は、両人が引き合い、二人で争奪し、互いに譲らないことである。金文時代に発展して「爭」も、上下両手で耕筰をする持立犁(もったてすき)のようなものを争奪している。二つの形体の争奪する物は異なるが、「両手で争奪している」意味は同じである。
何を争うのか?先史時代の社会は「林間法則」を遂行し、生存競争と自然淘汰(とうた)で、適応者が生存した。人と人の間の関係は大変簡単であり、味方でなければ敵であった。味方が来れば酒と肴を振舞い、敵が来れば弓矢と石斧で迎えた。味方と敵の定義は大変簡単である。つまり「利益」(の関係)である。四字塾後の「熙熙攘攘(往来が盛ん)」は『史記・貨幣列伝』の「天下熙熙(ひろびろ)として、皆な利の為に来たり、天下攘攘(=混乱)として、皆な利の為に行く」に出ている。意味は、市場には賑やかに人々が往来し、天下の人は競い合った、例外なく「利」益という言葉を求めているということである。
篆書の「鬧」は闘争を表す「鬥」と賑やかな「市」の組み合わせである。造字の本義は、市に集まり値段の掛け合いをして、喧々囂囂と賑やかなことである。前の字は同様に、隷書の「鬧」は篆書の「鬥」を誤って「門」と書いている。
人と人との間には利益のためにあれこれ相闘い、最終的に闘争の結果で勝負が生まれる。勝利者が負けたものを縛り上げて連れ去ることが、「搏(ハク)、捕える)」であり、甲骨文は      、 「専」と書く。後に「専」は専用の文字となって、甲骨文の     「搏」は    「専」の傍らに動く片手     「又」を加え、手で捕まえて縛ることを示している。後に、金文    「搏」は本字    (専)の横に  「盾」を加えて、防護の範囲の広さを示したが、後に「博学多才」の「博士」(の意味)に拡張された。金文「搏」と「捕」の字形は複雑多様であるが、共通の特徴がある。全て武力闘争、戦場での全力殺戮、相手の捕獲(ほかく)を強調している。ある金文   「搏」は  「盾」を  「厂」に作り、ある金文   「搏」は   「干」を  「盾」に代え、ある金文   「搏」は   「戈」を   「盾」に代え、ある金文の   「搏」は   「戈」を   干」に代えている。造字の本義は武力での全力殺戮、敵捕縛獲得である。戦国時代になると、篆書の   「搏」は甲骨文字の形   を基礎に、また   手を加えて「搏」字が最終的に確定した。『説文解字』に、搏は索持(縄で捕獲する)なり。
「搏」字の変遷から、中国古代で最も使われていた兵器は、「盾(ドン、タテ)」「干(カン、刺股)」「戈(カ、≒鳶口)」「矛(ボウ、ほこ)」である。これらの兵器が出現すると、格闘方法は素手(すで)から対面の接近戦へと変化した。攻守双方が片手に矛を持ち片手に盾を持ち、全力の矛で敵の盾を打ち破り、自分の盾で敵の矛を防ぐ〜これが戦争で、略して「兵」という。
古代の「兵」の字は、兵器、兵士、軍隊、戦争という四つの意味があった。
なぜ「兵」の字には「丘」字があるのか。実際には、甲骨文の「丘」の字は小山が二つ並列しているもので、「兵」字とは全く関係が無い。甲骨文の「兵」は、両手「双」で「斤」を振り回す形で、「兵器」の象徴であった。金文の「兵」は甲骨文の戦斧「斤(斧)」を「斤」と書き、両手を「丌」と書き、祭祀用のお供え台を象っている。大篆の「兵」は金文の斧「斤」を「干」と書き換え、傍らに一人の「人」を加えて、兵が手に盾を持ち、戦斧を振り回し、前線で戦う一般兵士を強調している。篆書の「兵」は甲骨文の両手の形を保留して、上部の「斤」
を「斤」と書いた。隷書の「兵」は篆書の両手を繋げて「」と書く。『説文解字』には、兵は、械(かせ)なり。
械は、「器」と共に「器械」と称すことが多いが、実際には二つには区別がある。篆書「械」は木製の武器「木」と戈を持ち警備の身張り「戒」の組み合わせである。身張りは勝手に動くことが許されないので、「械」は行動を制限する道具、つまり木製の拷問器具である。『説文解字』の解釈は、械は桎梏(シッコク、手かせ足かせ)なり。字形は「木」を偏旁(意符)として採用し、「戒」は音符である。一説に、「械」は各種の巧妙な武器の総称であるという。また一節には、「械」は「持」の意味があるともいう。つまり他の物体を収納する工具を「器」と言い、他の物体を収容できないものを「械」と言う。
「器」は生産器具で、職人が工具を収納した筐(匡)が典型的な「器」である。金文「匠」は竹の箱「匚」と斧「斤」の組み合わせで、竹籠に斧を入れる形象である。造字の本義は、大工が斧や刀などの工具を入れた籠を背負うことである。篆書の「匠」は基本的に金文の字形を形象している。隷書の「匠」は篆書の「斤」を「斤」と書いている。『説文解字』には、匠は、木工なりと言う字形は「匚、斤」の会意文字を採用している。「斤」は、木工器具を製作する斧である。
「械」「戎」「戒」「警」は、みな「戈」字を含んでいて、軍隊と切っても切れない関係にある。
戎、甲骨文のいくさ「戎(えびす)」は兵士の基本装備の戈(ほこ)とたて「十(甲)」の組み合わせである。「十」は盾の握柄であり、護身のための盾を表す。金文の「戎」は甲骨文と字形は同じで、篆書の「戎」は金文の十(たて)を「甲」と書いている。『説文解字』に、戎は、兵器なり。
甲骨文「戒」の字体構造と「兵」は相似しており、「戈」と両手「双」の組み合わせである。造字の本義は、両手で戈を持ち、戦いに備える警戒である。金文の「戒」と、篆書の「戒」の字体構成の調整は、甲骨文の両手を並列して「卄」と書いている。『説文解字』に、戒は、戒(いましめ)なり。軍隊は時間を守って警戒し、戦闘に備えている。字形は「卄、戈」の会意文字で、両手で戈を持ち、意外な発生が警戒することを表している。
敬は、音符であり意符でもあり、警告を表す。後に「敬」の「警告」の本義が消失すると、篆書の「敬」には本字の下に「言」を加えて新たに「警」字を作り代替した。造字の本義は、危機を知らせる、知らせを発出する事。隷書の「警」は篆書の「」を略称して「言」としている。『説文解字』に、警は、戒めるなり。
甲骨文の「不」は、竹槍の先端の切っ先「辛」を象る。古代の中国平原では竹が豊富に産出し、人々は切り取った竹の一端を鋭利な切っ先に削って、原始的な刺殺武器とした。ある甲骨文の形象は手「又」に「不」を持つ刺殺動作である。
別の解釈では、この字の本義は竹竿に切っ先を切り出す事ではなく、主幹を切り取った竹木の、切株は用が無くなるので、「不」字には否定の意味があると言う。軍隊が行動計画を話合う時、肯定の意見を「干」とし、否定的な意見を「不」とした。
甲骨文では、金属の刃先の無い木の叉を「干」とし、木の棒の先に刃をつけたものを「戈」とした。
干は、甲骨文「干」の先の「Y」は長い柄の木の叉を表し、下の「十」は握りを表す。造字の本義は、遥か昔に木の叉で狩猟の刺股を製作したもので、最古の格闘用武器でもあった。後世漢字は簡略化され、「狩猟の刺股」を表す、「乾湿」を表す「乾す」、「盾」を表す「幹」は合併して「干」字に纏められた。例えば「邢天(けいてん)干戚(かんせき)を舞わし猛志固(もと)より常に在り」と言う言葉の中の「干「は、実際に指すのは「幹」で、また民間で言う所の「攩箭牌(言い訳、後盾)」でもある。古代人の作戦に干(盾)を持って矢石を防ぎ、剣矢を突いて前進したので、干冒(犯罪を犯す)、干扰(カンユウ=邪魔する)、干豫(干与、関係する、干渉(介入する)や「毫不相干(全く関係ない)」「干你甚事(何かをする)」などの言い方があった。
後になると、「干」字には様々な用途があり、周代の人は篆書の「盾」を作り「攩箭牌(矢除け)」とした。「盾」字の「厂」は護身の矢除けを指し、「十」は「又」の略字であり、手に持つことを表し、「目」は瞳であり、頭部を指している。造字の本義は、古代の兵士が作戦の時に使用した護身の器具で、戈槍の進攻を防御できた。兵士は片手に盾を持ち頭部を守り、片手に戈槍を持って進行した。『説文解字』に、盾は盾牌(シュンハイ=たて)なり。身体を隠して、頭部を保護する武器である。
敵人を消滅させことは、自身を保護することしかなく、原始人はこの一点を早くから理解していた。そこで彼らが発明した重要な保身器具が、盾であった。初め、それは木枠に獣皮を張っただけであった。戦士が衝突する時、通常は左手に盾を持ち、右手で石斧を振りかざして人を打った斬った。その後、人々は木板を組み合わせて、木盾を製造することが多くなり、古書ではそれを「干(幹)」と称した。中国大陸には柳樹が多く、柳は軽く、しなやかで、加工がしやすかったので、まな板や、木の盾を作る理想的な材料であった。南方の山間にはフジの花が多く、柳のひごや藤ひごで編んだ盾はよく見かけられる。明末清初まで、中国南方の歩兵は藤編の盾を使用していた。この種の盾は丈夫な藤条(ラタンのひご)で編んだもので、大型の藤の盾は人の背の高さの半分ほどもあった。ひご盾の製作作業は織布と変わりなく、太ひごを縦に並べて「経(縦糸)」として、細ひごを上下均等に盾ひごの背面に並べて「緯(横糸)」とし、長方形の盾を編み込み、その後ひごの盾の後ろ中央に、持ち手を括り付ければ、完成する。
亡、甲骨文「亡」は指事文字であり、逃亡する「人々」の手に指事記号の「丨」を加えて、手に盾のような防護服具を遮蔽物としたことを表している。造字の本義は、兵鎸兵士が盾を手に命からがら逃げる様子で、後に広く「逃亡」することを指した。古代ギリシャの言葉に「兵士が一旦戦場に出れば、盾を持って帰るか、盾を持って倒れたら、自分の盾に横たえられ運ばれる。」と言う東洋、西洋に限らず、戦場からの離脱は最も恥ずべき行為である。だから、この「亡」は侮蔑(ぶべつ)の言葉でもある。
古来、戦争は残酷である。人々は戦争と言うと、往々にして銃声が轟き(とどろく)、廃墟、流浪困窮を思い起こすが、これは(漢詩の賀鑄『搗練子·砧山面瑩』の)「酔いて沙場に臥すも君笑うこと莫かれ」であり、「戍(守備)人猶お玉関の西に在るが如し」である。文明世界の戦争に対する容赦ない批判は、戦争を発動した人が往々に戦争の仲介者であり、殺人の実行犯と言うことである。原始的な氏族から部落集団へ、各自が治める都市国家から天下を統一した帝国へ、国家の誕生ごとに、文明の繁栄ごとに、それぞれの文明の繁栄は、実際戦争とは切っても切れない関係であるとは特に知らないのである。
古代の氏族と部族は、田園牧歌の幸福な生活を過ごしたわけではなかった。それは天も法もない時代であり、どの人の頭も、部族間の生存空間を争奪する原始的戦争と言う、始終ぬぐい切れない闇に覆われていた。中国最初の戦争は二つあり、一つは炎帝と黄帝の「阪泉の戦い」であり、二つは黄帝と蚩尤の「涿鹿の戦い」である。古代史の伝説では、5,000年前に、中国北方の黄河流行きには、主に華夏と、東夷二つの部族集団があった。華夏部族は黄土高原西部の河套(かとう)地区に発祥し、後に黄河に沿って東進し、黄河の中下流域に至った。この集団はもともと黄帝と炎帝の二つの独立した部族連盟であり、阪泉の戦い以後、黄帝の指導の下に統一を実現した。
『史記・五帝本紀』の説では、黄帝は五帝の最初である。夏、商(殷)、周の始祖はみな黄帝の子孫であるので、黄帝は中華先住民の「人文の先祖」として認められている。東夷集団の活動は現在の山東省、河南の東南、安徽中部の一体で、伝説中の九黎、三苗、三危などの原始部落は、みなこの集団に属していた。黄帝集団が東漸すると同時に、蚩尤が統率する東夷集団も淮河流域から北上して華北平原に進入し、両大武装の移民集団は正面衝突し、中国の歴史に影響する重要な合戦が発生したが、それは「涿鹿の戦い」であった。
『史記・五帝本紀』の記載によれば、涿鹿の戦いが継続した時間は長く、動員力も多く、戦争の暗黒さと激烈さは、歴史上全く空前のものであった。涿鹿の戦いの勝率えてから以後、黄帝を初めとする華夏集団は中原地区での統治者としての地位を強固にした。当初黄帝に従って戦いに当たった多くの北方人は、その後「百姓」と呼ばれた。黄帝が征服した九黎部落の民衆は、「黎民」と呼ばれた。現代の百姓の内え鄒、屠の2姓は、伝説では黎民の直系の子孫と言われている。しかも中国西南の諸山に生活する苗族、瑶族の群衆は、今でも祖先の蚩尤を祭祀している。
蚩尤は「涿鹿の戦い」で失敗し殺されたが、彼の功績は人々には忘れられなかった。伝説では中国の兵器は蚩尤が最初に発明したもので、『吕氏春秋・蕩兵』には、「蚩尤兵を作る」と記載するが、蚩尤は最初に金属を使用して兵器を作り技能を理解して、彼は「五兵」:殳、戈、戟、酋矛、夷矛と言う五種の殺人専用の猛威の武器を発明した。「五兵」の製作を以外にも、蚩尤は古代においてずっと軍神として後世の人の尊敬を受け、中国古代では蚩尤を「戦神」と称した。『史記』の記載では、秦の始皇帝は、現在の山東省東平県陸監郷で、祠を建て「戦神」蚩尤を祭った。蚩尤の地位は「日神」「月神」に並び、見るべき地位の高さである。漢代から唐代まで、中国の軍隊には出兵の前には戦神蚩尤を祭祀する習俗が受け継がれてれおり、唐代の兵法家李筌の著作『神機製敵太白陰経』には、蚩尤を称賛する祝詞があり、歴代の軍隊が蚩尤を祭祀するゆえんは、この先祖が「金を練(ね)り兵を為(つく)り、革を割(さ)きて甲を為る。旗織を樹(た)て、鼓鼙(こへい)を建てる。戈矛を為り、戟盾を為(武器と兵隊を作った)」たたえであった。
これら五種類の古代兵器の中で、「戈」と「殳」は既に甲骨文に現れており、㦸と戈はやや遅れて金文に現れました。この順序は、中国の古代冷兵器の発生と発展の経過を一面から裏つけています。

早期の甲骨文(殳)は、戦士が大きな大錘(ハンマー)を持ち、敵の頭を砕く準備をして射ると言う非常に明確な画像です。殳に関連する文字、殴、毀、毅などは、戦争や殺戮に関係しており、戦車の部品である車輪の中心部部分からも人を殺すために使用されました。

戈は、柄の垂直方向に葉物を結びつけた「干」です。早期の甲骨文(戈)には、上部に「干」があり、下部には武器を握って形が変形した手「又」があります。この字の本来の意味は、「フック刃物m、平らな頭の戟類の武器です。


戟、金文「戟」は「戈」と「夕」で構成されて織物、「夕」は「肉」を表し、人体を表します。この字の本来の意味は、「分岐した枝先の刃物を持つ戈であり、矛と戈の複合武器で、前面と側面の両方に刃があり、突くことも横に振ることもできる」と言うものです。ある金文で「戟」と書くもので、偏旁「倝」は指揮官が使用する旗印の付いた戟(ほこ)であり、軍隊を示し、旗の下の「戈」は、古代の基本的な武器である。『説文解字」に、戟は、枝有るの兵(武器)なり。『周礼・考公記』に、戟は、長さ一丈六尺なり。

矛、金文の「矛」は幅広で尖った切先のある長柄の武器を象る。柄の上には輪になった留め金があり、柄に結び付けやすくなっている。造字の本義は、尖った切先の長柄の刺殺武器である。『説文解字』に、篆文の矛は変形が激しく、尖った切先の形象を失っている。『説文解字』は、矛が、指すのは「夷矛」と「酋矛」である。
『周礼・考公記』ノ記載によれば、「五兵(五種の兵器)は夷矛(長さ二丈四尺)、酋矛(長さ二丈)、戟(長さ一丈六尺)、殳(長さ一丈二尺)、戈(長さ六尺六寸)と為す。」以上の各種の兵器の寸法は周代の度量衡である。当時の一尺は現在の199.1ミリメートルに相当する。『考公記に記録された兵器を現在の長さに換算すると、夷矛は4.8メートル、酋矛4メートル、戟3.2メートルで、長兵器に属し、殳の長さは12.4メートル、戈は1.3メートル、短兵器に属す。
「五種兵器」には刀(単刃)、斧、剣(両刃)は含まれていないが、これは古代人の見落としでではない。石包丁や石斧は蚩尤以前にもう存在していて、それは原始社会の人類が狩猟と農耕に従事するのに必要な生産器具で、殺人専用の「兵器」ではなかった。剣に至っては、青銅器時代の産物であり、石器時代はまだ出現していなかった。
原始社会の時期には、生産器具と兵器は未分化であった。しかし生存競争のために、氏族あるいは部落間では常々流血の暴力衝突が発生したが、この時には刃先の有る道具が、人類の相互の斬殺に当然使われた。戦争中には、例えば弓矢、石斧などのもともと狩猟や農耕の生産器具は、次第に殺人の兵器へと変化した。当時複合弓はまだ出現しておらず、木弓石矢の殺傷力は大きくなかったので、ぶった切る石斧は最重要な武器であった。

石斧の最初の名は「斤」であり、甲骨文の「斤」は、長い柄の先に鋭い刃先の有る斧である。石器時代の石斧は、持ち手が無く、叩き切るために、先を尖らせた刃があり、もう一方は滑らかで、右手で握りやすくしたものであった。この種の重量は一定であったため、古代人は「斤」を重量の単位として、1斤16両で、現代の500グラムに相当する。古代人は両者の分量を「半斤八両」に相当するとしたが、もし現在の1斤10両の換算であれば、半斤は5両でしかなく、それは間違えでである。
甲骨文の   「父」は   石斧の種類の道具を持つ様子で、手持ちの道具    を表す指事符号であり、本義は「この道具」であり、また「手に斧を持つ男子」をも指している。古代の母系社会では、男性の地位は女性よりも低かった。「父」は「母」のために働くに卑的な役割でしかなかった。「父」は成年男子の通称である。例えば「漁夫(猟師)」、樵父(きこり)、屠夫(肉屋)」である。「父」は家中の年長者で、実父も包括するが、みな後に出来た呼称である。母系の氏族社会では出生して、育った子供は、自分の母親とその兄弟のおじしか知らず根本的に自分の父親が誰かは知らなかった。五千年前の炎帝、黄帝の時代に、中国は父系氏族社会に進入した。それ以来、「父」は工具を持って働く見知らぬ人ではなく、子供の父で、一家の主であり、家庭の掟(おきて)を掌るものとなった。それで『説文解字』は「父は、矩(ただ)すなり。家長にして率い教える者なり、又(=手)で杖を挙げる(字に)従う。」と言う。
後に、甲骨文「斤」をこの字に加えて、新たに「斧」字を造り、造字の本義を、ある種見守り、また刻む鋭利な器具であることに代替した。斧は斤に従い、父(フ)の音で、樹木を切り倒す長柄の斧を指している。甲骨文の「斧」は左が「父」で右が「斤」であり、「斤」先が傾いて、曲折を誇張している。「斤」の頭部は円弧の形で、矢じりを誇張している。矢じりの指す方向は、刻む対象であり、甲骨文ではまた「斫」と書く。
甲骨文の「斫」は「石」と「斤」の組み合わせである。その他の通り、石ころで斤を作ったもので、もちろん石斧の事である。晩期の甲骨文「斫」は岸壁「厂」と「斤」「又」の組み合わせである。造字の本義は、工具の斧を振りかざして、山石を開鑿することである。この時代の斧は、石を打ち砕くので、当然石ころよりも硬い、青銅の斧でなければいけない。

析、甲骨文の       、  、   、 「析」の左側は「木」であり、右側は「斤」である。造字の本義は、斧を持ち木を割り切ることである。「分析」の言葉は木を伐り割ることで、後に中世的な事物を見て研究することを一般的に指すようになった。

折は、本来木を切ることを指したが、後に損傷すること指した。甲骨文の「」の右側「」は、二つに裁断された樹幹「」(干)で、左側の「斤」は樹を切る長柄の斧である。造字の本義は、斧で大樹の中間を切り落とすことである。
祈、甲骨文「祈」は「單(単)」と「斤、戦斧)」の構成である。「單(単)」は「戰(戦)」の省略で、出征作戦前の祭祀儀式を指している。神霊に自軍が勝利する事の、加護の幸福を求めることを象っている。
誓、金文の誓とは、「生」「言」「斤」の三つの要素で構成されています。この字は、古代の兵士が戦場で武器を手に集結し、共に軍法を制定して宣言することを意味します。「誓」と言う字の本義は「約束すること」であり、「誓文」は、ある約束をするための文章のことを指します。『説文解字』によれば、「誓は、約束することである」とされています。「人の頭上にはただ一つの空があり、空にはただ一つの太陽しかない。従って、一つの帝国には一つの声しかあってはいけないのだ。殺人は非常に手間暇がかかる行為である。後になって、家や国を思うようになってからは、同類を殺してはいけないと考えるようになった。歴代の支配者たちは、非合法的な行為を規制するために最も厳しい厳罰を制定してきた。これらの罰則が存在することで、人間が同種を殺す手段は秘匿(ひとく)的かつ巧妙にならざるを得なくなった。平和時には殺人は重罪であり、戦争時には殺人は大いなる功績となる。人々を集めて軍隊を編成することは簡単だがこれ彼らを戦場に連れて行って人を殺すことは難しい。このために、人々を集めて誓いを立て、軍法を宣言し、士気を鼓舞(こぶ)する必要がある。
甲骨文「」は、兵士が武器を腰にぶら下げた様子を表しています。この文字の本義は:両軍が威嚇し合い、互いに譲らない状態」であり、戦場での対峙や、切磋琢磨する様子を表しています。また、「針鋒相対」と言う言葉の意味も含まれます。
各部族の戦士達は、目的が武器として使用されるようになるに連れて、石の斧の形状を意識的に改良し、より殺傷力を持たせるために努力しました。長期の実践から、鋭い刃を持つ石の塊や鋭い先のついた棍棒は、丸い石や鈍器よりも威力があることが分かりました。古代の狩猟者達は、獲物を狙う際に、草叢に身を隠すか、木や岩から突然飛び降りることで、より容易に成功することができることを理解していました。こうして、人類は、当時の技術水準器と自己の能力に適した特定の手段を使用して、武器を発明、改良、選択、使用するという典型的な方法を確立しました。
考古学的証拠によれば、原始的な石器の武器改良は、二つの全く異なる発展方向を歩んで来ました。「殳」という甲骨文字には、二つの書き方があり、それは次の意味を表しています。
一つ目の方向は、刃を長くし、鋭い「椎」を作ることでした。この種類の武器は、尖った「殳」に由来し、甲骨文は「」と書かれました。
二つ目の方向は、刃を無くし、重い「槌」を作ることでした。この種類の武器は、丸い「殳」に由来し、甲骨文は「」と書かれました。

「隹(椎)」は、元は鳥のくちばしを指し、また鳥が尖ったくちばしでつつく事でもある。甲骨文は「木」と「隹」の組み合わせで、木の柄の石鎚で、先端に鋭利な切っ先があり、形状が鳥のくちばしが同じものを表している。『説文解字』には「椎、所以撃つ」その用途について言い、『広韵』には「椎は、棒椎(棒で打つ)なり」と言い、その形状を指す。椎は刺の付いた円柱状の物体であるので、古代医学では、上が細く下が太い背柱を「脊椎」と呼び、上から下へ、頸椎(けいつい)、胸椎(きょうつい)、腰椎(ようつい)、尾椎(びつい)を含む四つに区分していた。各々の節の間の連結点を「椎間板」という。

一種の原始的兵器として、「椎」は打つ、指す、ぶった切れたが、あまりに重かったので、それぞれの功能が突出しているわけではなかった。しかも兵器には重みを薄くし、刀刃を長くして、最小の重量で最大の刀刃を獲得して、ようやく殺傷能力が大幅に高められた。山東と江南の一部の地区の新石器時代の遺物には、穴を開けられた石斧が見かけられるが、その形態は一般の石斧に比べ薄く、刃半円形で、湾曲が大きく、また上端に両肩を突き出して、明らかに森林伐採や農耕には適していないので、すでに兵器へと転化している。この種の殺人専門の広刃の石斧が、つまり原始兵器の「戉」で、のちに金属を見つけて以来、「鉞」と称した。この系統の古文には、戈、戊、戌、戚、或、咸、成が包括される。
甲骨文の中の、戈、戊、戌、の三つの字は形義がとても似ている。「戈(ほこ)」は戦争に使う斧のようなもので、大きい戈を「戊」、非常に大きい戈を「戌」と言う。甲骨文の「戈」の成り立ちは「干」と「又」の組み合わせでできていて、「かえし」のついた平らな刃の、近接戦闘用の兵器の一種である。これは古代中国の特有の兵器で、後に、戦争の象徴となる。
甲骨文の戉、戊、の二つの字は同じ意味で用いられる。もともとは二つとも「戉」と書かれていた。「戉」の字は、幅広の刃を持つ戦闘用の斧を表す「」と、木の柄を表す「」で構成され、三日月形の刃を持つ柄の長い大形の斧を象った字である。『説文解字』の語釈には、「戉は、大きな斧である。」と書かれている。


戉、戊、の二つの字に分かれたのは、第十代商王の名前「太戊」が初めである。これより、「戉」は兵器を表す字として使われ、「戊」は天干(十干)のうちの一つの字として使われるようになった。商の時代、時間と方角を記録するために天干と地支(十干と十二支)が用いられた。天干は甲·乙·丙·丁·戊·己·庚·辛·壬·癸の十字、地支は子(ネズミ)・丑(うし)・寅(とら)・卯(うさき)・辰(たつ)・巳(ヘビ)・午(うま)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(いのしし)のそれぞれ動物と対応させた十二字で構成され、紀年を表すことができる。例えば、甲午、丙辰、辛亥、などがある。天干のうち二字ずつが、東・西・南・北・中、の五つの方位を表しており、それぞれの物質は、木、金、火、水、土、の五種類であり、それぞれの色彩は、青、白、赤、黒、黄、の五色である。具体的に言えば、東の方角が甲乙木,西の方角が庚辛金,南の方角が丙丁火,北の方角が壬癸水,中央が戊己土、である。『説文解字』の語釈には、「戊は、中宮なり。六甲五龍、相拘絞するに象る」と書かれている。
青銅器時代に入ると、大斧の多くは銅製となったので、「戉」の傍らに「金」を増やして「鉞」と書いた。『玉篇・戉部』は「戉は、また鉞に作る。」と言う。石斧が変化して殺傷兵器となったのと同じで、鉞の形状も同様で、大同小異の違いでしかない。『説文解字』には、「大なる者は鉞と称し、小なる者は斧と称す。」と言う。鉞は大きく重く、古代には儀式の武器であり、君主や権利統治者の地位の象徴である。周の武王が殷の紂王を討伐する前に、「牧野」で『尚書・牧誓』の主役の登場は「王は左手に黄鉞を杖つき、右に白旄(飾付けの旗)を秉りて持って靡(なび)かす。」と鮮明で美しい。
戌、甲骨文の「戌」の字形は「戉」と比べて、柄が長く、先端の戦斧も更に大きい。これは車を使った戦いの大型の戦斧で、向かうところ敵なしの猛威な武器である。ある甲骨文の「戌」は戦斧「」を編成し戈状(長い柄)の「」に変形している。金文の「戌」は甲骨文の字形を継続している。篆書の「戌」は戦斧「」を「」と書いている。『説文解字』に、戌は、消滅するなり。殷商時代には「十二地支」で1年12か月を記録し、子(鼠)、丑(牛)、寅(虎)、卯(兎)、辰(龍)、巳(蛇)、午(馬)、未(羊)、申(猿)、酉(鶏)、戌(犬)、亥(豚)と区別している。「子」は一年の始まりであり、陰気が最も盛んな11月に始まる。その中で、「戌」は九月を表し、この時期は夏を経過して、天地間の陽気はもう薄弱(はくじゃく)となり、各種の作物も成熟するが、陽気は下降して地中に移転する。
戚、甲骨文の「戚」は両刃に二列の鋭利な歯を配列した「戉」「鉞」を象っている。金文の「戉」は戦乱を指し、字形は「干」「戈」「八」の組み合わせである。「干」「戈」は全て武器であり、終わることのない、「戦争の大動乱」を表している。「八」は「兮」の略筆であり人民が戦乱の苦労を深く受けて嘆息することを表す。ある金文の「戚」は「虍」と「犬」の組み合わせで、猛獣悪犬は狼虎が人に対するなに憚(はばか)ることのない横行を例えており、人民の戦乱に対する恐怖と危惧を表している。春秋時代の秦人の詛楚文の「戚」は「戈」旁に「川」を加えて、河川の堰塞(せきとめ)や、洪水氾濫の災害を表す。この「戚」字は、戦乱と自然災害の「悲戚(心痛)」の意味を表す。後に篆書の「戚」は金文の「干」と「八」を合成して「」と誤って書いたが、後世訛変して、「これが我慢できるのならば誰が我慢できるのか、誰(叔=小父さん)が我慢できるのなら小母さんが我慢できるのか(=我慢できない)」と言う、かえって口当たりが好い、変な言葉を作り出した。『説文解字』に、戚は、戉(まさかり)なり。
古代人は城砦を守備する軍隊を「或」と言い、全ての兵を「咸」と言った。甲骨文の「咸」は「戌」と「口」の組み合わせであり、造字の本義は、万民が兵となり、武装して敵を抑えることである。

成、甲骨文の      、 「成」は   戌(兵器)」の下に指事符号   「丨」或いは    を加えて、兵器がら血が滴ることを象り、休戦することを表す。 金文の成は    を書く、篆書の成は   を書く。隷書化の楷書は    を書く。造字の本義は、戦乱が平定され、兵隊武器を収蔵することである。


戦闘に専用した石斧の、製作工芸は研究され、器形も大変精巧であった。硬く鋭利で、色艶の美しい玉鉞を作るために、人々は往々にして最も美しい石材を誠心誠意で選び、眞心を込めて磨き上げた。この種の美しくまた実用的な兵器の王様は、当然と人々に大変好まれ、王侯や将軍丞相の権威と身分の象徴となった。後に、王権の「儀礼武器」へと変化した。

史上最大の玉制兵器は、1974年に湖北黃陂県盤龍城で出土した「大玉戈」であり、湖北省博物館の目玉の収蔵品である。この玉戈は殷商前期の文化財で、長さ94センチメートル、幅14センチメートルである。この大きい玉の兵器は「玉戈の王」の称に堪えるものである。この1メートル近い玉戈は、もし長柄を身に付けても、振りかざすのにどれほどの腕力が必要なのであろうか。このような兵器は基本的には戦闘には用いない、将軍の儀式用の祭器であった。

玉鉞は戦場を離れて、贈り物として扱われた。もう一つのより重要な理由はは、優れた石材が非常に希少であるためです。刃を長く保つためには、石材の厚みを減らす必要があります。しかし、通常の石材は強度が限られており、薄くても脆い(もろい)石斧は使いものになりません。敵の武器に当たるとすぐに壊れてしまいます。古代人は「美石は玉」と言いました。優れた石材は全て玉と呼ばれます。玉鉞を作るために使える大きな玉石は、世にも珍しいものです。従って、大軍隊を装備するために玉鉞を使用することは不可能です!この問題を解決するためのもう一つの方法は、石斧の刃を取り除き、それを石鎚に変えることです。これが、歴史上最初の大規模な軍隊を装備するための兵器「殳」、または釘頭鎚、大頭鎚と呼ばれるものであり、後に狼牙棒に発展しました!雲南省江川李家山の古墳からは、青銅のハンマーの頭部を備えた狼牙棒が四つ出動しました。青銅の棒の長さは約40㎝で、断面は八角形で、表面には一列に突き出たピンチがあります。棒の頂部には突き出たヤリ先があるものもあれば、平な頂部に直接作られたものもあります。ハンマーの後部には、鋳造時に円形の孔が予約され、「銎」と呼ばれる木柄を挿すことができます。これらの狼牙棒(金砕棒)の重量は6キログラム前後で、通常は1.3〜1.6メートルの長さであり、長身の屈強の大力士ならば、歩行戦では大変使い勝手が良かった。
人の頭蓋骨は大変脆く、もし釘頭の金づちで強打すれば、頭蓋骨骨折となり、医療水準が遅れていた古代には、死を待つ道しかなかった。これまで発掘された原始社会の古代墓の中で、矢に撃たれて死んだり、刀で斬られた人は多くなく、大部分の人は頭部を強く打ち、頭蓋骨を打ち砕かれていた。頭部の傷害を防止するために、人々は冑や帽子を発明した。

古代の兵士の防具には、足を守る「介」、体を守る「甲」と「盾」、頭部を守る「冑」があった。古代の冑は牛の頭の骨で作られ、甲骨文は「冑」と書いた。原始社会の戦士の姿を描いた漫画は、大低「牛頭」の形を付けている。この形象は空想の副産物ではなく、確実な考古遺物の証拠がある。
初期の金文の「冑」は頭頂(由)に帽子「 帽」の組み合わせで、立て羽を装飾した特殊な帽子であり、首領の地位を表している。頭頂の「由」字の、頭頂に、羽毛或いは纓飾りを指すことのできる縦長の管があることを示す。造字の本義は、古代の武士の頭上の防護兜(かぶと)である。
牛骨製の冑を被ると、敵人の鈍器での傷害を避けることができるが、これが「免」である。甲骨文の        、 「免」の上部の        、 「冑」は、牛角を装飾した帽子で、帽子の下は    「人」で、被って陣に出る兵士を象る。造字の本義は、牛角のある、硬い牛の頭骨で兜を作り、傷害を免れることである。後に「免」字は分け与えられるという抽象的な意味を含むようになり、周代以後、人々は帽子を被る動作を「冠」とし、帽子をとる動作を「免」と言った。「免」字は「帽子をとる」動作から、「取り除く、削除する」という意味が引き出された。例えば代金不要の食事を「免費(代金免除)」、学生が常日頃良い成績で、試験の不要なことを「免考(交差免除)」、古代の敗軍の将が休戦申出の時に「免戦牌(≒)」を掲げ、最終的に避けられない時には「難免(止むを得ず)」と叫んで一刀の一撃を待ったなどである。
「免」字の「帽子」の本義が消失してから、篆書の「免」には「冃(帽子)」を加えて「冕」字を作り、代替した。造字の本義は、古代の官吏には数株で装飾し儀礼帽があった。『説文解字』に、冕は、大夫(五位の官)以上の官吏が被る儀礼帽である。冕冠の天板は大変長く、(前後に)金と玉の飾りを下げ、両側は耳当ての玉石(瑱王付きの紐)で懸ける。四字熟語の「冠冕堂皇(見かけは立派)」の中の冠冕とは、この種の美しい儀礼帽を指し、堂皇は堂々とした様子である。字面からは、表面上は厳粛で盛大高明な様子を形容しているが、実際にはそれほどでもなく、侮蔑の意味をも含んでいる。少し陰日なたな感覚もある。
冒、金文の      、 「冒」は帽子と眼「目」の組み合わせである。造字の本義は、頭上に被る帽子である。後の「帽」字の「巾」字の偏旁は後に付け加えられたものである。「冒」字を細かく見ると、上部の冠は、「曰」の字ではなく、中の横二本線は、「冂」の両側には接触していない。これは会意文字であるはずである。内側の横二本線は、頭髪を表し、「目」は頭を表している。頭には頭髪があり、頭髪はある物「冂」で覆われているが、何で覆われているのであろう。つまりは頭上の帽子である。
後に「冒」字は、冒火、冒煙、冒尖のように「頂上から沸き起こり、上昇する」という意味が派手した。後に動詞として専用され、冒犯、冒険、天下の大悪事を冒す(冒天下之大不韪)のように、「頭に付け、受け継ぐこと」を示した。また冒充、冒名頂替(詐欺師)のように、「身代わり、偽造」を意味した。

冠、篆書    「冠」は帽子    「冃「と    「人」   「寸」の組み合わせであり、造字の本義は、古代の男子の成年(20歳)の儀礼で、手に帽子を持ち頭上に乗せること。隷書の冠は    を書く。


兜(かぶと)、特殊な指事文字で、篆書の「兜」は「皃」にあり、つまり顔の「貌」の両側の左を「C」で囲い、右を「」で囲った指事符号で、頭部を包むことを表している。造字の本義は、古代のヘルメットの一種で、頭部を包んで保護する器具である。
甲、甲骨文の         、 「甲」の内部は   「十」で、甲の部品の連結部を示す。周囲の口は、戈矛殺傷を防御する甲片である。金文の甲は    、   、 を書く。篆書の甲は   を書く。造字の本義は、古代の兵士が作戦時に体を保護する硬質の甲殻で、矛槍の進攻を制御することができた。兵士の身は甲に着けて防守し、手に矛槍を持って進攻を展開する。『説文解字』に、甲は「天干」を用いて時を計り、位を定めるなり。甲は東の方位を表し、陽気が芽生えて、万物の間を運行し、字形は草木が芽生える時の種殻を被っている様子である。
頭部、体幹と腿を防護するための護身甲具は、獣皮、柳の枝、パッキン付下当ての布織物或いは木製品等を含めて、最初は、とても多種の材料から製作された。最も良く使われたのは皮甲であり、最初は非常に粗末であったが、一揃い獣皮を身に纏うと、敵の木矛、石斧の攻撃を食い止めることができた。
もし熊、虎、豹類の猛獣ならば、敵を威圧したり恐怖を抱かせる特殊な効果を起こすことも可能だった。後になると、人々は次第に皮革を裁断して衣服を製作するようになると、原始的な皮甲もできた。2塊の生牛皮を縫い合わせると、麻袋のようになる。上手く縫った皮袋底部の中央に半円形の開口部をつけると、きl襟の出来上がりである。左右の両側に小さな口を開けると、袖穴から腕を出すと、この胸、背中を見る最も原始的で簡素な牛皮甲に上手く穴を開けたことになる。
『三国志演義』の中には、「諸葛亮、籐甲兵を燃やす」の故事がある。西南の蛮夷が使用した籐甲は、堅く強靭な籐の蔓を編んだ物で、太くて頑丈な籐の蔓を切り、日干しにしてから繰り返し桐油に浸し、籐甲にする。刀で切ろうにも入らず、水に遇っても浸みない。
当時の夷人の服装は極めて簡素で、男は裸体で裸足であった。籐甲の覆いを着るのは、まるで涼しい長袍を着るようなものである。更に籐兜を被って、頭部、胸部、腹部等重要な部位を全て有効に保護する。このような部隊を相手に作戦を行うのは誰しも頭が痛い。ただし、籐甲には致命的な欠点があった。非常に火に弱いのである。諸葛亮は誘敵深入ノ計を採用し、蛮人の統帥者兀突骨(ごつとつこつ)を峡谷に入り込ませた。峡谷には前もって大量の硫黄、火薬等等引火物を埋設してあった。敵が策に嵌るのを待ってきれいさっぱり焼き尽くした。

趙国胡服

秦将軍服

秦旗兵、歩兵服

前漢将軍服

前漢旗兵服

魏晋軍服

南北朝武士服

隋武士服

唐武士服

唐武士服

五代武士服

宋武士服

遼武士服

金武士服

西夏武士服

元武士服

明武士服

清武士服
青銅器と鉄器時代になると、金属は広く兵器の製作に用いられたが、比較は甲に最も使われている材料であった。当然防御力を増強するために、銅鉄等の金属の薄板を作り、革甲に鋲(びょう)打ちし、防御効果を増強した。歴代の史書の記載によれば、この金属を鍛えて金属板と兜を作るのは、大変な技術と工程を要した。それで薄い銅鉄の薄片を皮革の鎧兜の表面に縫い付けて、鱗片(りんぺん)ノ甲を作る方が更に簡単で実用的であった。
『周礼・考工記』の記載によれば、周代の鎧を製作した職人を「函人(カンジン)」と呼ばれ、製品には犀甲、兕甲(ジコウ、雌のサイ)、合わせ甲の三種があった。犀甲は7片を繋げ、兕甲は6片で作り、合わせ甲は5片を綴って作った。犀牛甲は100年使え、兕甲は200年使え、合わせ甲は300年使えた。およそ鎧を製作するには、まず人の体形を計り、その後鎧を製作した。鎧の上下のサイズと、重量を同様にした。鎧の長さは腰回りの長さとした。どの種類の材料であっても、木槌で鍛えるが、鍛えたが悪いと堅固とならず、鍛えすぎると皮革のきめを損傷し、鎧が曲がりやすく強度が足りなくなる。
鎧を調べる方法は、まず鎧の部分部分を連結する系縄を通すために、開けられた穴が、部品の強度を保つ為に出来るだけ小さいこと。次に部品の内側を見て、滑らかに磨かれていること。次に鎧の連結部分が、上下が揃い、縦横が真っ直ぐであること。
鎧は袋にしまった時に出来るだけ小さいこと。広げて持ち上げた時、鎧の面積が広大に見え、身に着けた時に、部分が擦れないこと。鎧に開けた穴が小さいほど、鎧が感情であることがわかり、鎧の中が平たく磨いてあれば、鎧の材料が良いことが判り、鎧の縫い目が真っ直ぐであれば、作りが良いことが分かり、袋に小さくしまってあれば、その縫製が精緻(せいち)であると知れ、持ち上げれ展開した時に幅広であれば、それは麺もく躍如で、身に着けた時に部分部分
が擦れなければ、戦士は楽に動けるのである。
宋の仁宗の時代に編纂された『武経総要』の記載:宋代の甲冑は、鉄甲、革甲、紙甲の三種類似である。まず騎兵専用の鉄甲は、値段が最高で、重量が重く、鉄甲ごとに鉄片1,825枚を使用し、その内小手には504枚、総重量4.2キログラム。脛当てと腰当は679枚で、総重量9.2グラム。兜と錣(しころ)は310枚で、総重量2.4キログラム。以上に兜と眉庇(まゆびさし)などの付属物を加えると、総重量は24.5キログラムとなる。このように一体の鉄甲を打ち出しででき、総工費は、銀38両である。皮甲は、犀牛皮甲、水牛皮甲、絹で裏打ちした黄牛革甲の三種がある。後の一種は「合わせ甲」で、最も多く作られ、一体18両である。最後は紙甲で、この甲は柔軟な桑皮紙を四角に折りたたみ、内側に絹を挟み、鎚打ちで柔らかくし、半寸の厚さに加工する。一寸に4鋲を打ち雨水の浸透や、弓矢も通りにくい。一体白銀10両である。
中国の古代には、人々は近距離使用の武器や玉石製品を身に付けることを「佩(ハイ、帯びる)」と言い、兜を頭に被ることを「戴(タイ)」と言った。護身用の兜はパーカーシャツのように、頭部の開口部を身に掛けるようであったので、「載」とした。武士は甲冑がなければ、戦場でも生き残れなかったので、「内心から発する喜び」を表す「愛戴(敬愛する)」という言葉ができた。
佩、金文ノ「佩」は二つの「巾」と「凡」という識別しづらい符号があり、「巾」は「屮 」の反体で、腰帯(ベルト)に掛けた兵器を表す。「凡」は「」の連続したもので手に武器を執る「丮(キャク、持つ)」の動作である。下の「」は一本の精巧な絹の帯である。造字の本義は精緻な絹の帯に玉製品の装飾を架けることである。
「異」は「戴」の本字であり、甲骨文の「異」は人が両手で面具を頭上に被ることを象る。後に「異」は「奇異」を代表する専用字となり、「面を戴く」本義は消失した。人々はこの字の上に「土」(「土」は「大」の誤写)と、「戈」(刑具)を加えて、新たに「戴」字を作り代替した。
戴、大篆「戴」は武器を手にして踊って、作戦前に巫師(かんなぎ、憑代)を招いている様子である。巫師は手に塚(戈)を執り、顔面に仮面をつけている。篆書の「戴」は「戈」に「才」を加えて、樹木で作った高い台、木枠を建て、威圧効果のある絞首台を表している。隷書の「戴」は篆書の字形の中の絞首台の「才」を誤って「十」と書いている。この「戴」字の本義は古代の巫師の作法や死刑執行人が面具を被って刑を行うことで、後に動詞に使われ、「頭に被る」或いは「シャツを頭から身に付ける」動作を派生した。例えば戴高帽(帽子を被る)、戴眼鏡(眼鏡をかける)、戴罪立功(罪滅ぼしに手柄を立てる)、披星戴月(朝から晩まで働く)がある。ひどく恨むことを「父を殺の仇は、共に天を戴だかず(父の仇は生かしておけない)」という。心に留め、心から支持することを、愛戴とか、恩徳を感載すると言う。例えば『国語・周語上』に「庶民は武王を欣戴するに忍びず」という。
甲骨文の「卒」字は、服装「衣」とぐるぐる巻きに交錯する記号「爻」の組み合わせである。この「卒」の字は、鎧片を縫い合わせた衣服で、鎧を着た兵士を象徴している。ある字形には鎧片の間に小さい点があり、鎧兜を銅の鋲で固定し、また鎧片の系穴を示している。中国古代の多くの原始氏族の送葬習俗では、使者を埋葬する時に、生前に身に付けた工具や、甲冑、戦斧と弓矢、馬や戦車までを含む武器などを持ってゆく必要があった。どの時代でも、皮革や金属で作った甲冑は大変貴重で、誰の甲冑も人ごとの特徴がある。一人の武士が無くなると、人々はその人の甲冑を見ることができなくなるので、「卒」は不幸と「死」が付き纏っている。造字の本義は、死亡後に死体を収めて、急死、生没年月のように、葬儀に備えること。後に『韓非子・解老』に「人は生に始まり死に卒す。」というように終結の意味が派生した。冷兵器時代の戦争は非常に悲劇的であり、所謂「白い刀が入り、赤い刀が出てくる」、「将軍は百回の戦いで死に、強い男は10年で戻ってくる」。従って、人々は最前線に命を落とした兵士が「九死一生」の「卒子」と呼んでいます。『説文解字』の解釈は、卒は、官庁の使用人が来いてた衣服に「卒」字を書いたとしている。「卒」は、小役人の衣服に記された身分の記号である。
この時代の部落兵士は、既に原始的な兵器であり、最も古い攻撃武器と防護装具でもある甲冑と盾の量産を始めていた。この開始時点で相当完備していた兵器体系は、新石器時代時代晩期でもある堯舜禹の時代にほぼ完成していた。夏朝建国の初期になると、軍隊の原始兵器は、攻撃、防御を同等に重んじる体系を形成していた。以下の両類を含んでいる。

第一類は攻撃性兵器であり、遠射兵器、格闘兵器と体を守る兵器を含む。

1、遠射兵器: 主要なものは、弓箭、箭端に取り付けられた石、骨、カラス貝製の箭鏃で、穿透力と殺傷力が強い三棱錐体磨製石鏃を使用していた。更に「飛石索」で投擲(とうてき)する石球もあり、泥土を焼成した陶球さえも使用していた。
2、格闘兵器:劈斬で敵を殺す藉鉞(せきえつ)、斧。突き刺す骨矛と石矛。敵を叩く大木棒、歯刀の付いた石錐(多頭石斧)。また、鉤爪で敵を殺すのに用いる石矛もあったかも知れない。
3、防身兵器:石頭或いは獣骨で製作した匕首、短矛。また、極めて少数ながら鈍(なまくら)な刃の銅製匕首もあった。

第二類は防護装具である。主要なものは盾と甲冑であり、多くは籐木、皮革等の材料から製作された。

原始的兵器が日に日に成熟するのは、当時の人類社会発展の全体的趨勢(すうせい)と正に相関関係があった。生産力の向上、余剰産品の出現が私有製の芽生えを促進し、人々の富と権力にたいする貪欲さを刺激した。また原始戦争の頻度と凄惨さを日々増大させると、鋭い殺人道具と自分を守る防衛装具を更新しようという需要も増大し、原始兵器が日に日に発展しただけでなく、体系を形成し始めた。このことは、残酷さと激烈さを増す戦争が人々の頭に浮かぼうとしていたことを意味していた。